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第10章 契り(3)
 華琳が慶次郎と共に黄巾賊を破ってから、一年が経った。

◆◆◆

 時は五月、巳の刻(午前十時)あたり。徐州は下邳、庁舎の中にある会議室に北郷軍の主な面々が集まり、文官の孫乾から昨年度の州の収入についての報告を聞いていた。

「……以上のように、残念ながら昨年度の収入は約一割減少しました」
「そんなに減っちゃったの?」

 上座に一刀と並んで座る桃香が驚きの声を上げる。桃香の発言を受けて、武官の列に連なる白蓮が手を挙げた。

「やっぱり、四公六民の租税率に惹かれて冀州に移った農民がいたんじゃないかな」
「袁紹殿の租税引き下げの影響かどうかはわかりませんが、かなりの数の農民が徐州から逃散したことは事実です」

 孫乾は竹簡に目を落としながら淡々と答える。彼は、一刀の前以外では常に丁寧な言葉で話すのを常としていた。

 孫乾の報告を聞きながら、一刀は腕を組んで考え込む。大きな失政をした記憶は無い。租税率は五公五民より下げることはできなかったものの、『天の知識』を生かした農業技術を導入したし、市場の振興も図った。評判もそれほど悪くはなかったはずだ。

 ――なぜだろう。そこで、朱里と目が合った。何か言いたげなその瞳を見て、一刀は問う。

「朱里。何か、気づいたことがありそうだね」
「はい。まだ、推定に過ぎませんが」
「それでかまわない。話してくれないか」
「承知しました」

 そう言うと、朱里は立ち上がった。そして、咳払いをすると話し始める。

「まず、逃散した農民の多くは地主である富農に雇われた『小作農』であるという点に注目すべきかと存じます」
「そうなのか、孫乾?」
「――はい。確かにそうですね。前々年度に比べて、州内の小作農数は約二割程減少しています」

 一刀の問いに、孫乾は竹簡をめくりながら答える。それを聞いて、一刀は朱里に問うた。

「……その理由に、心当たりは?」
「ございます。ですが、その前に隣国は予州、曹操殿の戦略について話したく存じますが――よろしいですか?」
「曹操さんの?」
「はい」

◆◆◆

 一刀の了承を得た朱里は、再び話し始めた。

「二年ほど前になりますでしょうか。黄巾賊が予州で勢威を誇っていた当時、多くの富農たちが土地を捨てて州外に逃げ出しました。その際、予州一の商家であった曹操殿は、それらの土地を二束三文で買い占めました」
「買い占めた?」
「はい。そして一年前、予州黄巾賊の頭領的な立場であった馬元義の大軍を撃破。その余勢を駆って、州内の黄巾賊を一気に掃討しました」
「そうだったね。見事なものだった」

 一刀は頷く。沛郡太守となってからも華琳はその手を弛めることなく、州内の黄巾賊を着実に掃討していった。馬元義亡き後に予州では黄巾賊をまとめる勢力はなく、彼らは着実に追い詰められ、掃討されていった。また、投降した者もかなりの数に上ると聞く。

「黄巾賊を掃討した後、曹操殿は自らが買い占めた土地を小作農たちに非常に安い地代で貸し出しました。また投降した黄巾賊たちの罪を問わず、農民になる意思を示した者にも同様の対応をとりました」
「……」
「その結果、そのことを知った小作農たちが続々と予州に集まり始めました。聞くところによれば、曹操殿の提示する地代は、通常の半分ほどとのこと。――さらに、『ある条件』を呑めば、その地代すら払わなくて良いとしたのです」
「――その条件って何かしら」

 紫苑が手を挙げる。朱里は紫苑の方を見ると、その条件について述べた。

「それは、『戦時においては軍役に就くこと』です」
「軍役?」
「はい。普段は農業に勤しみ、戦時には兵士として働く。そのような制度を導入したのです。予州では、これを『屯田制』と呼んでいると」
「屯田制……」

 朱里の説明を聞いて、紫苑は記憶を探る。かつて、辺境地帯を防衛する兵士が農耕をしたということは聞いたことがあった。それを曹操は、荒廃した予州の国力を回復するために内地で同様の政策をとったというわけか。

