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第8章 胎動(3)
 ちゃかぽこ、ちゃかぽこ。

 馬の足音と、その背に積まれたいくつものメンマの壺がぶつかり合う音。それらが醸し出す珍妙な音を立てながら星が小沛の街に戻ってきたのは、慶次郎たちが出立した日の昼過ぎのことであった。

 いつもとは違う街の雰囲気に、彼女は首を傾げた。昼時である。街の人々は、活発に街を往来している。しかし、そこには何か気怠い雰囲気が漂っていた。例えるならばそう、まるで祭りの後のような……。あくびをする人の姿が目に付いた。

『流流楼』の前を通りかかる。そこで、星は再び首を傾げた。昼時だというのに、流流楼は休業していた。店員たちが、せっせと店内の掃除をしている。何やら、大宴会の後片付けでもしているようだ。

「ああ、これは趙雲様」

 馬の足を止めて流流楼を眺める星に気づいて、店員が頭を下げた。以前、『季季楼』に何度もメンマを買い出しに来ていた星は、流流楼の店員たちと顔見知りである。

 そして、店員たちは星について詳しく知っていた。星はそのことは知らないが、何しろ彼らの主たちの護衛を務めていた人物なのだ。

「何やら、大宴会でもあった後のようだな」
「ご明察。昨晩は、大変な賑わいでございました」
「ほう。どなたが主催されたのだ」
「……予州から来た、豪商の方でございます」
「豪商?」
「はい――それ以上は」

 そう言うと、店員は頭を下げた。星も頷く。高級店であればこそ、客について話すことは控えねばならない。

「いや、邪魔したな」
「いえ」

 頭を下げる店員の前を、星は軽く会釈して通り過ぎた。

 ちゃかぽこ、ちゃかぽこ。

 屋敷へと向かう星の後ろ姿を、店員はしばし見つめていた。

◆◆◆

 星が屋敷の前の通りに入ると、屋敷の前に人影があることに気づいた。近づいてみると、その男性は屋敷の前に立てられた木札を見ているようである。星は、馬上から男性に声をかけた。

「いかがなされた」
「……どなたですか?」

 男性がこちらを見上げる。眼鏡をかけた長髪の若い男性である。道士のような服を着ている。

「私は、この屋敷に滞在されている前田慶次郎殿の――第一の家臣、趙雲と申す者」
「……第一の家臣?」

 男性が、いぶかしげな顔になる。星は少々気分を害しつつ、愛馬から降り立った。そして男性の隣に立ち、木札に目をやる。それは、慶次郎から星への伝言であった。要約するならば、下記のような内容である。

 星へ
 縁あって、予州の曹操殿に客将として世話になることになった。
 これまで、大変世話になった。
 お主は自由にせよ。
                          慶次郎

 男性の表情に合点がいった。慶次郎の出立を知らず、まるで置き去りにされたかのような自分が『第一の家臣』を名乗ったことに不審を感じたのであろう。星はからからと笑ってみせた。

「……いやいや、お恥ずかしい。わが主は自由奔放な方でしてな。その腰の軽さにはいつも困っている次第」
「はあ」

 男性はわかったような、わからないような曖昧な顔をして頷く。その顔を見ながら、星は慶次郎に対する小さな怒りと大きな喜びを感じていた。

 前者は、自分を置き去りにしたことに対する感情である。だが、慶次郎のような男についていくと誓った以上、この程度のことは予想すべきであった。だから、それほど怒っているわけではない。

 そして後者は、慶次郎がとうとう立身を志したことに対する感情であった。それは、喜びというよりむしろ歓喜に近かった。自らが惚れた男が、その存在をこの乱世に問おうとしている。とうとう、この時が来たか――ぶるっ、と体が震える。武者震いである。

 木札の日付を見れば、今日の日付であった。まだ、遠くには行っていないはずだ。急げば、慶次郎が予州に着くまでに追いつくかもしれない――星は、気分が高揚するのを感じた。顔が熱い。両手でぴしゃりと頬を叩く。

