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第9章 昇竜(3)
 焔耶の陣から土煙が上がってから一刻(二時間)後。大河の南岸にある孫軍の本陣に、二人の従者を連れた一刀の姿があった。右後ろに伏せる従者の側には、貧相な小男が縄でぐるぐる巻きにされている。

 彼らの前には、椅子に座る雪蓮を中心として孫軍の武将たちが左右に並んで立っている。一刀自らの訪問に、雪蓮の右隣に立っていた冥琳は一歩踏み出すと主の代わりに問うた。

「天の御遣い自らのご来訪とは恐れ入る。ご要件を伺おう」
「この男を、孫策さんに引き渡したい」

 そう言うと、一刀は右後ろに視線をやった。

「この男?」
「孫策さんの命を狙っていた。許貢の息子だよ」
「許貢の……」

 冥琳が地面に横たわる男に目をやる。許貢とは、以前孫策が殺害した人物であった。かつて彼は孫策のことを讒訴しようと朝廷に文書を送ったもののそれは劉表の手に渡り、その手を通して孫策に知れてしまった。そのことに激怒した孫策は、許貢を殺してしまったのである。

「それはありがたい。が、放っておけば良かったのではないか。今、私たちは敵同士だ」
「その通りさ。でも、戦うからには正々堂々とやりたい。俺たちは、暗殺なんて卑怯な手段を放っておこうと思わない」

 その時、背後から金切り声が上がった。

「て、天の御遣いともあろうものが!」

 一刀が振り返ると、縄でぐるぐる巻きにされた男が体をくねらせている。

「親の敵を討つ、これは孝廉の道なるぞ!天の御遣いでありながら、それを邪魔だてするなど……」
「うるさいな、お前」

 一刀の右後ろに伏せた従者が立ち上がると、男の顔前にその得物を打ち下ろした。巨大な金棒――鈍砕骨である。目の前の地面にめり込んだそれを見て、男は気絶した。焔耶は鼻息を一つ吐くと、男の腹を蹴り飛ばす。くぐもった声が漏れた。

◆◆◆

「――天の御遣い。なかなか面白い男のようね」
「雪蓮」

 冥琳が振り返る。先程まで黙って二人のやりとりを聞いていた雪蓮は椅子から立ち上がると、足を進めて冥琳の右側に立った。そして、衛兵に向かって手を振る。衛兵は許貢の遺児の首根っこを掴むと、陣幕の外に引っ張っていった。

「あなた。確か、北郷一刀といったかしら?」
「ああ、そうだよ。はじめまして、孫策さん」
「北郷。私の命を狙う暗殺者を捕らえてくれたこと、感謝するわ」
「礼には及ばないよ」
「いいえ。私たちは、恩讐を忘れない」
「え?」
「この恩に、報いましょう。――兵を引くわ」
「そ、孫策さん!」

 いきなりの和解の提案に、一刀は思わず声がうわずった。

「……この河を、袁術以前と同じく、州境とする。それでどうかしら?」
「ね、願ってもない!ありがとう!」
「礼を言うのはこっちの方よ。私の命の危険を防いでくれたのだから」

 雪蓮はそう言うと、にっこりと笑った。まるで、大輪の花が咲いたかのような笑顔である。つられて、一刀も微笑んだ。それを見て、雪蓮が小さく頷く。

「せっかくだから、そうね。――蓮華!」
「はい、お姉様」

 雪蓮の呼ぶ声に、一人の若い女性が現れた。一刀は目を奪われる。これまで、多くの美女を目にしてきたが、その女性はその中でも際だって美しかった。まるで絹のように滑らかな褐色の肌。そして、男ならば皆目を奪われる見事な体。その美女が、雪蓮の右側に立ち、上目遣いで一刀の顔を見上げた。

「紹介するわ。私の妹の孫権。真名は蓮華」
「お、お姉様!真、真名を勝手に!」
「今さら、何を照れてんのよ。この子ね、あなたにご執心なの」
「え?」

 一刀は、蓮華と紹介された女性の顔を見た。その美麗な顔が、一瞬で真っ赤に染まる。それを見て、一刀も同じように顔を赤くした。

「中華の平和のためにこの世に降臨した英雄、天の御遣い。北郷――あなたの徐州での活躍は、この揚州にも鳴り響いているわ。そんなあなたの活躍に、この子は憧れているのよ」
「お、お姉様!おやめ下さい!」

 蓮華があたふたと雪蓮の言葉を遮ろうとする。しかしそれを右手で軽くあしらうと、雪蓮は一刀の顔をじっと見つめた。そして、ぽんと手を叩く。

「それにしても、北郷。あなた、なかなかいい男ね」
「えっ?」
「決めたわ。ねえ、あなた独身?」
「え?ま、まあ、そうだけど」
「それじゃ、問題ないわね。北郷、蓮華と結婚しない?」
「「はあ~!?」」