「つまり、小作農に無料で土地を提供する代わりに、戦時には兵士となる約束をさせたということかしら」
「そうです。これは同時に、平時の兵士維持費の削減となります。そして、ようやく得た自分の土地を守るという目的があるためか、彼ら屯田兵の士気は農民ながら非常に高いと聞きます」
「黄巾賊出身の屯田兵ならば戦の経験もあるでしょうし……考えたものね」

 紫苑は感心したように頷いた。

◆◆◆

「なあ、朱里。徐州でも同じことができないかな?」

 一刀は、期待に満ちた目をして朱里に問いかける。しかし、彼女は首を振った。

「残念ですが、『もはや』不可能かと」
「もはや?」
「……二年ほど前、予州同様に徐州が荒れていた時期であれば、私たちも孫乾殿の財貨を借りて同様に土地を買い占め、後に小作農に提供することもできたでしょう。しかし、私たちは財貨を黄巾賊討伐のため兵を増やすことに用いました」

 そう言うと、朱里は一旦言葉を切った。脳裏に、徐州の平和を求めて戦った日々が思い起こされた。あの時は無我夢中だった。しかし――。

「……私たちは黄巾賊を掃討し、徐州は安全な土地になりました。その結果、州外から戻ってきた富農たちは、その所有する土地が『安全な土地』になったことを逆手に取り、小作農により高く貸し付けるようになったのです」
「そうだったのか……」
「はい。……そして、彼ら富農たちから徴収する税金は徐州の財源の大きな割合を占めています。ですから、彼らを今以上に締め付けることはできません。そして、彼らの土地を買い占めるほどの財貨は私たちにはないのです。――恐らくは冀州と兗州、最近ではさらに幽州を傘下に収めた袁紹殿におかれましても、私たちと同様の問題を抱えていると思われます」

 そう言うと、朱里は腰を下ろした。会議室を沈黙が支配する。しばらくして、頭の後ろに手を組んで難しい顔をしていた一刀が朱里に問うた。

「つまり、曹操さんは二年も前から現在の状況を見越して準備を始めていた。そういうことかな、朱里?」
「……はい。結果を見れば、そう言わざるを得ません」
「――しかも、俺たちが敵とした黄巾賊をも『民』として受け入れることで、自らの力に変えている」

 一刀の視界に、わずかに顔をしかめる愛紗の姿が目に映った。恐らく、黄巾賊の罪を問わない曹操の政策に納得いかないところがあるのだろう。以前に比べればかなり軟化したとはいえ、彼女の黄巾賊に対する憎しみは強い。

 だが――一刀は思う。黄巾賊の兵士たちには、かつては小作農だった者も多いはずだ。富農の下の過酷な生活に耐えかね、その境遇から逃れるために黄巾賊に身を投じた。彼らもまた、民である。

 情けないことであるが、自分にはその視点が欠けていた。簡単に、敵と味方を分けていた。これは『ゲーム』ではない。そう簡単なものではないことは、わかっていた筈だったのに。

 そして、曹操に黄巾賊をも民とする視点が備わっているとするならば――自分は君主として、彼女に大きく劣っていたということになるだろう。

「――さすが。と、いうべきかな」

 一刀は、悔しそうにつぶやいた。

◆◆◆

 ちょうど一刀たちが、華琳の政策について話し合っていた頃。慶次郎は、予州の都である『許』の庁舎が並ぶ一角にある広場にいた。そこに建つあずまや風の建物の中にある椅子に座り、何やら弓のようなものをいじっている。

 予州において破竹の勢いで黄巾賊を駆逐した華琳は、病に伏せっていた孔抽からの懇願もあって、半年ほど前から沛郡太守でありながら予州牧代理を担っていた。そして三ヶ月前に孔抽が亡くなってからも、その立場にとどまり続けている。

 それは予州の民、そして許の官吏たちからの圧倒的な支持あってのことであった。ちなみに、一年前の黄巾賊との戦で兵を出し渋った許の将軍は、不正蓄財の咎によりすでに予州から追放されている。

 慶次郎が手にしているのは、真桜に頼んで作ってもらった『鉄弓』である。三ヶ月ほど前に制作を依頼したそれは、昨晩になって彼のもとに届けられた。そこでさっそく、慶次郎はその出来具合を確かめているのである。

 実質上は虎豹騎主将の慶次郎であるが、一年前の黄巾賊との戦以来は一度も戦場に出ていない。その戦で予州の黄巾賊のあらかたを投降させてしまったということもあるが、それ以上に華琳が慶次郎を戦場に出すことを渋ったためであった。

