第8章 胎動(5)
「店主。この料理、ちょっと塩気が強すぎますわ。油も使いすぎています。味つけがなっていませんわね」
「へへえ」
「それに、野菜はゴミくずのような切れ端ばかりですし、お肉も固すぎます。もっと良い材料を使いなさい」
「へへえ」
「そもそも、量が多すぎます。盛りつけも下品です。とても、上品な料理とはいえませんわ」
「へへえ」
平身低頭の店主の前で、口元を手ぬぐいで拭いながら、袁紹――麗羽は気持ち良く語っていた。彼女の目の前には、食卓の上をすべて覆わんばかりの大量の料理が置かれている。それらの料理に、彼女はいちいち批評を加えているのであった。三ヶ月ほど前から麗羽が初めた取り組み、『華麗なるお忍び』の一環である。
徐州の都である下邳に『天の御遣い』が現れてから瞬く間に街が隆盛を極めたことは、この鄴でも話題になっていた。北郷一刀と名乗るその御遣いは、天から使わされたにもかかわらず気さくに市井の人々と交わり、天の知識を惜しげ無く分け与えているという。
それを耳にした麗羽は対抗意識を燃やした。それなら自分にもできると、このお忍びを始めたのである。この鄴をより華麗なる街にするためには、自分の華麗なる頭脳からもたらされる華麗なる助言が必要である――そのように信じる彼女は週に一度の頻度で街に出て、斗詩が勧める店に入ってはこのような『助言』をしているのであった。
お忍びであるから、原則としてお付きの者は斗詩と猪々子しかいない。彼女自身、普段身につけている華美な装飾品を外し、市井の人を演じていた。もっとも、そう思っているのは本人だけで、街の人々の誰もがそれが袁紹であることを知っていた。あの金髪の縦ロールを見ただけで、誰もがわかってしまう。他に、あんな髪型をした女性などいないのだ。
そもそも、この店内の客すべてが『サクラ』である。猪々子が率いる軍の選りすぐりの兵士たちだった。彼らは『食べ放題』という役得のあるこの仕事を喜んで引き受けた。もちろん、彼らはサクラであるのと同時に袁紹の『護衛』でもある。
ひとしきり語った麗羽は立ち上がった。満面の笑顔である。
「さて。斗詩さん、猪々子さん、行きますわよ」
「はーい」
「ええ~。ちょっと待って下さいよ~」
猪々子は慌てて目の前の料理をかきこむ。そして名残惜しそうに立ち上がると、隣席の慶次郎を見てにこりと笑った。その肩を軽く叩くと、先を歩く麗羽と斗詩を追いかける。
「斗詩さん、次はもう少し上品なお店を紹介して下さいね」
「す、すみません~」
「あたいは結構気に入ったけどな」
そんなことを話しながら店から離れようとする三人に、店内を凍らすような言葉が投げかけられた。
「待てい。そこなおなごども」
◆◆◆
「……?」
静寂の中、麗羽は振り返った。この『何故か』男性だらけの店内で、女性は自分たちだけである。だが、この華麗なる私にこのような無礼な発言をする人間など――一番奥の席に座る大柄な男と目が合った。先ほど、隣の食卓に座っていた男である。
「お代を払わぬか」
「お代?」
麗羽は首を傾げた。お代――食事代のことか。いつも、斗詩に任せているので失念していた。斗詩が払い忘れたのだろう。あの無礼な男には腹が立つが、その言い様はもっともである。それに自分はお忍び中である。この場で罰を与えることは避けるべきだった。
「……それは失礼しましたわ。斗詩さん、払ってあげなさいな」
「……」
「斗詩さん?」
「あ、ありません~」
斗詩は泣きそうな顔でそう答える。このお忍びは、麗羽以外は周知の『お約束』である。麗羽たちの食事代、そしてサクラを演じている兵士たちの食事代は、麗羽の満足度を尺度として後日、店主に下賜されることになっていた。そのことを、店主は承知している。兵士たちも、承知している。だから、これまでは何の問題も無かったのだが……。
「……何ですって?」
「す、すみません~」