 一刀と蓮華の声が重なる。雪蓮は蓮華の背後に回ると、その背中を押した。たたらを踏んだ蓮華は、思わず目の前の一刀の胸にすがりつく。抱き合ったかたちになった二人の顔が真っ赤になる。一刀は慌てて蓮華の両肩をつかみ、ゆっくりと自分から引き離した。その手にしたがいながらも、蓮華はどこか名残惜しげである。そんな二人を見て、満足そうに雪蓮は頷いた。

「うん、お似合いね!」
「そ、孫策さん!」
「お、お姉様!」
「二人が一緒になれば、揚州と徐州はきょうだいの間柄。私たちが争うこともない。それどころか、いろいろと協力できるわ。ねえ、冥琳」
「ああ。実に良い考えだな。――諸葛亮殿はいかがかな」

 冥琳は一刀の左後ろに伏しているもう一人の従者、朱里に声をかけた。

◆◆◆

 ぽたっ。

 顔を伏せたままの朱里の目に、地面に落ちる水滴が見えた。彼女の汗である。

 冷や汗が止まらない。朱里は、自らが辿りついた結論に恐怖した。

 もしかして――すべてが『彼ら』の手のひらの上なのではないか。

 彼女の目の前に、顔を赤くした二人――一刀と孫権がいる。彼らは時折お互いの顔を見ては、顔を背けている。何とも初々しい二人だ。

 そして、その二人の背後に立つ彼ら――孫策と周瑜はその満面の笑顔を崩そうとはしない。だがその笑顔は、朱里にはまるで人食い虎が口を開けているように思われた。

 この戦の端緒となったのは、北岸に住む民たちの度重なる直訴である。それを知った孫策が、徐州に喧嘩を売りつけた。民の幸せを願う一刀はその喧嘩を買わざるを得なかった。しかし、その喧嘩が最初から仕組まれていたとしたら?

 この喧嘩、どちらの分が悪いかといえば、それは袁術の不法占拠を肯定しようとした孫策側にある。袁術の悪政を批判しつつ、都合のいいところを継承しようとするのは決してほめられた態度とは言えない。にもかかわらず、彼女はそれを強硬に主張した。

 そして、命を救ってくれたことに対する礼として、自ら劇的な和解を申し出た。なるほど、気持ちの良い判断である。――表面上は。

 戦前に北郷軍に放たれた無数の斥候。その目的は、おそらくはこの戦のためではない。十中八九、北郷軍の実力を探るためであろう。その構成、進軍速度、武将たちの指揮。仮に北郷軍が揚州を攻めるとしたら、どう攻めてくるのか。そのための情報を得るための斥候なのではなかったか。

 そして、天の御遣いとの対決と和解。自ら一歩引いてみせることによって、天の御遣いに恩を売る。そして、その機会に乗じて自らの妹を后に勧める。孫家の家柄は、天の御遣いにとっても申し分ない。もしこの婚儀が成立すれば、天の御遣いは孫策の『弟』になる。そして、孫家には天の御遣いの血が入るのだ。

 孫策たちは元々返還するつもりだったこの場所を利用して北郷軍の実力を測り、かつ天の御遣いを取り込もうとした――それこそが、この一連の争いの本当の背景なのではないか。こちらは、元々持っていたものを取り戻したに過ぎない。それに対して、彼らが得たものは限りなく大きい。一兵も損じることなく、徐州の情報とその誼を得た。

 そもそも、一刀が止めたことになっている許貢の遺児による暗殺騒動は、本当にそうなのか。雪蓮たちはそのことを知っていて、あえて泳がしていたのではないか。天の御遣いならばそれを捕らえた後、それを良しとせずにこうして自ら陣に出向いてくるだろう――そんなことまで、仕組まれていたとしたら。

 甘かった。天の御遣いの『天運』――そんなものに、この諸葛亮ともあろうものが知らず知らずのうちに依存していた。ふぬけていた。暴君として知られながらも強大な勢力を誇った袁術を電光石火の勢いで追放した彼らが、そんなに簡単な相手であるはずがない。

 だとしたら、私もこの機会でせめてもの教訓を得るべきだ。――この隣人たちに、決して油断してはならない。彼らが私たちと袂を分かつ時、きっと黄巾賊など比べものにならない敵になるだろう。

◆◆◆

 朱里は顔を伏せたまま、その袖で顔の汗を拭うと顔を上げてにっこりと微笑んだ。

「それは良い提案ですね」
「じゃ、決まりね。それじゃ……」

 話を進めようとする雪蓮を、朱里は非礼とは知りつつ手を挙げて制した。そして、一刀に笑顔のままで語りかけた。

「しかし、ご主人様」
「な、なんだい、朱里」
「もしそうなさるつもりなら、桃香様、鈴々ちゃん、紫苑さん、桔梗さん、雛里ちゃん――そして、愛紗さんの了解をご自分でとって下さいね」
「うっ……」
「皆さんの了解が取れたら、私も認めようと思います」
「ははは……」

