第6章 対峙(4)
「……と、いったところよ」
「そうか。孫堅殿は既に亡くなられていたのか」
慶次郎は孫策――雪蓮のことを思い出しながら答えた。現在は、袁術とやらの客将をしているという。だからこそ、この小沛の街まで足を延ばすことができたのだろう。ある意味、現在の地位の低さがうかがわれた。
それにしても、と慶次郎は思う。やはり、自分の知っている三国志の歴史とはずいぶんと違っている。
既に、この時代が黄巾賊の乱が終結する前であることはわかっていた。しかし、孫堅が死ぬのはまだしばらく先、俗に言う『董卓包囲網』が終わった後のはずだ。確か、劉表とやらに暗殺されるのであったか。ところが、この世界での孫堅は三年ほど前に病死していた。
そして、紅花から聞いた三国志の歴史には、孫堅の経歴以上に慶次郎の知識と違うことがあった。決定的な違いである。
「ところで、紅花殿」
「何かしら」
「『曹操』殿はどこにおるのじゃ」
「!」
紅花は目の前の男を軽く睨んだ。その男は目をくりくりと輝かせながら、こちらを見ている。
「よく……そんな人物のことを知っているわね」
「知らいでか。おぬしも、知っているようではないか」
「まあね」
先ほどの紅花の話では、現在予州を治めているのは孔抽らしい。慶次郎の記憶では、そこは曹操の根拠地である筈だった。
「そうね。……確か、洛陽で北部尉をしていたらしいけど。三年前にその職を辞して、故郷の譙県に隠遁したと聞いているわ」
「ほう。そこで何をされているのだ」
「さあ。……若者を集めて、何かを企んでいるとの噂は耳にするけど」
「そうか」
慶次郎は腕を組んだ。曹操、字は孟徳。三国志において、まさに織田信長に匹敵する英雄。英雄たちの中で、もっとも美意識が高く、教養があり、そして傾いていた人物。これからの旅で、最初に会いたいと思っていた。しかし、かの人物はまだ歴史にその雄姿を現してはいないらしい。
やはり、歴史の流れが自分の知っているものと違うようだ。慶次郎は床の上の地図に再び目を落とす。そんな慶次郎に、紅花は問うた。
「それで、その……あなたの『曹操』に対する評価はどのようなものなのかしら」
「治世の能臣、乱世の奸雄」
「!」
地図に目を落としたまま、慶次郎はさらりと即答する。思わず、紅花は目を丸くした。
「もしくは、『非常の人、超世の傑』といったところかな」
「ず、ずいぶんと……その、曹操とやらを評価しているようね」
「まあな。桁外れに優秀な人物と聞く。いずれ、頭角を現すであろう」
「……そ、そう」
「わしはの。曹操殿は、中華の英雄の一人と思っている」
「……」
「せっかくこの地に来たのじゃ。是非、一度は会ってみたいと思っていたのじゃが……」
「……」
少々しゃべりすぎてしまったか。紅花の沈黙に、慶次郎はそう思った。警戒されてしまったかもしれない。もっとも、自分の考えている程度のことは、この世界で目鼻が利く人物ならば既知のことであろうとも思っていた。何しろ、あの『曹操』なのだ。
一言も言葉を返さないのが気になって、慶次郎は地図から目を離すと顔を上げた。心なしか、目の前の少女の顔が赤くなっている。
「いかがした?」
「な、何でもないわよ!」
そのとき、入口の扉の鈴が鳴った。
◆◆◆
「ところで、もう少し聞きたいことがあるのじゃが」
「何かしら」
慶次郎、紅花、そして戯志才、程昱が車座になって座っている。先ほど姿を現した戯志才と程昱は、紅花と再会の挨拶を交わすと、その両隣に座った。慶次郎から見て左に戯志才、右に程昱である。
慶次郎は、紅花と対角線上に座っている。紅花を中心として、戯志才と程昱は両側に控えているかのようにも見える。まるで謁見でも受けているようじゃ――そんな風に思いながら、慶次郎は問いを発した。
「公孫賛、袁紹、袁術、劉備、そして董卓や曹操といった輩は、皆おなごなのか?」
「え?……ええ、そうね。ただし、董卓については明らかではないわ」
慶次郎はうなずく。既に孫策、周瑜、周泰、趙雲、関羽、黄忠、厳顔といった名だたる武将たちに会った。そのいずれも、女性だった。そうなれば、今挙げた英雄たちもまた、女性であっておかしくない。
