第10章 契り(2)
「猪々子」
「お!その気になってくれた?」
次の瞬間、にっこりと微笑む猪々子の脳天に火花が散った。慶次郎が、朱槍を逆に持って彼女の頭に打ち下ろしたからである。
「痛っ!な、何をすんだよ!」
「冗談はそこまでにしておけ」
「冗談なんかじゃねえよ!あたいは本気で……」
「そうか。――ならば、その首を取る」
慶次郎は朱槍をくるりと反転させると、槍穂を猪々子の首筋にぴたりと突きつけた。
「……本気かよ?」
「ああ。わが主君を潰すとなれば、致し方なし」
「……」
「ここでおぬしの首を取れば、袁軍もとりあえずは撤退しよう」
猪々子も一軍の武将である。首筋に槍穂を突きつけられた程度では動じない。彼女は慶次郎の顔をしばらく見つめていたが、ため息をついた。
「……はあ。アニキみたいなやつには、殺し文句だと思ったんだけどな」
「ん?何がじゃ」
「『一緒に天下を取ろうぜ!』って台詞」
「すまんがな。わしは天下などに興味はない」
「じゃ、なんで曹操なんかに仕えようと思ったのさ」
「面白そうだからよ」
「へっ?」
猪々子はきょとんとした表情で慶次郎を見上げた。その表情を見て、慶次郎は朱槍を下げる。
「もう一度言ってくれよ、アニキ」
「面白そうだから、じゃ。他意はない」
「面白そうだから……」
猪々子は慶次郎の言葉を繰り返すと、右手で頭をかいた。そして、悔しそうに言う。
「それじゃあ、仕方ねえな」
「ああ、仕方ない」
二人は顔を見合わせて笑った。
◆◆◆
宴会の会場である陣幕から、華琳や愛紗ら将たちが出てきた。急に静まりかえったことを不審に思ったのだろう。そのことに気づいた猪々子は、そちらに向かって大声で叫ぶ。
「いやー、すいません!ちょっと手違いがありましてー!」
そう言うと、袁軍の兵士たちに向かって大きく手を振った。その合図を見て、兵士たちは一斉にその剣を鞘に収める。そして一気にくつろぐと、目の前の酒瓶に向かって我先に群がり始めた。それを見て、北郷軍、孫軍の兵士たちも再び酒を飲み始める。平原に喧噪が戻ってきた。
「今からそっちに行きまーす!」
そう言うと、猪々子は華琳たちに向かって笑顔で手を振った。それを見て安心したのか、華琳たちも陣幕の中に戻っていく。慶次郎から視線を外すと、猪々子は陣幕に向かって歩き出した。だが、数歩離れたところですぐに立ち止まる。そして、背中を向けたまま話し始めた。
「……なあ、アニキ」
「何じゃ」
「――最近、麗羽様が料理を作り出してさあ」
「料理?」
「ああ。アニキが、鄴であたいたちに奢ってくれたやつ」
「ニラまんじゅうか」
「そう、それ。……それが、最高にまずくてさ」
猪々子は思い出したように笑う。
「でも、麗羽様は一生懸命だから何も言えなくて――参ったよ」
「……」
「自分でも美味しくないってわかってんだろうな。暇を見つけては作ってる」
「……」
「きっと、麗羽様には――食べさせたいやつがいるんだよ」
そう言うと、猪々子は下を向いた。その背中を見て、慶次郎はため息をつく。
「猪々子」
「ん?」
「最初から、そう言え。おぬしの誘いはわかりにくいわ」
「へへへ……」
慶次郎に背を向けたまま、猪々子は頭を掻いた。
「……こちらが落ち着いたら、遊びに行く」
「ほ、ホント?」
猪々子がくるりと振り返る。その目は期待できらきらと輝いている。
「ああ。それまで精進せいと伝えておけ」
「おお!合点でい!」
そう言うと猪々子は満面の笑顔を浮かべ、その右手で自らの胸を叩いた。
◆◆◆
陣幕に向けて歩き出した猪々子の後を追って、郭図――于吉も慶次郎に軽く頭を下げて歩き出す。その表情は、幾分硬い。慶次郎の頭に、先ほどの左慈の言葉が思い浮かんだ。『于吉には気を付けろ』――あれは、どういう意味だったのか。
その時、不意に感じた殺気に慶次郎は振り返った。それにつられて、于吉も足を止めてそちらの方向を見る。その方向には、孫軍の兵士たちがいた。そして、その前に三人の将らしき若い女性がいる。
中央の主将らしき女性は、その右隣に立つ片目眼鏡をかけた若い女性にしきりと話しかけている。左隣の武将らしきもう一人の女性は、鋭い目でこちらをじっと睨むように立っていた。