 気づけば、隣の男性が自分をものめずらしげに見つめている。すっかりその存在を忘れていた。星は急に恥ずかしくなり、咳払いをしてみせた。

「お、おほん。ところで、何か御用でも」
「あ、はい」

 男性は、思い出したとでもいうような顔で手を軽く叩いた。

「実は、前田殿にお知らせしたいことがあったのですが」
「慶次殿に?」
「はい」
「よろしければ、私がお伝えしましょうか」
「……いえ。信用していないわけではございませんが――大切なことなので」

 そう言うと、男性は丁寧に頭を下げた。何か、事情があるようだ。無理に聞きだすこともないだろう。星もまた、男性に軽く頭を下げると馬上の人になろうとする。その時、木札の下に書かれた小さな文字に気づいた。

「なになに、『星ちゃんへ 風』……とな」

 見れば、木札の柱には白い布のようなものが結びつけられている。恐らくは、手紙だろう。星は屋敷を見た。入口は綺麗に清められ、門も閉められている。もしかして、稟や風もこの『曹操』という人物に仕えることになったのかもしれない――そんなことを考えながら、星は白い布を木札の柱からほどくと、内容を改めた。それは予想通り、風から星に宛てた手紙であった。

「なにな……に?」
「……?」

 男性は、目の前の女性の表情の急な変化に戸惑った。その顔色は一瞬で赤くなったかと思うと、次の瞬間に真っ白になった。そのまま、固まっている。瞬き一つしない。不思議に思った男性は、声をかけた。

「あの……趙雲殿?」
「……客人」
「はい」
「一歩、下がられよ」
「は?」

 男性が答えた刹那、いつの間にか星の右手に握られていた龍牙が一閃した。一時を置いて、木片が四つに分かれて地面に落ちる。

「ひゃあ!」

 思わず、男性は腰を抜かして地面に手をついた。

「……」

 無言のまま、星は馬にまたがった。そして馬首をくるりとめぐらすと、手綱を強く引く。そして、全力で走り出した。

 ずちゃぼこがん、すちゃぼこがんがん。

 馬蹄の音とメンマの壺がぶつかり合う音、それらが入り交じったすさまじい音を残して、星は屋敷の前から走り去った。



 音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると男性はゆっくりと立ち上がった。それまで浮かべていた驚愕の表情はすでに消えている。擬態だったようだ。彼は臀部の埃を払うと、小さくつぶやいた。

「なるほど、曹操につきましたか……意外ですね」

 顎に右手を当てる。そして、空を見上げた。

「……まあ、特に支障はないでしょう」

 一陣の風が吹く。次の瞬間、男性の姿はそこになかった。

◆◆◆

「頼もう!」

 屋敷の門前で、星は大音声を張り上げた。白い闖入者に、門番を務める二人の兵が槍をかざす。

 予州は譙県、華琳の本拠地となる屋敷の前である。小さな砦とでも言うべき威容を誇るその建物の前で、星は愛槍を片手に仁王立ちしていた。『怒り心頭』という言葉を形にしたような姿である。その姿に威圧されて、門番たちの持つ槍が小さく震えていた。

「……誰かしら?」

 門が開く。若い女性が現れた。髑髏の髪留めで、美しい金髪を二つにまとめている。背はさほど大きくないが、それを補ってあまりある威厳に満ちていた。その女性が、不機嫌そうな半目のまま大鎌を持ってゆっくりと門から出てくる。門番たちが、さっと左右に分かれた。その姿を見て、星は思う。

<この女か――風の手紙にあった、慶次殿をたぶらかした金髪の女狐とやらは>

 風の手紙には、彼女と稟が曹操なる人物の配下であることの告白とこれまでそのことを隠していたことへの謝罪、そして慶次郎が金髪の美女たる曹操に『一目惚れ』してその配下になることを懇願した――といったようなことが記されていた。