 彼にふさわしい戦場ではない――というのが、表向きの理由である。しかし実際には、慶次郎にこれ以上の功績を挙げさせたくない華琳の気持ちが理由であった。功績を挙げることで彼が『もうやることはやった』とばかり出奔することを彼女は恐れていた。

 かつて慶次郎は、その出奔の可能性を否定しなかった。そのことが、華琳の心に影を落としている。もっとも、慶次郎が否定しなかったのは、いつの日か彼がこの世界から消えてしまう時に華琳が動揺しないためである。本人には今のところ華琳の元から動くつもりはない。そう、少なくとも今は――。

 慶次郎が鉄弓の鋼鉄の弦をきりきりと音を立てて張っていると、庁舎から見慣れた姿が現れた。

◆◆◆

「久しいな、華琳」
「そうかしら」
「ここ十日ばかり、おぬしの顔を見ていなかったように思うが」
「そんなになる?」

 そんな言葉を交わしながら、華琳は慶次郎の左隣に腰を下ろした。見れば、華琳の目の下には青黒い隈ができている。この半年、彼女の顔からそれが消えたことはない。

「それは、なあに?」
「ああ、これか。真桜につくってもらった鉄弓じゃ」
「鉄弓?」
「ああ。……昔、使っていたことがあってな」

 そう言うと、慶次郎は鉄弓を持って、軽く弦を引っ張った。鋼鉄の弦が、まるで楽器のような音を立てる。その音を聞いて、華琳が目を閉じた

「綺麗な音ね」
「そうかね」
「うん。とても……」

 華琳の頭が揺らぎ、慶次郎の左腕に当たる。そして、寝息を立て始めた。それを見て、慶次郎は話すのを止める。

 予州牧の代理を引き受けるために許にきてからこの半年の間、華琳は多忙を極めていた。夜を徹することも少なくない。

 そして口には決して出すことはなかったが、休もうとする時は決まって慶次郎の姿を探した。そして、その隣で休むことを望んだ。そのことを知った慶次郎は、午前中は必ずこの場所にいることにしている。

 ちなみに、兵の訓練は星と春蘭に任せている。華琳の置かれた状況を知る彼らは、それぞれ思うところはあれ、慶次郎の判断を尊重してくれていた。

◆◆◆

 四半刻(三十分)が経過した頃。庁舎から猫耳フードを着用した小柄な女性が現れた。荀彧こと、桂花である。桂花は慶次郎を見て露骨に顔をしかめた後、華琳の側に近づいた。そして、声をかけようとする。

「華……」
「――使いが、来たようね」
「は……はい」

 桂花が声をかける前に、華琳は目を覚ましていた。既に意識はしっかりとしている。

「正使と副使の方が、先ほどいらっしゃいました」
「準備は?」
「はい。すべてぬかりなく」
「――そう。それでは、早速向かいましょう」

 そう言うと、華琳は立ち上がった。椅子に座った慶次の顔は、立ち上がった華琳の顔とほぼ同じ位置にある。華琳は目の前の男に向かって微笑む。

「それじゃあね、慶次。……ありがとう」
「ああ、またな。いつでも来るが良い」
「――ええ」

 少しはにかむと、華琳はくるりと振り返って足早に庁舎に向かって歩いていった。その後を桂花も追おうとする。しかし、背後からかけられた声に立ち止まった。

「おい、猫耳」
「……何よ、でかぶつ」

 桂花が心底嫌そうな表情で振り返る。初めて会ったとき以来、桂花の慶次郎に対する態度は変わらない。

 華琳の指示でしぶしぶ真名を教えはしたが、桂花は慶次郎のことは『でかぶつ』としか呼ぼうとはしなかった。彼もまた、あえて真名を呼ぶようなことはしなかった。その代わりに、彼女の特徴的な服装から『猫耳』と呼んでいる。

「使者が来たと言っておったな。――何の使者じゃ」
「あんた、何も聞いてないの?」
「残念ながら」
「ふん。――教えたくないけど、すぐにでも知れることだから教えて上げる。華琳様を正式の予州牧へ任命するための、朝廷からの使者よ」
「正式の……」
「そう。これで名実ともに、華琳様はこの予州の支配者になられるってわけ」