「于吉」
「……何でしょう」
「あの三人は誰じゃ」
「ああ」
慶次郎の問いに、于吉の表情が和らぐ。
「ご存じありませんでしたか」
頷く慶次郎の顔を見て、于吉は言葉を続けた。
「中央にいらっしゃるのが、孫策殿の妹君、今回の援軍で主将を務められている孫権殿です。その右隣が副将の呂蒙殿。そして、左隣の武官が甘寧殿です」
「ほう。あれが甘寧か……」
そう言うと、慶次郎は右手を顎にやって微笑んだ。
◆◆◆
「……びっくりしたわね」
「……びっくりしました」
蓮華と亞莎は顔を見合わせてため息をついた。彼女らが宴会の会場である陣幕に向かって移動しようとしたその時、対面の袁軍の兵士たちが行動を起こした。孫軍、北郷軍、そして曹軍の三軍を合わせても数に及ばない二万五千の兵が一斉に剣を抜いた様は、ただただ『恐ろしい』の一言に尽きた。
見れば兵の体格、装備、そして練度――そのいずれもが、ここにいるどの軍よりも袁軍が勝っている。彼らがいきなり剣を抜いたのは、何かの冗談であったのだろう。しかし、仮に本気であったなら――想像するだけで冷や汗が出た。
そんなことを思いながら、蓮華はその視線を再び大柄な男に向ける。男は、陣幕に向かう袁軍主将の文醜の後ろ姿を見つめていた。蓮華は、思わずその流麗な顔をしかめる。
先ほど、あの男は文醜と言葉を交わしていた。そして、いきなりその脳天に槍の柄を打ち下ろした。二人には、こちらから見てもまるで兄妹のような親密な雰囲気が感じられた。だとしても、それは援軍を乞うた立場の人間がとるべき態度ではない。しかも、その後には文醜の首筋に槍穂を突きつけてすらいる。
そうした態度を取ったにもかかわらず、文醜は男に何も罰を与えようとはしなかった。彼女にも何らかの非があったとのかもしれない。それでも、あの男が蓮華の目の前で文醜に対して示した『無礼』な行為の数々は、雪蓮のこともあって、最初から好意的には思っていなかった男に対する彼女の評価を殊更に下げた。
極めて暴力的かつ無礼で、傍若無人な野人――それが、蓮華の慶次郎に対する現在の評価である。
◆◆◆
「亞莎」
「は、はい」
「書簡を出しなさい。お姉様の命令――あの男の女関係について。さっさと終えてしまいましょう」
「承知しました」
亞莎は書記を呼び寄せる。そして竹簡を受け取るとそれを左手の上に広げ、右手に筆を持った。
「では、どうぞ」
「ええ。
前田慶次郎の女関係について記す。
かの男に対するに徐州の将、関羽。その瞳は恋人に対するが如し。
かの男に対するに冀州の将、文醜。その瞳は兄者に対するが如し。
――そして、予州の将、曹操。かの男に対するにその瞳は良人に対するが如し。
この男、理由は不明なれど女どもの心を惑わし誑かす者なり。
女性の敵、不埒な輩、十分に用心されたし。
……ま、こんなところかしら」
「ほ、本当にそれでよろしいのですか?」
「構わないわ」
そう言うと、蓮華は亞莎から竹簡を受け取った。そして、最後の部分に自分の名前を記す。そして小さく頷くと、亞莎に竹簡を返した。
「それじゃ、この書簡をさっさとお姉様のところに送ってしまいなさい」
「少々お待ちを」
「……思春?」
「実は、私も雪蓮様から別にご命令を受けております」
「命令?」
「はい。……かの者の、武人としての力を計ってくるようにと」
「……お姉様が、そんなことを」
「はい。――亞莎。私の分も書いてくれるか」
「いいですよ」
そう言うと、亞莎は書記に蓮華の竹簡を渡すと、新しい竹簡を受け取って左手にそれを広げた。
「では、どうぞ」
「うむ。
此度の戦における武人としての前田慶次郎について記す。
かの者、一万八千の黄巾賊に一騎駆け。
見事、その将の首を取る。
古今これなき大手柄。
その武勇、いにしえの項羽、今生の呂布に比するものと見ゆ。
万難を排し、われらがもとに迎えることを具申するものなり。
……以上だ」
「ほ、本当にそれでいいんですか?」
「ああ。構わん」
そう言うと、思春は亞莎から竹簡を受け取った。そして、最後の部分に自分の名前を記す。そして小さく頷くと、亞莎に竹簡を返した。