 慶次郎が『一目惚れ』したなどと、軽々に信じられるものではない。だが、彼が曹操の下に着くことを決めたことは事実であった。この女、どのような『卑怯』な手で慶次郎を配下に引きずりこんだのか――星は、目の前の女性を烈火のような瞳でにらみつけた。

 しかし、華琳は星の視線をまったく意に介さない。やがて、二人の女傑は顔をつきあわせて真正面から向かい合った。星が口火を切る。

「出してもらおう」
「……何を?」
「知れたこと。慶次殿を、だ」
「慶次を?」

 華琳は首を傾げた。星の怒りは更に増す。この女、慶次殿のことを既にそのような呼び方で――だが、華琳の返答は予想もつかないものであった。

「――いないわ」
「いない?」
「そう――あの男」

 華琳の額に青筋が立つ。星は気づいた。目の前の女性も『怒っている』。

「消えたわ」
「消えた?」
「そうよ」
「……戯れ言は、よしてもらおう」
「本当よ」

 そう答えながら、華琳は慶次郎が消えたときのことを思い出す。屋敷に到着すると、門前に道士のような服を着た若い男性が待っていた。眼鏡をかけた、長髪の男性である。その男性は、慶次郎と知り合いのようだった。そして――。

「若い道士風の男と話していたと思ったら、目を離した一瞬の間にいなくなっていた」

 そう言うと、華琳は唇を噛んだ。

<若い道士風の男……?>

 星の脳裏に、先に小沛の屋敷の前で会った若い男の姿が目に浮かぶ。しかし、その男であるはずがなかった。自分はここまで、馬の乗り全力で移動してきている。そんな自分より、先にここまで辿りつくことなどありえない。星はその男のことを脳裏から捨て去ると、目の前の女性に改めて対峙した。

「申し遅れた。私の名は趙雲――慶次殿の第一の『家臣』だ」
「あら、あなたが。――私の名は曹操。慶次の『主』よ」
「……くっ!」
「……ふん」

 二人は再びにらみ合う。――もはや、問答無用。

 ちゃき。

 星が龍牙を構える。華琳も同時に大鎌――絶を構えた。 

◆◆◆

 二人の気が増大していく。門番が一人、崩れるように地に伏した。気に当てられたのだろう。そして二人が一歩をまさに踏み出そうとした時、門から黒鎧の人物が飛び出してきた。その右手には、大きな剣が握られている。

「ようやく戻ってきおったか!」

 その人物は怒りの表情を浮かべて大音声を発すると、主君と対峙する女性に斬りかかろうとした。

「止めなさい、春蘭」
「は!しかし、この男……」
「男じゃないでしょ」
「む……そういえば」

 その人物――夏侯惇、その真名を春蘭――はうなずいた。春蘭は慶次郎とまだ会っていない。彼女が主君たちを出迎えようと門から出たとき、その男はすでに消えていたのだ。

 なんでも、風に聞いたところで華琳の『大のお気に入り』らしい。まったくもって、気に食わない男である。その顔を見る前から、春蘭の慶次郎に対する印象は最悪のものとなっていた。

 気が削がれてしまった。華琳は大鎌を引く。それを見て、星も槍を引いた。春蘭もその剣を腰に納める。

「ところで、華琳様。この人物は?」
「趙雲。……慶次の第一の家臣、だそうよ」
「なっ!」

 春蘭は改めて怒りの表情を取り戻すと、その剣を抜いた。そして、それを星の面前に突きつける。

「貴様の主のごとき素性の分からぬ男なぞ、われらには無用!さっさとここから立ちされい!」
「望むところよ。かような場所に用はない」

 二人はにらみ合う。だが、すぐに星は春蘭から目を外すと、その隣に立つ華琳に問いかけた。

「ところで、曹操殿。慶次殿の行く先の目星は?」
「あるわけないでしょ。――そもそも、慶次はここが初めてのはずなのよ」

 二人は顔を見合わせると、同時にため息をついた。共感するものがあった。自由気ままなあの男に対する気苦労は、お互いに共通しているようだ。華琳は少しだけ星に親しい気持ちを感じると、諭すように言った。

