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第9章 昇竜(4)
「お頭、そろそろ飯にしましょうぜ」
「おう、もうそんな時間か」

 目の前に広がるなだらかな丘を目前にして、黄巾賊の将である馬元義はその軍勢を止めた。この丘を越えれば、予州の州都である許が視界に入るはずだ。先ほど戻ってきた斥候からは、そこまでの間に待ち伏せている軍勢はまったく見当たらないとのことだった。

 事前の下調べで、許に常在している官兵は七千程度ということもわかっている。こちらの手勢は一万八千ほど。城攻めには守勢の三倍の兵がいるという。したがって、現在の手勢では少々心許ない。しかし――。

<この食事で、すべての糧食が尽きる>

 兵達に食事の許可を与えながら、彼は暗澹たる気持ちで思った。

 もはや、許を落とすしか道は残っていない。

◆◆◆

 もともと、馬元義の軍勢は二千程度であった。彼の軍勢はそれでも多い方で、ほとんどの黄巾賊は多くとも五百程度の小集団に別れて活動していた。山に篭もり、ゲリラ的に活動するにはその程度の規模がちょうど良い。また、その位の規模であれば官軍はわざわざそれを討伐しようと腰を上げようとはしない。時折思い出したようにやってくる義勇兵をけちらせばそれで事足りた。

 それが一ヶ月前から、彼の軍勢が膨らみ始めた。どこの所属かわからないが、精強な騎兵が黄巾賊の小集団を追い立てているらしい。追い立てられた小さな集団は、安心できるより大きな集団を求めて彼の元に集まってきた。

 また、馬元義の軍勢には糧食を手に入れる機会が妙に増えた。彼のもとに寄せられる情報をもとに商人を襲う度、予想以上の糧食が手に入った。その糧食を求めて、近隣の黄巾賊たちがさらに集まった。

 しかし、そうした機会は半月程までにぱたりと減った。結果として、馬元義の軍勢はこれまでにない規模に膨らみながら、飢餓に陥ろうとしている。もはや、この軍勢を維持する限界に近づいていた。

 ここに至り、馬元義は決意した。予州を手に入れよう――もはや、それしかない。このままでは、自滅してしまう。幸いにも、予州の官兵は弱い。近隣の兗州、徐州、揚州の強兵たちと比べると、雲泥の差である。そうした強兵たちが予州に目を向ける前に、一刻も早くこの土地を我らの国としなくては。

 馬元義は武侠の出身である。張角らの腹心ではあるが、太平道を信仰しているわけではなかった。ただ、張角の主張――貧しき者の居場所をつくる――には共感していた。予州を得たら、青州の山塞にこもっている彼女らを呼ぼう。そして『貧しき者の持ちたる国』をつくるのだ。

 いそいそと食事の準備をする配下の姿を見ながら、馬元義はこれからの運命を思った。

◆◆◆

「どうじゃ?」
「は、はい……。まず歩兵が約一万六千。千人ずつ十六の方陣をつくり、縦四列になって進軍しております。その後方に、騎馬兵が約二千。恐らくは将と思われる武将を中心に、五百騎づつ横四列――総勢一万八千の軍勢かと」
「ふむ」

 黄巾賊が越えようとしている丘の上に、地面に伏せて彼らを見つめる三人がいた。慶次郎は右隣に伏せる兵士から遠眼鏡を受け取り、黄巾賊たちを観察する。

「合格じゃ。やればできるではないか」
「あ、ありがとうございます!」

 緊張していたその兵は、ようやく白い歯を見せた。親衛隊所属の斥候兵である彼は、先日の演習で慶次郎にこっぴどく叱られていた。ようやく挽回できたという思いがある。

「今後、一切の斥候はおぬしたちに任せる。良いな」
「はっ!」

 兵は地に伏せたまま一礼すると、後ろに下がっていった。

「……なんでこんなものを被らなくちゃならないのよ」

 慶次郎の左隣に伏せる金髪の小柄な女性がつぶやいた。華琳である。その頭に、草木でつくった大きな冠のようなものを被っている。これは慶次郎の作で、彼の趣味でそのところどころに花が挿されていた。