「それでは、この書簡を蓮華様のものと一緒に送ってくれ」
「ちょっと待ちなさい」
「……蓮華様」
思春は蓮華を見た。思春を見つめる蓮華の表情は、きわめて厳しい。
「思春。あなたの評価は過大に過ぎるのではないかしら?」
「いえ。ありのままの事実を記したまで」
「……その割には、あの男を孫家に迎えるなどと」
「あくまで、孫家の繁栄のためでございます」
「……思春」
蓮華と思春がにらみ合う。思春が記した書簡を手にしたまま、亞莎は冷や汗を拭った。思春は常に蓮華の側に仕え、忠誠無比の人物として知られていた。蓮華のまさに右腕として、常にその傍らで護衛を務めてきた。蓮華のためであれば、冥琳に意見を言う事も厭わない。その彼女がこのような態度を見せるとは――。
しかし、にらみ合いは一瞬であった。すぐさま思春は膝を突き、頭を下げた。そして、蓮華に詫びる。
「――申しわけございませぬ。出過ぎたまねをいたしました」
「……思春」
「先の書簡、処分して下さって構いませぬ」
そんな思春の姿を見て、蓮華はため息をつく。
「――いいえ。私の方こそ、私情で言わなくても良いことを」
「蓮華様」
「亞莎。この書簡、二通とも送ってしまいなさい」
「……良いのですか?」
「ええ」
蓮華は頷く。そして、いたずらっ子のような表情で微笑んだ。
「お姉様には、いい薬だわ。せいぜい――悩んでもらいましょう」
もっとも、それは雪蓮にとって『劇薬』だった。そのことに蓮華らが気づくのは、揚州に戻って半壊した庁舎を見てからのことである。
◆◆◆
「それじゃ、行きましょう」
蓮華はそう声をかけると、宴会の行われている陣幕に向けて歩き出した。その後に、亞莎が続く。そして思春も、歩き出した。歩きながら、彼女の目は自然と慶次郎に向けられていた。その男は、袁軍の副将らしき人物と言葉を交わしている。
斥候として先着した思春は、森の中から黄巾賊を伺っていた。その時、『あの男』が丘の上に忽然と現れた。未だ、鮮明にその姿は脳裏に残っている。
鎧も着けず、武器も携えず、まるで春の山野に遠乗りに来たとでもいいたげな表情で、黒馬にまたがって黄巾賊に分け入っていった。そのたたずまいを見て、すぐにわかった。自分と『同類』の人間だ。戦場において、『死人』になれる人間――しかし、この男の無謀さは常軌を逸していた。
思春とて、死を覚悟したことは一度や二度ではない。これまで、幾多の生死の境を生き延びてきた。それでも、これほどまでに無謀な試みを経験したことはない。たった一人で一万八千の軍勢に飛び込んでいくなど、正気の沙汰ではない。
無意味な死。それこそが、いくさ人が避けるもの。そして、男の試みはまさにそうなるはずだった。しかし、彼はそれを見事に乗り越えてみせた。
あの男が名乗りを上げてから、黄巾賊の将の首を取るまでは一瞬であった。けれど、その一瞬はまるで物語のように思春の中にある。彼は英雄のように戦場を駆け、朱槍を振るい、空を『翔んだ』。戦場において、人を美しいと感じたのは初めてだった。胸が高まったのは初めてだった。我を忘れたのは初めてだった。ましてや、それが『男』であったとは――。
心を奪われた。そう自覚したのは、つい先ほどのことだ。自らが抱く思いに戸惑い、あの男の背中に殺気を向けた。次の瞬間、その男は振り向いた。そしてこちらを見て――微笑んだ。実に男らしい、爽やかな笑みだった。その時、自分の気持ちが『すとん』とかたにはまった。そして悟った。
そうか。これが――私の恋。
雪蓮が狂おしく求める気持ちがわかる気がした。生死の挾間で己を見いだす類の人間にとって、この男は甘露のように魅力的だ。雪蓮は、その類い希な勘でそのことを直感的に理解したのだろう。こんな男と一緒に戦場を駆け、そして――一緒に死ぬことができたなら。
「思春?」
蓮華の声に、我に返る。いつの間にか、足を止めていたようだ。思春は、改めて慶次郎に目をやった。彼は、袁軍の副将らしき人物の背中を見送っている。
心が通わずとも良い。そもそも、君主たる雪蓮が惚れている男だ。情を通じることは許されない。だが『想う』ことは自由なはずだ。――恋の至極は、忍ぶ恋と見つけたり。