「でも、きっとすぐに戻ってくるわよ」
「その、根拠は?」
「松風が落ち着いているわ」
「楽観的に過ぎませぬか?」
「そうかしら」
「その道士風の男にさらわれたのかもしれませんぞ。今頃、危険な目に遭っているのやも」

 そう言いつつも、実際のところ星はまったくそんな風には思っていない。星の気持ちを見透かすように、華琳は笑ってみせた。

「――あの男が簡単に死ぬとでも思って?」
「いえ」
「でしょう?」

 華琳が言葉を続ける。

「それに、あの男は私と一緒にいると約束した」
「……」
「あの男が、約束を破ると思って?」
「いえ」
「でしょう?」

 華琳の言葉を聞いて、星も覚悟を決めた。まずは、慶次郎が戻るのを待つ。その上で、自らの身の振り方を決めることにしよう。それまでの間、慶次郎が主とすることを決めたらしいこの女性――曹操という人物を見極めねばならない。慶次郎にとって毒となる存在であるならば、万難を排して遠ざけるのみ。

「――しからば、私も慶次殿が戻るまでここで待たせていただく。よろしいか?」
「いいわよ。好きになさい」 

 華琳は星にそう言いながら、小沛の街を出る時の慶次郎の言葉を思い出していた。『もし星が訪ねてきたら、度量を示すのだな』――小沛の街を出る時、彼はそう言った。二人の軍師の評価によれば、この武将は槍術においてこの中華において並ぶ者がないほどの技量を誇るという。その武が本物か、そして慶次郎にとってふさわしい家臣であるかを見極めねばならない。役に立たない存在であるならば、即刻切り捨てるまで。

 それぞれの思惑を胸に、星と華琳は改めて正面から向き合う。その時、二人の間に割り込むように眠そうな声が聞こえてきた。

「そうそう。お兄さんを信じましょう」
「「風?」」

 星と華琳が同時に声を発する。にこにこと微笑みながら、風が門から出てきた。

「きっとすぐに戻ってきますよ――きっと臥牛山から戻ったときのように、『綺麗な女の人』を馬に乗せて」
「「……!」」
「な!その男は女をかどわかすような悪漢なのか!ますますけしからん!」

 黙り込む星と華琳をよそに、春蘭は大声で吠える。やがて、三人の回りに再び怒りの気が満ち始めた。ばたり。また一人、門番が気を失って崩れ落ちた。とばっちりである。その怒りをぶつける対象がこの場にいない状況で、三人の怒気はとどまるところを知らない。今や、門前は異空間と化していた。

「……我が計、なれり」

 その混沌の中で、風だけが満足げに微笑んだ。

◆◆◆

「もう、目を開けても大丈夫ですよ」
「……」

 その声に、慶次郎はゆっくり目を開けた。左隣に、慶次郎の左手を握った于吉が立っている。譙県にある華琳の屋敷前から、一瞬で別の場所に移動したらしい。頭が少しくらくらする。

 視線を上げる。丘の上に立っているようだ。眼下には、小沛の街とは比べものにならぬほど大きな、きらびやかな街が見える。いや、街というより都のような――。

「――もしや、あれが噂に聞く『洛陽』か?」
「いいえ、残念ながら」
 
 于吉は首を振る。

「規模的にはあまり変わりはありませんが――あれは袁紹殿が治める冀州の都、『鄴』です」

 そう言うと于吉は慶次郎の左手からその右手を離し、丘を降り始めた。そして二、三歩進むと振り返り、慶次郎に告げる。

「それでは、着いてきて下さい。――約束通り、管輅のところに案内しましょう」


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