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第10章 契り(4)
 南門に到着した華琳が見たのは、異常な光景であった。
 
 かつて林があった場所には、もうもうとした土煙が上がっている。ここで『何か』があった――否、『戦い』があったことは、確かめるまでもなく明らかなことであった。
 
 目を凝らせば、普段は門の中から見える林の木々が『消失』している。そのすべてが、ちょうど大人の胸あたりの高さですっぱりと切断されていた。
 
 思わず、華琳は門の外に飛び出そうとする。だが、その彼女の袖を掴む者がいた。振り返った彼女の目に、稟の顔が映る。稟は氷のような表情で、ゆっくりと首を振った。
 
 怒鳴りつけようとして、口をつぐむ。既に、稟が自分を止めた理由に気づいている。
 
 そう、彼女は『慶次郎を見捨てろ』と言外に述べているのであった。予州牧たる曹操とは無関係の人間として、見捨ててしまえと。そして、場合によっては、慶次郎が何かを言う前に斬り捨ててしまえと。見れば、稟が庁舎を出る前に命じていたのだろう。南門の内側、城壁沿いには親衛隊が待機している。
 
 彼女を予州牧に任じた正使を――実際には、ほとんどを副使がその役割をこなしていたのだが――、こともあろうにその任じられた予州牧の配下が斬りかかったとしたら、それは厳罰では過ぎない。予州牧の地位をそのまま取り上げられてもおかしくない失態である。
 
 だが――。
 
 華琳は稟の手を振り払う。そして南門の外には向かわず、城壁に上る城門近くの階段を駆け上った。まずは、状況の正確な把握が必要だ。彼女の背中を、稟と風が追う。
 
 風が吹いた。土煙が晴れていく。華琳は目を見張る。土煙が晴れた後に現れたのは、切断された丸太の上に並んで座る二人――一緒にまんじゅうをほおばる慶次郎と呂布の姿であった。
 
◆◆◆

「だから、誤解だと言っておろうに」
「……馬は嘘つかない」
「まんじゅう、もう一つ食べるか?」
「……二つ」
「ほれ」

 呂布は慶次郎からメンマまんじゅうを二個受け取ると、それを一個ずつ口に入れた。その両頬がリスのように膨らむ。そして、もきゅもきゅと咀嚼し始めた。
 
 とりあえず得物を振るうのを止めた女性を見て、慶次郎は安堵のため息をつく。鉄弓を試すために城外に出ていた彼は、斬りかかられた時に腰に差した長刀と背負った鉄弓以外の武具を持っていなかった。
 
 必死で鉄弓を使って目の前の女性の猛攻を避け、林の中を動き回った。そして林の木々のほぼすべてが切断されたとき、女性の腹が壮大に鳴った。それを機に、何とか休戦にもちこんだのである。
 
 慶次郎はちらりと後ろを振り返ると、そこにいる『彼女』に恨み言を言った。
 
「松風。そろそろ、このおなごの誤解を――」
「……呂布」
「何じゃと」
「……私の名前」
「おぬしが?」

 思わず目が丸くなる。これが、あの三国志最強の武人――呂布なのか。確かに、先程までの圧倒的な武は、常人ならざるものであった。だとしても、このリスみたいな顔をした生き物があの呂布だとは――。そんな慶次郎の背後から、猛然と近づく気配がある。
 
「そこの男ー!恋殿から即刻離れるのですー!」
「む?」
「ちんきゅーきーーーっく!」

 右方向から飛んできた物体を、思わず慶次郎はその右手で叩き伏せた。その物体は哀れ、めり込む勢いで地面に衝突する。鈍い音が立つと同時に、空気の抜けるような声がした。
 
「へうっ」
 
 慶次郎は地面に目をやった。見れば、それは十代前半とおぼしき少女である。その少女が、水辺から離れたカエルのように口から泡を吹いて、ぴくぴくと動いている。どうやら、気を失ったようだ。
 
「――しまった」
「……陳宮」
「ちんきゅう?」
「……一緒に、来た」

 ごくんと口中のものを飲み込んだ一騎当千は、その右手を嘗めながらぼそりと言った。
 
◆◆◆ 
 
「――桂花。これは一体、どういうことかしら」
「は、はい。私にも何が何やら……」

 桂花は首をひねって見せる。陳宮の依頼で許近くにある屯田制の村を案内していた帰りであった。都城近くまで戻ってきた時、いきなり陳宮が馬から下りて駆けだしたのだ。桂花は一人取り残されて呆然としたが、城壁の上に華琳たちがいることに気づき、ここまで上ってきたのである。
 