「失礼しました」
思春は、あるじの元に走り出した。
◆◆◆
陣幕に孫軍の三将が入り、その後に于吉も入っていく。それを見届けると、慶次郎は空を見上げた。どこまでも空は青く、ところどころ雲がたなびいている。
久しぶりの戦であった。傾きおさめをしてから、数十年ぶりになるだろうか。感慨にふけりつつ、腰に手を伸ばした。その手が空を切る。――しまった。『あれ』も置いてきてしまったか。慶次郎は苦笑する。
陣幕の宴会に出席するつもりはなかった。華琳からは執拗に頼まれたが、それでも断っている。なぜなら、彼自身の公式な立場は曹軍の『一兵卒』に過ぎないからであった。
彼は現在、虎豹騎の主将を務めている。しかしそれはあくまで曹軍内部においてのことで、公式には主将は春蘭であり、副将は秋蘭であった。それは、慶次郎自身の強い意思による。
客将たる自分が、確固たる地位を占めるのはよろしくない――いつの日か、いなくなるのかもしれないのだから。
慶次郎は、于吉や左慈の態度から、自分がこの世界にいつまでもいることができないであろうことを確信していた。そんな自分が曹軍の中心を公式に占めることがあっては、いなくなった後に他の勢力につけ込まれる隙を作ってしまう。また、それは華琳の体面を傷つけることになるだろう。
もっとも、『自分はいつの日かこの世界から消えるかも知れない』といったことは、華琳を始めとして曹軍の諸将には告げていない。あくまで、自分の都合でいつ出奔するかわからぬと告げている。
そうした慶次郎の態度は諸将にとって何とも歯がゆいものでであった。しかし、こればかりは仕方がない。彼らには、『いつの日か』を覚悟してもらわねばならない。
◆◆◆
慶次郎は大きく背伸びをすると、歩き出す。どこぞの陣に潜り込み、一杯頂戴しようという魂胆である。そんな彼の背中に、第一の部下の声がかけられた。
「け、慶次殿!」
「星?」
「は、はい。星に」
「早かったのう」
「はい。あ、後は春蘭に任せて戻って参りました」
そう言うと、星は膝に手を突いて喘いだ。全力で戻ってきたのだろう。先ほどの戦の時よりも、よほど疲れているように見える。
「我らがするべきことはすべて終わった。待っておれば良かろうに」
「確かに。でも、慶次殿の臣となればそうもいかず。――これを」
「おお」
星が差し出したのは『あれ』――慶次郎愛用の瓢箪であった。中には酒が入っている。
「ちょうど一口飲みたいと思っていたところであった。ほめてつかわす」
「ははは。もっとほめてくださっても良いのですぞ?」
「ふむ……」
慶次郎は瓢箪から酒を一口飲むと考え込んだ。星の顔をまじまじと見つめる。真剣な表情である。その表情に、星は内心慌てた。戯れで言ってみただけなのである。
「あの、慶次殿」
「うむ、決めた」
そう言うと慶次郎は瓢箪を腰に結ぶと、自分の懐に手を差し込んだ。そして、布で包まれた細長いものを取り出す。
「それは?」
「ヤマユリじゃ」
「ヤマユリ……」
「ああ。先に華琳の草冠を作る時、森の中で見つけたのだがな。華琳には似合わぬゆえ、手元に置いていた。戻った後、部屋にでも飾ろうと思っておったのだが――」
そう言うと、慶次郎は布からヤマユリを取り出した。大輪の白い花である。そして懐から小刀を取り出すと、その茎を短く切った。そして、その花をそっと星の髪に挿す。
「うむ、似おうておる」
「け、慶次殿……」
「人知れず山中に咲く可憐な一輪の華――まるでおぬしのようじゃの」
突然のことに呆然としていた星は、その言葉をきいて一瞬で赤くなる。どのような対応をして良いかわからない。さまざまな思いが交錯する。感謝の言葉を伝えなくてはならない。初めての、慶次郎からの贈り物。どんな言葉で返せば――。
「眼福じゃ。生きて戻って良かったわい」
「!」
その言葉を聞いて、星はうつむいた。そのまま黙り込む。ぴくりとも動かない。あまりにも長い沈黙に、慶次郎は心配になって声をかけた。
「……星?」
そんな彼に、星はようやく見つけた言葉を返す。
「――ばか」
◆◆◆