 そう言うと、桂花は誇らしげに腕を組んだ。しかし慶次郎は、逆に思案顔になる。

「なあ、猫耳」
「何よ、でかぶつ」
「華琳は最近、働き過ぎなのではないか」
「……そうかもしれないわね。いくらでも仕事はあるから」
「その割には、おぬしは元気そうじゃな」
「失礼ね。私だって仕事してるわよ!ただ――華琳様は全部自分でやろうとするから」
「そこまでわかっているなら話は早い。華琳に仕事をさせ過ぎるな」

 珍しく真面目な顔で話す慶次郎に、桂花は姿勢を正した。そして、問う。

「どういうこと?」
「華琳とて人間じゃ。失敗もする。間違いもある。だが、一人ですべてをやってしまえば、それに気づく機会もない」
「……」
「いつか、『取り返しの付かない失敗』をするかもしれぬ。そんな失敗を防ぐことができるのは、いつも主君と共に仕事をし、主君に及ばぬまでもその重責を分かち合う臣のみよ」
「――知ったようなことを。あんたみたいな無能な人間に言われたくないわ」
「そうとも。わしは無能じゃ。少なくとも、戦以外では華琳を助けることができぬ」

 そう言うと、慶次郎はぺこりと頭を下げた。

「予州牧ともなれば、さらに仕事は増えるじゃろう。――猫耳。勝手な言い草だとは思うが、もっと華琳の力になってやってくれんか。あやつが、迷惑がるほどにな」
「――あんたに言われるまでもないわ」
「そうか。感謝する」
「ふん」

 そう言うと、桂花はくるりと背中を向けた。そして、慶次郎に背中を見せたまま小さな声でつぶやいた。

「私だって……してるわよ」
「何じゃと?」
「私だって慶次、あんたに感謝してるって言ってるの!……悔しいけど、華琳様の枕になれるのはあんたぐらいよ」
「――初めて、名を呼んでくれたな。桂花」
「……調子に乗るな、でかぶつ!」

 そう言うと、桂花は華琳の後を追って庁舎に向かって駆け出していった。

◆◆◆ 

 桂花と話してから一刻(二時間)後。許から一里(四km)ばかり離れた森の開けた場所に、松風にまたがった慶次郎がいた。その左手には鉄弓が握られている。

 慶次郎は鉄弓の弦に指をかけるとそのまま引き絞った。つがえているのは、やはり鉄弓と一緒に作らせた鏑矢である。鋼鉄の弦がきりきりと音を立てる。右腕の力こぶが、もこりと盛り上がる。狙いは、半町(五五m)ほど離れた常人が両手で抱える程の太さの木だ。

 右手を離す。鏑矢は恐ろしげな音を立てて、ほぼ地面と平行の高さのままで空を飛んだ。そして、まるで金槌で木を叩いたような音とともにそれは木の中央部分に突き刺さった。木が揺れる。

 続いて、第二射。第三射――第八射まで射たとき、これまでとは違う音がした。

 木の側まで近づくと、慶次郎は松風から降りて木の状態を確認する。最後の鏑矢は、木を突き抜けていた。その突き抜けた穴を中心として、左右に木が割れている。恐るべき威力というべきであった。

<これほどとはな>

 慶次郎は感心する。真桜に作らせたこの鉄弓の強度、そしてしなり。そのいずれもが申し分なかった。以前手にした鉄弓よりも、はるかに優れていると思われる。

 鉄弓は単なる鋳鉄ではなく、複数の鋼板を積み重ねたものを一枚にまとめたものから形成されている。とても、後漢代の技術とは思えない。そういえば、遠眼鏡なんてものもあった。あれもまた、この時代にはありえない技術である。

<わしが知らぬだけで、この世界の技術はわしの世界よりもずっと進んでいるのかも知れぬ>

 鏑矢を木から抜きながら、慶次郎は気持ちを新たにする。そう、自分が知らぬだけで――鉄砲、もしくは大砲すらこの世界には既にあるのかも知れないのだ。用心することに越したことはない。