斗詩は麗羽に頭を下げる。その隣では、猪々子が青ざめている。斗詩は頭を下げたまま、猪々子をちらりと見上げた。その視線に気づいた猪々子は、慌てて無礼な『部下』を怒鳴りつける。
「お、おい、お前!」
「何じゃ」
「じ、自分の『仕事』を忘れるなよ!」
「じゃから、わしはおぬしのことなど知らぬと言ったろう。そもそも、わしは今日、この街に来たばかりじゃ」
「な……!」
『部下』ではなかった!どうすればいい――猪々子の頭は真っ白になった。
これまで、こうしたハプニングは一度も無かった。店主に事前に事情を説明していることに加え、いかに事情を知らぬ旅人であっても、いかつい男たちで溢れるその店でわざわざ食事をしようとする物好きはこれまでいなかったのだ。
動転する斗詩と猪々子の姿を見て、麗羽はため息をついた。まったく、この私がいなければ何もできない人たちですわね――麗羽は厨房の入口で固まっている店主に向かって声をかけた。
「店主」
「へ、へい!」
「あいにく、持ち合わせがございませんわ。後日、持たせますのでそれでよろしくて?」
「へ、へい。それはもちろん「おぬし、この店は何回目だ」
店主の声を慶次郎が遮る。本当に『礼儀を知らない』男だ。麗羽は眉をひくつかせながら答える。
「……今日が、初めてでしてよ」
「ほう。初めての客がつけ払いを願うか。いやはや、まったくもって『礼儀を知らぬ』おなごよの」
◆◆◆
「な……なんですってー!」
さすがにぶち切れた。その怒りに慶次郎の次の言葉が油を注ぐ。
「おぬし、麗羽と言ったか?」
「な……な……な……」
麗羽は絶句した。店内の人々は表情を凍らせたまま、一斉に汗をかき始める。無論、冷や汗である。こともあろうに、冀州と兗州の州牧を兼ねる袁紹の真名を、得体の知れぬ旅人風情が軽々しく呼んだのだ。通常であれば、この場で首を打たれても仕方のない狼藉である。
事実、麗羽はそのことを左右に立つ斗詩、猪々子に命じかけた。しかし、それはここではできない。あくまで、自分はここに『お忍び』でいるのだ。その正体を明かしたら、市井の人々に交わってその意を汲む君主どころか、単なる自分勝手な暴君になってしまう。
そんな麗羽と店内の人々の気持ちにはお構いなく、慶次は言葉を続ける。
「麗羽とやら。おぬしが恥知らずではないというのなら、提案がある」
「提案?」
「うむ。ここで働いてそのお代を返すが良い」
「ここで働く?」
「そうよ。給仕をせい」
「そ、そんな下賤な仕事をこの私が……」
「お代を払わずに偉そうな態度を取る方が、わしにはよほど下賤に思えるがのう」
「こ、この……!」
なんたる無礼。なんたる非礼。そして、なんたる侮蔑。麗羽の怒りは頂点に達した。だが、それを表に出すほど愚かなわけでもない。伊達に二州を治めているわけではなかった。麗羽は大きく息を吸うと、この無礼者に返答する。
「……わかりましたわ。あなたの提案、飲みましょう。ただし」
「ただし?」
「私と、勝負しなさい!」
「はあ?」
麗羽の意がくみ取れず、慶次郎は眉をひそめる。そんな彼に、麗羽はまくしたてた。
「給仕勝負をしなさい!どちらが多くの注文を取れるか勝負ですわ!」
「なんで、わしがそんなこと……」
「うるさいですわ!とにかく、勝負しなさい!あなたのような礼儀知らずの下賤な男、この華麗なる袁……ごほんごほん、私の足下にも及ばぬことを証明して差し上げます!」
「いや、だからわしは……」
「斗詩さん!」
「ひ、ひゃい!」
突然話を振られた斗詩が慌てて答える。そんな斗詩に、麗羽は命令を下した。
「大至急、街に出て最高級の給仕服を買ってきなさい!」
「は、はい!い、行ってきます!」
そう言うと、斗詩は飛び出していった。
◆◆◆
着替えを終えて厨房から出てきた麗羽たちに、慶次郎は目を見張った。黒ずくめのひらひらした服を着ている。見慣れた給仕服とはまったく違う。