蓮華たちが入ってきたのを機に、陣幕の中では宴会が始まろうとしていた。上座の中心に猪々子、その右に愛紗、左に蓮華が座っている。華琳は自らの席を下座に置き、三人に酒をついで回ると、援軍のお礼を述べた。三人はそれぞれ返礼する。彼らに改めて頭を下げた華琳の頭上に、猪々子からの声がかけられた。
「ところでよ、曹操さん」
「はい、何でしょう」
「アニキの席はどこなんだい?」
「アニキ、とは?」
「慶次のアニキのことだよ」
そう言うと、猪々子は酒杯を口に運んだ。華琳は内心でため息をつく。やはり、そのように問われることになったか。あらかじめ準備していた言葉で返答する。
「あいにく、かの者は我が軍では一兵卒に過ぎませぬ。奇功を挙げたとはいえ、この場にそぐわぬものと」
「……何だって?」
猪々子の目が据わった。
「曹操さんよ。あんたのところではアニキは一兵卒に過ぎないかもしれないが、あたいたちにとっては特別な人なんだ。――もしアニキを御す自信がないのなら、うちが引き取ってもいいんだぜ?」
「文醜殿。勝手に話を進めないでいただきたい」
愛紗が割って入る。
「慶次殿と誼を通じたは、われらが主たる北郷一刀様が最初のはず。同じ『天の御遣い』という共通点もある。仮に曹操殿が慶次殿を御すことができぬなら、まずはわれらにこそ声をかけていただきたい」
「早い者勝ちってか?そんな理屈が通じるか」
猪々子は愛紗をにらみつけた。負けじと愛紗もにらみ返す。そんな二人に、蓮華が声をかける。
「そのような議論の前に、まずは前田殿をここに呼びましょう。かの者の曹軍における地位がどのようなものであれ、この戦において大功を立てたことは事実。我らが酒を下賜する価値は十分にあると考えますが――いかが?」
「ふん。……まあ、いいだろう」
「私も異存はない」
三人は意見をとりあえず合わせると、華琳を見た。三人の顔を見て、華琳も頷く。
「皆さまがそうおっしゃるのなら、私から申し上げることはございません。早速、かの者を呼んで参りましょう」
そう言うと華琳は立ち上がり、陣幕の側に歩いて行った。そして陣幕を開いて外を覗く。そして、そのまま固まってしまった。三将は顔を見合わせる。他の援軍の将たちに酒をついでいた秋蘭は心配になり、華琳の背中に小さく声をかけた。
「……華琳様」
「……」
「華琳様」
「はっ」
華琳は小さな声を挙げると振り返った。そしてすぐに頭を下げる。
「どうやら、かの者はすでに陣幕の外にはいない様子。――恐らくは、どこぞの陣にまぎれこんで酒でも飲んでいるのでございましょう」
そう言うと、顔を上げてにっこりと笑った。
「「「!」」」
猪々子、愛紗、蓮華は思わず息を止める。その笑顔は美しかった。否、美しすぎた――まるで、そうしなければ隠せないものがあるかのように。その笑顔に、三将は頷くことしかできなかった。
◆◆◆
気がつけば、星は慶次郎の胸に顔を埋めていた。自分でも、いつの間にそうしたのかわからない。男の胸に両手を当てて、声を絞り出す。
「ばか」
こんな男を好きになるとは、ほとほと自分はついていない。
「ばか」
武人だからこそ、その出陣を笑って見送った。一騎駆けは武人の誉れ。誇らしかった。
「ばか」
好きだからこそ、胸が張り裂けそうだった。失う予感に、足下が震えた。
「ばか」
この人は、これからもきっとこんなことを繰り返す。ばかだから。
「ばか」
そして、こんな風に自分を喜ばす。優しいから。
「ばか」
ばかなのは、本当は自分だ。こんな男を好きになった自分がばかなのだ。
「ばか」
でも、それでいい。私は、この人の側にいられれば――。
「星」
気がつけば、男が自分の背中を撫でていた。初めて感じる、男の手の感触。それは思ったよりも大きくて、ごつごつとしていて――温かかった。
「すまんな」
「……ばか」
星は男の胸で大きく息を吸う。
初めて間近でかぐ愛しい男の匂いは、かすかなヤマユリの香り。そして汗と脂と――血の香りだった。
◆◆◆
それから一ヶ月後、この戦の功により華琳は沛郡太守となる。
希代の英雄、曹操――その勇躍の始まりであった。
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