 空を見上げた。今日も青空が気持ちの良い晴天だ。太陽は、ほぼ真上に昇っている。

「そろそろ、飯にするか」

 回収した鏑矢を矢立に入れると、慶次郎は松風にまたがった。

◆◆◆

「季衣、メンマまんじゅうを十個ばかりくれぬか」
「あ、慶次兄ちゃん!ちょっと待ってね」

 そう言うと、季衣は店の奥にある厨房に駆け込んでいった。ここは慶次郎行きつけのメンマ専門店『季季亭』である。ちなみに、許の季季亭は全国に広がる同店の本店にあたる。

 なお、慶次郎の注文したメンマまんじゅうは、きざまれたメンマと挽肉の組み合わせが絶妙な同店の名物であった。現時点では許店のみで販売されており、慶次郎も一度食べてやみつきになっている。

 やがて、両手に十段重ねの巨大な蒸籠を軽々と持って季衣が現れた。そしてそれを店先にどかりを置くと上から蓋を開けていく。メンマの香りが店先に広がった。

「相変わらずの、強力ごうりきじゃな」
「へへ、そうかな」
「ああ。兵士にも、おぬしほどの強力はまれじゃぞ」
「もともとは、兵士志望だったしね」
「ほう。それは初耳じゃな」
「そうだっけ?華琳様の軍に加わりたくて、流琉と一緒に田舎から出て来たんだけど――」

 季衣は竹篭に手際よくまんじゅうを詰めていく。

「――華琳様が『子どもが戦場に出ることは我が軍では決して許さない』って」
「……そうか」
「うん。言われたときは、正直ガッカリしたけど……今は感謝してるんだ。やっぱり、人を殺すより料理を作っている方が楽しいよ」
「……そうじゃな」

 慶次郎はそう言うと、お代を季衣に渡す。金額を確認すると、彼女はまんじゅうの入った竹篭を彼に差し出した。そして、太陽のような笑顔で微笑む。

「毎度あり!」

 その笑顔は、慶次郎には何ともまぶしかった。

◆◆◆

 慶次郎はメンマまんじゅうの入った竹篭を左手に持ち、南門を出た。華琳の方針で、原則として兵士は専用の城門以外から馬を連れて入場することが許されていない。市井の人々の生活を考えてのことである。

 季季亭は南門の近くにある。そのため、慶次郎は南門を出たところにある小さな林に松風をつなぎ、歩いて城内まで買い物に来ていた。

 南門を出て林に向かった慶次郎は、松風に話しかける一人の若い女性に目を留めた。その頭には、まるで触覚のように長い癖毛が二本伸びている。露出の多い服を着て、その素肌には大胆な入れ墨が彫られているのが見えた。

 そんな女性が、巨大な刃のついた槍とも戈とも取れるような武具を左手に持って、松風に話しかけている。

「そんなに、ひどいの?」
『……』
「女心をもてあそぶなんて……ダメ」
『……』
「私と一緒に……来る?」
『……』
「惚れた弱み……そう……」

 何を話しているのだろう――興味を持った慶次郎は、女性に声をかける。

「おぬしも、馬と話せるのか?」

 慶次郎の言葉に、女性が振り返った。無表情である。

「……誰?」
「その馬の主じゃが」
「……そう」

 女性はぼそりとそう言うと、その得物をいきなり振った。慶次郎は思わず反り返る。その鼻先を、ぶんという音と共に巨大な刃先が通り過ぎた。

「――何じゃ、いきなり!」
「……女の敵」
「何?」
「許さない」

 巨大な殺気と共に、女性は得物を構えた。

◆◆◆

「か、華琳様!一大事です!」

 執務室に飛び込んでくると、凪は膝を突いた。彼女は平時、許の街の警備隊長を務めている。

「一大事?」

 凪の言葉を聞いて、華琳は首を傾げた。彼女は、予州牧としての今後の政策について稟と風を交えて意見交換しているところであった。桂花は、副使である陳宮を案内するために今ここにいない。

 この時期に一大事……となれば、朝廷からの使者にかかわることしか思いつかない。とはいえ、供応も含めてすべて万全な筈だが――。

「――まさか、正使と慶次が喧嘩を始めたなんて言うんじゃないでしょうね?」
「さすがに、慶次殿でもそんなことはしないでしょう」
「いえいえ。お兄さんならば、あるいは」

 そう言うと、華琳は稟や風と顔を見合わせて笑った。しかし、凪は笑わない。それほどの一大事か。威儀を正して華琳は問う。

「凪、報告しなさい」
「はい。おっしゃる通りでございます」
「は?」
「――慶次殿が、正使の呂布殿と城外で喧嘩を始めました」
「「「……」」」

 執務室を、沈黙が包んだ。


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