「何じゃ、その服は」
「えーと、これは徐州は下邳で大流行と噂の給仕服です。何でも天の御遣い様が意匠された給仕服で、『めいど服』っていうらしいですよ」
「冥土服?」
「……何か、非常に不愉快な言い間違いをされた気がしますが、今さらそんなことはどうでもよろしくてよ」
そう言うと、麗羽はびっと慶次郎を指さして宣言した。
「それでは!……えーと、あなた!?」
「……前田慶次郎じゃ。慶次で良い」
「では、慶次さんとやら!準備はよろしくて!」
「いや、だからわしは……」
「勝負開始ですわ!斗詩さん!猪々子さん!行きますわよ!」
「はーい!」
「……なんであたいまで」
麗羽を先頭に、三人が並んで客席に突っ込んでいく。満員の客席に小さな歓声が沸いた。
「……やれやれ」
慶次郎は苦笑しながら席から立ち上がった。
◆◆◆
三刻(六時間)後。空はすでにあかね色に染まっている。一番奥の食卓、麗羽が最初に食事をした四人掛けの食卓に、メイド服を着た三人の女性が突っ伏していた。麗羽、斗詩、猪々子である。その隣の二人掛けの食卓の椅子では、慶次郎が涼しげな顔でお茶を飲んでいる。
もともとこの酒家で給仕をしていた初老の女性が、食卓を壁際に寄せて店内の掃除をしている。店内には、すでに客は誰もいない。通常であればそろそろ夕食を食べに来る客で賑わう時刻であったが、すでに店は閉められていた。この三刻で、すべての食材を使ってしまったためである。
とある酒家で我らが君主が珍妙な給仕服に身を包み、料理の注文を取っている――その噂は冀州軍の兵士たちの間に瞬く間にひろがった。それの噂を確認するために来店した兵士たちはそれが真実であることを知り、ある種の感動を持ってどんどん注文した。また、その噂は兵士たちだけではなく市井の人々にも拡がり、彼らもまた客として来店した。その結果、この酒家は前例のない賑わいを見せて現在に至っている。
「こ、この勝負……私の勝ちということでよろしくて?」
気づけば、麗羽が頭を起こしていた。その顔には、はっきりとした疲労の色が見える。麗羽は、慶次郎の顔を恨めしそうな顔でにらんだ。
「ああ。わしの負けじゃ。完敗じゃな」
慶次郎は素直に負けを認めた。麗羽のとった注文は慶次郎は言うに及ばず、斗詩と猪々子と比べても圧倒的に多かった。その言葉を聞いて、麗羽はようやく元気を取り戻す。胸を張って男を指さした。
「おほほほほ、当然のことでしてよ。あなたごとき、この華麗なる袁……ごほん、ごほん、この私の足下にも及ばぬということを十分に理解できたのではなくて?」
「ああ、そうじゃな。おみそれした」
これまた素直に、慶次郎は麗羽の言を肯定する。良い気分だ。その気分のまま、麗羽は慶次郎に無礼に対する『詫び』を要求した。
「ああ、いいだろう」
慶次郎はうなずく。
「それでは、どのように詫びて下さるのかしら」
「そうじゃな。……『さんべん回ってわんと言う』というのはいかがかな」
「……そこまでの詫びは求めませんことよ」
「いいですよ、慶次さん。私たちも悪かったと思いますし」
「そうだよ、アニキ。なかなかいい経験をさせてもらったぜ」
いつの間にか、麗羽の左右にいる斗詩、猪々子も体を起こしている。
「いやいや。麗羽の頑張りにはほとほと感服した。わしも誠意を見せねばなるまい」
そう言うと慶次郎は立ち上がり、掃除のために食卓の避けられた店内の中央に立った。そして、踊るようにくるくると三回転する。思わず、麗羽たちはその立ち振る舞いに見とれてしまう。そして三回転した慶次郎は片膝をつき、よく通る声で『わん』と言った。
「「「……」」」
「いかがかな?」
「え?……よ、よろしくてよ。詫びを受け入れましょう」
惚けたような表情で、麗羽はうなずいた。
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