 華琳は、困り果てた。この状況で、どう対応しろというのだろう。傍らに立つ二人の軍師に問う。
 
「稟。私たちはどうするべきかしら」
「……正直に申しまして、現状では何とも」
「風」
「そうですね~。どんな状況にあるのか……ここから見ているだけではどうにも」

 そうなのである。慶次郎と正使の呂布は、一見すると喧嘩をした後で仲直りしたようにも見える。並んで座り、まんじゅうらしきものを一緒に食べている。
 
 ところが、そこに現れた副使の陳宮はいきなり慶次郎に跳び蹴りを浴びせてみせた。そしてすぐさま、虫のようにはたき落とされている。この人間関係や、いかに。
 
 華琳が対応に迷っているうちに、慶次郎は気を失ったらしい陳宮を肩車すると立ち上がった。そして一緒に立ち上がった呂布に対して、何か話している。
 
 呂布が頷くと、慶次郎は鉄弓を小脇に抱えて歩き始めた。どうやら、兵士が出入りする東門に向かって移動するつもりのようだ。彼の後ろを、呂布、そして松風が続く。
 
 どうやら、最悪の事態は避けることができたようだ。華琳は安堵のため息をついた。しかし、このまま放っておくわけにもいかない。
 
「風」
「はい」
「あなたに、あの三人の監視を任せるわ。――しばらく、目を離さずにいなさい。何かあったら、すぐに報告するように」

 華琳はそう命じると、遠ざかる三人と一匹の背中をじっと眺めた。

◆◆◆

 揺れている。
 
 陳宮――音々音が目を覚ました時、最初に感じたのはそのことだった。眼下に、人の頭らしきものがある。どうやら、肩車をされているようだ。
 
 懐かしい。
 
 そう、思った。記憶にはない、その感覚。遠い昔、誰かに肩車され、歩いた。
 
 それは、遠く地平線が見えるような平原で。確か、隣には優しい目をした誰かが一緒に歩いていたような気がする。
 
 そして、自分がしがみついたその頭は汗と脂の匂いがして。自分の両足を支える手の感覚は大きくて、ごつごつしていて――優しかった。

 記憶にないその人物の名を呼ぶ。
 
「父上――」

 そしてまた、意識が遠のいた。
 
◆◆◆

 音々音が再び目を覚ました時、そこは喧噪の中だった。食べ物の匂いがする。
 
「おう、ようやく目を覚ましたか」
「???」

 音々音は動転する。その声は頭上からした。目の前には、料理が一杯に乗った食卓がある。そして視線の向こうには、両頬を食べ物で膨らませて咀嚼している恋の姿が見えた。
 
 自分は――座っている?
 
 その割には、視線が高い。目の前の恋とほぼ同じ高さだ。自分が座っている椅子に視線を下ろした。
 
 椅子ではない。誰かの太ももであった。
 
「――っ!」

 ようやくわかった。自分は誰かの膝の上に座っている。その人物こそ、先ほど声をかけた――男?
 
 慌てて上を見る。そこには、必殺のちんきゅーきっくを仕掛けた相手がいる。
 
「なー!!!」

 思わず膝の上から飛び降りようとした彼女の体を、男が両手を使ってがっちりと固定した。
 
「急に動くな。頭を打っているかもしれんのだ」
「のわー!!!」

 自分でも動転していることがわかった。まずは落ち着かねばならない。音々音は目の前にある水の入った容器に手を伸ばし、それを一気に飲み干した。
 
「こりゃ!」

 男がいきなり、音々音の手から容器を奪い取った。なんて失礼な男……だ……あれ?。
 
「これは、酒じゃぞ。子どもが飲むものではない」
「子どもでは……ないのですぅ……」

 そう言うと、音々音はばたりと顔を食卓に伏せた。
 
◆◆◆

 気がつけば、辺りは既に薄暗かった。床の上に敷かれた布の上で、横になっていたようだ。体に、布団のようなものが掛けられている。ほてった顔に、涼しい風が当たっている。その風の方向に目をやると、そこにはゆっくりと左右に動く扇子があった。
 