「仕方なかろう。おぬしの金髪は目立つのじゃ」
「……ふん」

 華琳は頷く。不服そうな表情は変わらない。慶次郎はあやすように言った。

「なあ、華琳。なにゆえ、ふてくされているのじゃ」
「ふてくされてなんてないわよ」

 ぷい、と横を向く。実のところ、確かに華琳は腹を立てていた。それは慶次郎が理由ではない――いや、間接的には彼が理由であるともいえる。

◆◆◆

 慶次郎と華琳の背後には、曹軍三千が控えていた。そのすべてが騎兵であり、慶次郎が星や春蘭らと一緒に手塩に掛けて鍛えた精兵たちである。そして彼らは、華琳の精兵であると同時に全兵力でもあった。馬元義の元に集まった黄巾賊たちを追い立てたのも彼らである。

 彼らは馬元義の軍勢の斥候が戻るまで、許の郊外にある森の中に潜んでいた。そして、斥候が戻ったことを確認するやいなや、疾風のように丘の前まで押し寄せた。私兵でしかない彼らは、馬元義たちの下調べから漏れていた。無論、華琳とその軍師たちが、その存在をできるだけ隠していたことも一因である。

 曹家の家長である華琳は、その財産を生かして予州を中心に『流流楼』や『季季楼』をはじめとする多くの店舗を展開している。いまや、予州を代表する富豪の一人とも言っても良い。それでも、一個人が維持できる兵力としてはこれが限界であった。

 古来、軍隊ほど無駄金を食う組織はない。いくら名族といっても未だ無位無冠の若者に過ぎない華琳にとって、兵を養うことは至難の業であった。桃香のように『義勇兵』という名の無給の兵がいるわけではない。雪蓮のように代々の家臣がいるわけではない。麗羽のように広大な領地があるわけでもない。それでも三千の騎兵を揃えたところに、彼女の非凡さがある。

 風、稟、そして桂花といった華琳の誇る軍師たちによって、黄巾賊に渡る情報と糧食は密かに統制されていた。その結果としてこの近辺の黄巾賊は自然と集まり始め、今目前にいる一万八千という集団になっている。彼らは偶然ではなく、いわば必然によってここにいる。

 予州の主な黄巾賊を一箇所に集め、一気に叩く――華琳とその軍師たちの想定通りであった。

◆◆◆

 しかし、すべてが想定通りに進んでいるわけではない。一番大きな想定外の出来事は、予州牧である孔抽が『突然』人事不省に陥り、寝込んでしまったことであった。その事情を知る者の中には、やはり半年前に徐州で黄巾賊の登場とともに突然倒れた陶謙のことを思い出す者もいた。

 徐州の場合と違うのは、華琳が官軍を一兵たりともその指揮下においていないことである。今回の黄巾賊討伐を孔抽に立案したとき、彼は快く官兵を貸すことを承諾した。華琳の祖父と友人であった孔抽は彼女の才能を愛していたし、予州の未来を託す人材として期待もかけていたのである。

 しかしながら、孔抽が意識を失って寝込んでいる間に許の守備を任された将軍は、華琳に官兵を貸すことを一切拒否した。

『孔抽様との個人的な友誼があるからといって、無位無冠の若造に官兵を貸し出すわけにはいかぬ』

 そう正論を吐く将軍の顔には、ありありと華琳に対する侮蔑と嫉妬の表情が浮かんでいた。

 黄巾賊は、計画通りに集結しつつある。しかし、それを討つ兵が集まらない――困った華琳は、苦渋の選択をした。近隣の州牧たちに対して、黄巾賊討伐のための兵を出してくれるように依頼したのである。黄巾賊の討伐は朝廷からの正式な命令でもある。したがって、州を越えて援軍を送ることも問題はない筈だった――その依頼者が単なる『私人』であることを除いては。