 一刀は苦笑いをする。それは中華を統一するより困難なことに思われた。曖昧な笑顔を浮かべる一刀に、雪蓮はそのほおを膨らます。

「何よー。天の御遣いなら、そんなこと押し切りなさいよ」
「うーん。そういうわけにもいかないよ」
「んもー。……それじゃ、仕方ないわね。まずは、友達からってことでどうかしら」
「うん、それなら」
「お、お姉様!勝手に話を……あの……その……お、お願い、します……」

 蓮華が真っ赤な顔で一刀に頭を下げる。一刀も慌てて頭を下げた。甘酸っぱい雰囲気が周囲に満ちる。

 そんな二人の姿を見て、雪蓮は冥琳と視線を合わせた。最高とはいえないが、まあまあの結果である。少なくとも、徐州が今後、孫家と敵対することはないだろう。この中華において、大義なく天の御遣いを要した勢力と争うなど愚の骨頂だ。

 ちなみに、蓮華が一刀を慕っているのは本当である。もっとも、そのように情報を与えて彼女の恋心を育てたのは、雪蓮と冥琳であった。そして、蓮華の慕情が真であればあるほど、天の御遣いはそれを無下にすることはできまい。今の軍師への対応を見ても明らかなように、この北郷という男、女には甘い。

 そして、それが真なる恋心であればこそ、彼の側に立つ軍師もまた、こちらの真意をくみ取ってなお強いことはいえないはずだ。彼女も女である。己の発言が、嫉妬にとられることを恐れるに違いない。

 何度も頭を下げあう一刀と蓮華の姿を見ながら、雪蓮はその唇をぺろりと嘗めた。

◆◆◆

「も、申し上げます」

 その声に、その場にいる武将たちの目が集まる。陣幕の外から、片目眼鏡をかけた若い女性の士官が入ってきた。彼女はおずおずと足を進め、雪蓮の前に膝をついた。

「どうしたの、亞莎?」
「は、はい」

 亞莎と呼ばれた士官は、一刀たちにちらりと目をやる。

「いいわよ。彼らは私たちの『盟友』。隠すことはないわ」
「は、はい。それでは」

 亞莎は竹簡を雪蓮の前に差し出した。

「予州の曹操殿から、再度書簡が届きました」

 その名に、一刀の体がぴくりと動く。それを見て、雪蓮はにやりと笑った。

「そっちにも届いているようね」
「……」
「まったく。商家風情が、黄巾賊の討伐になんかに乗り出すから」

 そう言うと、雪蓮は竹簡を結わえる紐をほどいた。そしてそれを開くと、内容を確認する。前回と、ほぼ同じ内容であった。

「……黄巾賊の討伐を予定しているが、兵が足りない。中華の平和のため、ぜひご協力されたし、か。北郷、あなたのところもそんな感じ?」
「……ああ。そうだよ」
「で。あなたのところは、兵を出してあげるの?」
「残念だけど、こちらにそんな余裕はないって答えたよ」
「あらあら。天の御遣いともあろう者が、薄情ねえ」

 そう言うと、雪蓮はけらけらと笑ってみせた。だが、一刀は笑えない。彼の三国志の知識のネタは『蒼天航路』である。もし曹操があの通りの人物ならば、その彼――もしくは彼女は、これから徐州で歴史に残る大虐殺を実行する。その勢力拡大に利するような行為に、断じて力を貸すわけにはいかなかった。

「亞莎。前回と同じように返事をしておいて。――いいわね、冥琳」
「ああ。亞莎、私の名前で断っておいてくれ」
「は、はい」

 亞莎は小さな声で答えると、頭を下げた。そして、もう一件の連絡事項を伝える。

「じ、実は、今回の曹操殿からの書簡には、添え書きがついています」
「ふーん?」

 もう関心が無いのだろう。明後日の方向を向きながら、雪蓮は面倒くさそうに答える。そんな主君に代わり、冥琳は亞莎に問うた。

「亞莎。その添え書きは誰によるものだ」

 亞莎は唾を飲み込んだ。孫家の一部の人々の中で、雪蓮が時として狂人と化すほどに恋い焦がれている『その人物』の名は知られていた。その人物は、徐州から予州に向かう途中に行方不明になったという。その行方を見失った間者に対して雪蓮が示した怒りは、もはや語りぐさであった。恐る恐る、亞莎はその添え書きを書いた人物の名前を告げる。

「曹操殿の客将をされているという、前田――」

 次の瞬間、雪蓮が恐ろしい勢いで振り返った。同時に、天の御遣い――北郷と名乗る男も大きく目を見開く。亞莎は思わず目を瞑ると、その言葉を続けた。

「――慶次郎殿によるものです」

 沈黙が訪れた。雪蓮の目が、そして一刀の目が――亞莎の手元にあるもう一つの竹簡に集まった。


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