「う……ん」

 逆側から、声がする。寝返りを打つと、そこには敷物の上に大の字になって寝ている恋がいた。自分が目を覚ますのを待っていてくれたのだろう。
 
「……っ」

 頭が痛い。思い返すと、水と思って飲んだ液体は酒であったようだ。しかも、かなり濃度が高かった。あのように透明に澄んだ酒を、初めて見た。
 
「無理をするな」
「!」

 もう一度、寝返りを打つ。そこには、扇子をゆっくりと左右に動かす男がいた。音々音の枕元に座り、風を送ってくれていたらしい。その男は扇子を床に置くと、側に置いてあったお盆の上の湯飲みを音々音に差し出した。

「水じゃ。飲め」
「……」

 音々音は無言で湯飲みを受け取ると、寝たままの格好でゆっくりとそれを飲み干した。体の熱が冷めていく気がする。

「……ありがとう、なのです」
「礼には及ばん」

 そう言うと、男は再び扇子を手にして音々音に風を送り始めた。心地良い。意識がまた、遠のきそうになる。うつらうつらしながら、音々音は言葉を発した。
 
「あなたは……誰なのですか」
「わしか。わしは、前田慶次郎という」
「まえだ、けいじろう……」

 ――どこかで聞いた名前だ。
 
「……慶次で良い」
「慶次……」

 ――まあ、どうでもいいか。
 
 音々音は黙り込んだ。おだやかな時間が流れていく。
 
「のう」
「……何ですか?」
「おぬしの父上は、わしに似ているのか?」
「……?」
「いや、おぬしがな。わしの背中にいるときに、そう呼んだものでな」
「……そうでしたか」

 ぼんやりとした意識のまま、記憶を探る。そういえば、誰かに肩車されていたような気がする。あれは現実の出来事だったか。
 
「さあ……どうでしょう」
「?」
「ねねには、両親の記憶が無いもので」

◆◆◆

「……物心ついた頃には、いませんでした」

 何でこんなことを話しているのだろう。きっと、あの澄んだ酒のせいだ。じゃ、仕方がない――。音々音は勝手に納得すると、自分の生い立ちをゆっくりと語り始めた。
 
 北方の僻地で五胡の侵入を防ぐ守備隊の兵士をしていた父と、現地人の母の元で生まれたこと。
 
 生まれてから半年ほど経った頃、大規模な五胡の侵入があり、父はそれを防ぐために国境に向かったこと。
 
 母は自分を知人に預けた後、父の元に戻っていったこと。

 そして守備隊の兵士たちは――全滅したこと。
 
「……だから、ねねには両親の記憶が無いはずなのです」
「……そうか」
「そうですか。そんな風に呼んでましたか」
「……」
「なぜ――でしょうねえ」

 気がつけば、男は無言になっている。音々音は男の顔を見上げた。その瞳は優しく、哀しい。その瞳を見て、音々音は男のことが知りたくなった。

「慶次殿」
「……ん?」
「慶次殿の……ご家族は?」
「わしか?……そうじゃな。妻がいた」
「……」
「でも、死んだ。今は……天涯孤独じゃな」
「天涯孤独?」
「ああ。この空の下、家族はおらん」
「……ねねと一緒ですね」
「ああ。言われてみればそうじゃな」

 二人は顔を見合わせて微笑む。
 
 窓からは月の光が差し込んでいる。扇子の風が心地良い。まだ酒が残っているのか、あまりものが考えられない。――ああ。なんて素敵な夜だろう。まるで、夢のような。そして夢であるならば、戯れを。

「……おほん」
「ん?」
「それでは寂しい慶次殿のために」
「うむ」
「――ねねが、娘になってあげましょう」
「娘?」
「ええ。心から感謝するといいのです」

 音々音は寝転がったまま、胸を張ってみせる。その姿があまりに可愛くて、慶次郎は思わず笑ってしまった。
 
「む」

 音々音が顔をしかめてみせる。その顔すら愛おしい。そうか、これが娘というものか。
 
「ああ。感謝しよう」
「えへん。それで良いのです。――ねねの、わたしの真名は音々音。忘れては、なりませんよ?」
「ああ。――音々音。まずはゆっくり休むが良い」
「はい。それではお休みなさい」