 徐州からは、諸葛亮名義で『ご事情お察しいたします。しかし現在、揚州の孫策殿と州境を巡り緊張が高まっており……』という内容の返信が届いた。そして揚州からは、周瑜名義で先の徐州からの返信における『揚州』の部分を『徐州』に、『孫策』の部分を『劉備』に書き換えたような返信が届いた。

 すなわち、どちらからもあっさり断られたのである。冀州と兗州の二州を治める袁紹――麗羽に至っては、予想通りではあったが返信すらよこさなかった。

 ところが、である。もう一度依頼をすると状況は一変した。徐州からは劉備名義で先日の依頼を断ったことへのお詫びと、主将として関羽、副将として孫乾を八千の兵と共に送るとの返信があった。揚州からも孫策名義で同様のお詫びと、主将として孫権、副将として呂蒙を八千の兵と共に送るとの返信があった。

 きわめつけは麗羽である。真っ先に袁紹名義で返信が届いた。それは相変わらず自己賛美に溢れた文章であったが、その最後には次のような文言が書かれていた。『前田慶次郎なる人物は、二州の盟主たるこの私に対して無礼千万な振る舞いをした痴れ者です。今回の黄巾賊討伐が終わった後、罪人として必ず冀州に送るように』。

 その返信だけを読めば、麗羽の慶次郎に対する怒りが垣間見える。しかし――こともあろうに、その返信にはその『罪人』への贈り物がついていた。それは高級な白地の絹服で、ところどころに金の刺繍がなされたあたかも王族が着用するような豪華な服である。しかも、麗羽が送ると約束した兵力は実に二万五千――袁紹全軍の四分の一にあたる兵力であった。もはや、それは援軍というよりも遠征軍といった規模である。目の前の黄巾賊を、独力で殲滅しうる。そして、その主将は文醜、副将は郭図。あり得ない破格の好意であった。

 二度目の依頼と一度目の依頼、その違いは一つだけである。慶次郎による添え書きがついているかどうか、だけであった。それだけで、彼らの態度はがらりと変わった。

<……まったく。この男は>

 華琳は自らの力不足に対する苛立ちを、慶次郎に対する怒りに変えて心中で毒づいた。

◆◆◆

「さて、これからどうするのじゃ」

 丘の下、黄巾賊たちから見えない位置まで下がると慶次郎は華琳に問うた。

「どうするのって……決まっているじゃないの。援軍を待つわ」
「それで良いのか?」
「ええ。合わせれば黄巾賊に二倍する兵。私たちの勝利は揺るがない」
「その通りじゃ。だが……」
「だが?」
「援軍が、多すぎる」

 慶次郎はつぶやくように言った。

「援軍が多いと、何かまずいことでも」

 慶次郎の右後方に控える白鎧の武将が尋ねた。星である。その背後には、同じく白鎧で統一された軽装備の騎兵が千騎控えている。彼女は客将である慶次郎の部下、すなわち陪臣でありながら曹軍の精鋭の一角である『白虎騎』の将を任されていた。

「そうですぞ、師匠。多ければ多いほど、我らも楽になるというものではござらんか」

 慶次郎の左後方に控える黒鎧の武将もそれに倣う。春蘭である。その背後には、同じく黒鎧で統一された重装備の騎兵が千騎控えていた。白虎騎と比べて一回り大きな騎兵で構成される彼らは、『黒豹騎』と呼ばれている。

 曹軍では、この白虎騎と黒豹騎を合わせて『虎豹騎』と呼んだ。そして慶次郎は現在、この虎豹騎の将を務めている。ちなみに、残りの千騎は華琳の親衛隊である。顔を面頬と頭巾で隠した武将がその指揮を執っている。