 そう言うと、音々音は満面の笑顔で微笑んだ。
 
「――父上」

◆◆◆

 じんじんとした頭痛とともに、音々音は目を覚ました。知らない天井だ。頭を押さえながら、体を起こす。右側には恋が体を丸めて眠っている。
 
 ここは、どこだろう。宿舎ではないようだが……音々音は首を振る。
 
「おう、起きたか」
「あ、おはようなのです」

 挨拶を返しながら、音々音は差し出された水の入った湯飲みを受け取る。一気に飲み干すと、それを返した。
 
「あれからよく眠れたか、音々音」
「ええ、おかげさまで。まだ頭が痛いですが……って、何ですとー!!」

 音々音は目の前の男を指さす。確か、この男は恋と一緒にいた男で――。そして、そして――。音々音の顔がじわじわと赤くなる。
 
「――愛娘に、そう言われると悲しいのう」

 慶次郎はにやりと笑ってみせる。

「う、な、な」

 一気に目が覚める。あれは夢ではなかったのか。昨晩のやりとりが蘇る。わ、私は確かに、この男を――音々音は頭を抱えた。
 
「はううー!!!」

 音々音の煩悶の声が、早朝の許の街に響いた。
 
◆◆◆ 華琳の日記

 慶次の屋敷に正使の呂布と副使の陳宮が逗留して一日目。昨日は、陳宮が酒を飲み過ぎて倒れてしまったらしい。
 星には、慶次の屋敷が朝廷の使者の宿舎になったと伝えた。そして、慶次が供応役を務めると。明らかに不満な様子だが、どうにか納得してもらった。
 呂布と陳宮は、しばらくの間逗留することに決めたらしい。副使の療養に努めるというのがとりあえずの理由だ。なお、正使と副使以外の関係者は洛陽に戻っていった。
 風によれば、三人は屋敷でゆっくりとした時間を過ごしたとのこと。ちょっとうらやましい。

 二日目。慶次が、呂布と陳宮を連れて許の城外へ遠乗りに出かけたとの報告があった。目的地は不明。
 風によれば、松風に乗った慶次と陳宮、そして赤兎馬に乗った呂布は、恐るべき速度であっという間に監視の視界から消えたという。このまま慶次がいなくなってしまったらと思うと不安になる。

 五日目。慶次たちが戻ってきた。ほっとする。聞いたところ、以前私も連れていってもらったことのある臥牛山まで遠乗りに行っていたとのこと。
 風によれば、三人はまるで家族のように仲むつまじく見えるという。何だか納得いかない。
 
 六日目。三人は連れだって、一日中許の街を散策していた。美味しい店巡りをしたようだ。『流流楼』料理長の流琉が、呂布の食欲は底なしだと話していた。
 風によれば、呂布と陳宮の素性を知らぬ街の住人たちの間で、彼らが慶次の妻と娘であるとの噂が広がっているという。何だ、それ。
 
 七日目。相変わらず、正使と副使は慶次の屋敷にいる。一体、いつまでいるつもりなのだろうか。そろそろ、私も慶次と一緒に過ごす時間が……。
 
◆◆◆

 執務室で華琳が不機嫌な表情で日記を書いていると、訪問者があった。春蘭である。華琳は筆を置くと、春蘭と向き合った。
 
「どうしたの。春蘭」
「はい。あの…」
「……ふん。あなたも会えなくて寂しくなった?」
「は?華琳様には会えなくて寂しい方がいらっしゃるので」
「!……今のは忘れて。で、何かしら」
「はい。その――星が」
「星が?」
「はい。荒れておりまして。訓練する兵士たちが、怪我する勢いです。聞いてみれば、慶次殿の屋敷が朝廷の使者の方の宿舎となったため、この一週間帰れずにいるとのこと」
「……ええ」
「やはり、枕が違うとよく眠れぬのでしょうな」
「……」
「そこでですな。いつ頃、使者の方たちは帰るのかを確認させていただきたく」
「――私の方が、知りたいわよ」
「は、そうでありますか」

 華琳は、半目になってほおづえをつく。そこに、風が入ってきた。
 
「報告いたします~」
「今度は何かしら」
「はい。これから、朝廷の使者の方たちが出立されるようですよ」
「!」
「見送りは、慶次のお兄さんだけで結構だそうです」
「……そう」
「ほう!それでは、さっそく星に知らせて参ります」

 春蘭は笑顔を浮かべると、執務室を駆けだしていった。
 
◆◆◆

 南門の外。三人が初めて出会った地で、慶次郎は恋と音々音に別れを告げていた。
  
「本当に、いいの?」
「ああ。赤兎馬もそれが本望じゃろう」
「……ありがとう」

 恋は慶次郎に礼を述べると、後ろを振り返った。そこには、威風堂々たる赤兎馬が控えている。
 
 人中に呂布あり、馬中に赤兎あり――そう賞されたこの一人と一騎は、初めて出会ったときからそれが運命であったように惹かれあった。彼らの仲人を務められたことに、慶次郎なりの感慨がある。
 
「……ねねも、お礼を言う」

 恋が音々音に声を掛ける。彼女にしては、珍しい行為だった。
 
「ふ、ふん!お、お礼なんて……言うことはないのですぅ!」

 音々音が、真っ赤な顔でぷいと顔を横に向ける。本当は、感謝を伝えたくてうずうずしている。
 
 彼女がこの年齢で軍師たりえているのは、その才能によってではない。その努力によってである。若くして両親を失った彼女にとって、依るべきは自らの力のみだけだった。その力を、音々音は自らの子ども時代を放棄することで培ってきたのだ。

 この一週間、楽しかった。とても、とても、楽しかった。この男は、自分がどんなに嫌がっても、『子ども』として――娘として扱ってくれた。かわいがってくれた。甘えさせてくれた。
 
 本当は、嫌じゃなかった。物心ついた時には既に失われていた場所が、埋まっていく。心が震えるぐらいに、うれしかった。涙が出るくらいに、うれしかった。
 
 だからこそ、その感情を素直に認められない自分がここにいる。この男の愛情が、嘘だったら。偽物だったら。朝廷の使いに対する供応に過ぎなかったら――そう思うと、恐ろしかった。
 
「のう、音々音よ」
「な、な、何ですか!」
「――いや。陳宮」
「へっ?」

 気がつけば、目の前の男は優しい顔で自分を見つめている。思わず、口が開いた。
 
「――戯れも、ここまでじゃ」
「……」
「わしのわがままに付き合ってくれたこと、礼を言う」
「あ……」
「達者でな。おぬしの息災を、心から祈っておる」

 そう言うと、慶次郎はくるりと背を向けた。そして、南門に向かって歩き始める。
 
 あの背中が遠ざかる。思わず、音々音は走り出した。そして、その太い左足にしがみつく。
 
「……陳宮。危ないぞ」

 男が前を見たまま、優しく言う。もう、止まらない。ここで素直になれなければ、一生後悔する。
 
「……男なら」
「男なら?」
「約束を、守る、ですぅ」
「……」
「ねねを、わたしを――娘にすると言ったではないですか」
「……音々音」
「やく、約束を……」

 もう、声が出なかった。気がつけば、視界がぼやけている。体が勝手に震えていた。両手が慶次郎から離れ、垂れ下がる。
 
 慶次郎はゆっくりと振り返ると、音々音の前に膝をついた。目の前に、涙と鼻水に塗れた『娘』がいる。
 
「……そうじゃったな。すまん、音々音」
「ほんと、ほんとです。――父上は、意地悪です」
「ああ、本当にすまん」

 そう言うと、慶次郎は優しく音々音の頭を撫でた。音々音が心地よさそうに顔を上げる。
 
「音々音よ、小指を出せ」
「――小指を?」
「ああ。こんな風にな」

 慶次郎は右手を軽く握ると、小指を伸ばしてみせる。それを見て、音々音も同じように右手の小指を伸ばした。
 
 慶次郎は自分の小指と音々音の小指を絡ませる。そして、唄うように言った。
 
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」
「?」
「わしの生まれ故郷の誓いでな。約束を絶対に守る『契り』じゃ」
「……父上」
「それじゃ、もう一度な」
「はい!」

 音々音がにっこりと笑う。
 
「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」」

 仮初めの父娘の誓いは、何度も何度も繰り返された。それはまるで――永遠の別れの運命を、必死で変えようとするかのようだった。
「はじめに」を含めて、今回の更新で計50部になりました。ここまで続けられるとは、正直思っておりませんでした。皆さまの温かい応援のお言葉のお陰です。今後ともよろしくお願いいたします。
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