「この戦、おぬしにとっての『桶狭間』よ」
「おけはざま?」
「運命の分かれ道、ということじゃ」

 慶次郎は腕を組んだ。諸将は慶次郎の話を待つ。

「わしが援軍を呼ぶことに賛成したのは、彼らに我らが力を見せつけることができるからよ。予州には武威を誇る勢力がない。もし戦乱の世が始まれば、ここが各勢力の草刈り場になることは目に見えている。だからこそ、この機会に『予州に曹操あり』との評判を得たかった」
「……」
「しかし、これほどの援軍が送られては、我らは埋没する。『主役』にはなれん。そして、ここで活躍できなければ――恐らくはもう、歴史に名を残すには間に合わぬ」

 そう言うと、慶次郎は厳しい目で華琳を見つめた。

「華琳。おぬしは三人の英雄――袁紹殿、劉備殿、そして孫策殿たちの勢力の狭間に埋もれることになろう」
「……」

 華琳は歯を食いしばる。慶次郎の言うことはわかる。だが、ここにいるのはまさに『虎の子』の三千騎。莫大な費用と時間をかけて揃えた兵士達である。少しでも損失は避けたい。

 愛着もあった。兵士たちの多くは、彼女の地元の出身である。そして四六時中、一緒に過ごしてきた『仲間』たちなのであった。

「華琳様――我らは貴方様に従うのみ。何なりとご命令下さい」

 黒豹騎の副将を務める夏侯淵――秋蘭が華琳の目を見つめて微笑む。

「そうですぞ。我ら華琳様のご命令とあれば、たとえ火の中、水の中」

 春蘭が胸を張った。

「……ありがとう。秋蘭、春蘭」

 華琳は忠臣たちに笑顔で答える。そして、慶次郎を見た。

「慶次。あなたの言う通りね。今こそ、私にとって運命の分水嶺」
「うむ」
「援軍が来る前に、けりをつける。そして、我々の力を見せつけるわ」

 華琳はそう言うと、星と春蘭の方を向いた。

「春蘭、星。四半刻(三十分)後、丘の左右から側面攻撃を実施せよ」
「はっ!」
「承知いたした」
「慶次は虎豹騎の指揮を離れて、左右からの攻撃と同時に私と一緒に親衛隊と――」
「待て」

 諸将の視線が慶次郎に集まる。

「まず、わしが一当てしてこよう」

◆◆◆

 慶次郎に向かって、星が憤然たる表情で叫ぶ。

「何を言っておられるのです!相手は一万八千ですぞ!無謀に過ぎる!」
「いやいや、星。師匠ならば、この程度はものともするまいよ。天下無双と名高い呂布は、三万の黄巾賊をたった一人で斬ったと聞く。ならば師匠とて――」

 そこまで話して、春蘭は頭に衝撃を覚えた。慶次郎の槍の柄が彼女の頭をこづいたのである。

「な、何をするのです、師匠!」
「阿呆。いくさ場では現実を見よ。一人で一万八千も斬れるか」
「ですが師匠!呂布は三万の……」
「ならば聞く。呂布殿は三万の黄巾賊を斬るのにどのくらいの時間がかかった?」
「は?」
「一人で斬っていたら、一昼夜かかってしまうわ。その間、黄巾賊は順番に並んで待っておるのか?」
「む……」

 春蘭は黙り込む。

「それに、相手は黄巾賊じゃ。『兵』ではない。流浪の『賊』よ。その中に『天下無双の呂布に立ち向かう』つわものが、三万人もおるものか。そんな勇者が三万人もいたら、簡単に天下が取れるわ」
「た、確かに」
「要するに、呂布殿は三万人を斬ったのではない。『敗走』させたのじゃ。……それは呂布殿の武威もさることながら軍師の力、そして呂布殿が率いる董卓軍の力によるものよ。ゆめゆめ、勘違いするまいぞ」
「はっ!」

 春蘭は慶次郎に師に対する礼を取った。そんな春蘭を横目に、華琳は慶次郎に問う。

「講義の途中に申し訳ないけど、結局あなたはどうするつもりなの?」
「うむ?だから、一当てしてくると」
「自分で言ったじゃない。現実には一人で多勢を相手にするのは無謀だって」
「ああ、そう言った。だが、寡勢が多勢に勝利するには『何か』を起こさねばならぬ。奴らが浮き足立つきっかけになるような『何か』をな」

 慶次郎は空を見上げた。気持ちの良い、初夏を思わせる青空である。

「雨でも降れば一番良いのだが――そういうわけにもいかないようじゃ。だから、わしがそれに値する『何か』を起こすとしよう」
「……死ぬわよ?」
「十中八九、な。だが、それがおぬしの天下への足がかりとなるなら安いものよ」
「慶次……」
「なに、十中一二は生き残るだろう。――なかなか、良い賭けだとは思わぬか?」

 そう言うと、その男は完爾と笑った、

◆◆◆

 揚州との州境から戻って以来、愛紗は忙しい日々を送っていた。『慰撫』から戻った北郷軍を再編成し、予州への援軍とするためだ。正式に命じられたわけではないが、恐らくは自分が大将を任じられるであろうという予感があった。

 二週間ほど前のことである。予州の曹操という人物から黄巾賊討伐のための協力を乞う書簡が届いた。他州であれ、民が黄巾賊のために苦しめられているのは事実である。愛紗はそれに応じるべきだと主張した。しかし、一刀が珍しくそれを渋った。折も折、揚州との州境における緊張が高まったこともあって、その話は見送られていた。

 そして数日前、下邳に戻ると同様の書簡が届いていた。しかし、今回は前回とはまったく一刀の対応が違った。即座に援軍を送ることを決定し、その準備を愛紗に命じたのである。

 聞けば、その書簡には慶次郎の添え書きがついていた。今、曹操に客将として仕えているという。一刀の心変わりの理由も分かる気がした。

 久しぶりに慶次郎に会える。そして戦場で会うあの人は、一層その男ぶりをあげることだろう――そう考える愛紗の胸は、期待に高ぶっている。

 今、愛紗は一刀の執務室に向かっている。先ほど、呼出がかかったのだ。恐らく、今回の援軍に係わる内容と思われた。執務室の前で、その扉を叩く。

「ご主人様、愛紗です」
「待っていたよ。入ってくれ」

 愛紗は扉を開ける。執務室には、執務机に向かって座る一刀、そしてその側に立つ孫乾がいた。思わず、愛紗は顔をしかめる。彼女は、どうにも孫乾が苦手だった。何というか、前世でさんざんひどい目にあったような気持ちになってしまうのである。彼の一刀への献身は、彼女自身、十分に評価しているのだが……。

「愛紗。君に、予州への援軍の大将を頼みたい」
「かしこまりました」
「副将には、ここにいる孫乾をつける」
「……承知しました」

 孫乾と組むのは初めてだ。文官の彼は、戦には出たことがない。妙な人選だ――愛紗はそう思う。そこで、目の前の一刀が難しい顔をしているのに気づいた。何か、大切なことを言おうとしている。その言葉が発せられるのを待った。重苦しい時間が十秒ほど過ぎて、ようやく一刀は言葉を発した。

「……愛紗。君に、極秘の命令を下す」
「何なりと」
「曹操という人物……愛紗は知っているかな?」
「いいえ。存じあげませぬが」
「俺も『知らない』。だが、あの慶次さんが客将とはいえ仕えようと決めた人物――ただ者ではないことは確かだ」

 愛紗は無言で頷く。

「そこで愛紗に、曹操という人物の見極めを頼みたい」
「見極め、ですか」

 妙な命令だ――そう思った次の瞬間、彼女は主君の命令に目をむいた。

「そして、もし曹操が『英雄』ではなく『奸雄』であると判断したなら――斬り捨てて欲しい」

◆◆◆

「なっ!!」

 声が出た。そんな愛紗にかまわず、一刀は淡々と言葉を続けた。

「その際、慶次さんが曹操を守ろうと愛紗の前に立ちはだかる可能性がある」
「……」
「そして、慶次さんを斬れる可能性を持っているのは我が軍では愛紗、君だけだ」
「……」
「よろしく、頼む」
「……正気ですか?」

 思わず、一刀をにらんだ。しかし、一刀は動じない。その瞳に、迷いの色はなかった。

「愛紗。君が慶次さんに惚れているのは知っている」
「!」
「下邳に戻ってきたら、俺のことを斬ってくれてもかまわない」
「……」
「だから、頼む。何も言わず、この命令を……いや、お願いを聞いて欲しい」

 そう言うと、一刀は執務机に手を突いて頭を下げた。どういうことだ――愛紗は言葉が発せない。一刀が頭を下げ続ける側で、孫乾が話し始める。

「今回の予州の黄巾賊討伐、曹操は官兵の援護無く己の私兵のみで出兵する。『突然』予州牧の孔抽が病に倒れ、その助力を得られなくなったためだ。――だから、援軍要請を無視して放っておけば問題なかった。圧倒的な兵力差で、曹操は『滅びるはずだった』」
「……」
「しかし、二度目の援軍要請に前田慶次郎が添え書きをつけたことで状況は大きく変わった」

 そう言うと、孫乾はその顔に苦々しい表情を浮かべた。

「揚州の孫策殿は必ず兵を出す。間者によれば、袁紹もその動きを見せているという。兵力は互角以上となる。となれば、曹操は必ず勝つ。そして今回の黄巾賊討伐を機に、かの者が雄飛する可能性は高い」
「……」
「なればこそ、我らは今回の援軍要請を受ける。そして堂々と兵を率いて予州に侵入し、曹操に会う。かの者を弑すなら、千載一遇の機会だ」
「……」
「そして関羽。仮に曹操を――そして、前田慶次郎を首尾良く討ち果たすことになったなら、その時は俺の首を斬れ」
「!」
「この俺、孫乾が商家としての積年の恨みから曹操を闇討ちした。関羽はそれを知り、俺を誅した――そういうことにしてくれ。納得いかないかもしれないが、これが最善の策だ」

 孫乾の顔を見る。その瞳にも、迷いの色は見えなかった。愛紗は悟った。この二人、既に覚悟が済んでいる。

 誰も、言葉を発しない。その沈黙を破ったのは、一刀であった。下げ続けていた頭をゆっくりと上げると、彫像のように固まっていた愛紗に語りかける。

「愛紗……」
「ふっ」
「?」

 気づけば、愛紗が静かに微笑んでいる。

「ご主人様。――あまり、私を見くびられますな」

 そう言うと、愛紗は凛とした表情で己が胸に右手を当てた。

「あえて理由は聞きませぬ。――ご主人様にそのような責務を背負わせた責任は、貴方様を天の御遣いとして担ぎ上げたこの私にあります。その重荷、私が共に背負いましょう」
「愛紗……」
「そして、孫乾。商家であったおぬしをこの世界に引き込んだのは私だ。武人でもないおぬしが無理をすることはない。すべて、私の責で良い」
「関羽……」
「ご主人様。その主命、確かに承りました。曹操殿を見極めます。そして場合によっては……」

 最後までは言わず、愛紗は頭を下げると部屋の出口に向かった。扉に手を掛ける。そして、前を向いたまま主君の隣に立つ男に話しかけた。

「孫乾」
「……なんだ」
「仮に、慶次殿を討つことになったとして――一切の手出し無用」

 孫乾の答えを待たず、扉を開ける。

「あの人の首……誰にも渡さぬ」

 ささやくような声でそう言うと、愛紗は静かに出て行った。


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