「そうなると、やはり兵士たちもおなごが中心なのかの」
そんな場所では、あまり戦いたくない――そう思いながら尋ねる。
「「「え?」」」
紅花、戯志才、そして程昱の言葉が重なった。皆、首を傾げている。
「む?わしは変なことを聞いたか?」
「そういうわけじゃないんだけど」
紅花は答えた。
「兵士の中心となるのは、男性よ。女性もいないわけじゃないけど」
「そうなのか。しかし、この国でわしがこれまでに会った強者どもは、いずれもおなごであったが」
「まあ、そうでしょうね」
「うむ?」
今度は慶次郎は首を傾げる番であった。強者の多くは女性である。しかし、兵士の中心となるのは男性である――どういうことなのか。そんな慶次郎の疑問に答えるように、紅花は説明を続ける。
「この国では基本的に力が強いのは男性。そして、力が弱いのは女性よ。だから、兵士の中心となるのは男性」
「うむ」
「だけどね。古来、文武のいずれにしても、とりわけ優れた者は女性から出ているわ」
「ほう」
「そんなにおかしなことかしら。均衡は取れているでしょう?」
「……『陰陽思想』か」
「あら、知っているじゃない」
男性の力の総和と、女性の力の総和。その均衡が取れているのだから、問題ないと紅花は言っていた。とはいえ、慶次郎の常識からはかけ離れている。やはり、ここは別世界なのだ。
「前田殿の国ではどうなの?」
今度は紅花が質問してくる。
「わしの国か。……わしの国では将たる者は男だし、兵士も男がほとんどじゃ。この国とは根本的に違うな」
「そうなの。何だか、変な国ね」
慶次郎は苦笑した。まったく、どちらが変なのだか。
そんな話をしながらも、慶次郎は違和感を覚えていた。改めて、前に座る三人を見る。向かって左に、戯志才。右に程昱。そして、正面に紅花。黙り込んだ慶次郎が気になるのか、三人ともこちらを見つめている。紅花が口を開いた。
「どうかした?」
「……いや」
違和感の正体がわかった。紅花が話している間、戯志才と程昱が一言も発していないのである。これまでの彼女らを思えば、決して寡黙というわけではなかった。どちらかと言えば、多弁であったはずである。にもかかわらず、静かにたたずんでいる。まるで『恐れ多い』かのように。
もしや、そうなのか――そう思いつつ、慶次郎は程昱を見る。その顔が、にっこりと微笑んだ。そして、右隣の紅花に話しかける。
「ねえ、『華琳』ちゃん」
「か、華琳ちゃん!?」
なぜかしら、程昱の向かいに座る戯志才があたふたし始めた。顔が紅潮している。そんな彼女をよそに、紅花がにっこりと程昱に答える。
「何かしら。風ちゃん」
「お腹、空きませんか?」
「確かに空いたわね」
「お腹がぺこぺこです。外に食べに行きませんか?」
「そうしましょうか。稟ちゃんもそれでいい?」
「り、稟ちゃんだなんて……ぶはっ!」
戯志才の鼻からいきなり大量の鼻血が流れ出した。紅花が懐から手ぬぐいを取り出す。先ほど、慶次郎から借りたものである。
紅花は慶次郎の顔を見た。彼が頷いたのを見ると、軽く頭を下げて、すぐさま手ぬぐいを戯志才の鼻に当てた。気がつけば、程昱が戯志才の後ろに座り、その首筋をとんとんと叩いている。
それにしても、かなりの出血量である。瞬く間に手ぬぐいは鮮血で染まった。さすがに心配して、慶次郎は尋ねる。
「……戯志才殿。大丈夫か?」
「ご心配なく。稟ちゃんは時々、こうなるのです」
戯志才に代わって程昱が答える。笑顔である。紅花を見れば、やはりあまり気にしていないようだ。彼女らにとって、これはいつものことなのだろうか。とりあえず、慶次郎は安堵する。
やがて戯志才の鼻血も止まり、三人は昼食を食べるために外に出ることに決めたようだ。それを見て、慶次郎はお茶を乗せたお盆を持って立ち上がった。程昱が話しかける。
「お兄さんも、ご一緒にいかがですか?」
「いや。わしは遠慮しておこう」
「あら。いらっしゃらないの?」
紅花は、じっと慶次郎を見つめた。慶次郎はかぶりを振る。
「久しぶりに会ったと聞いた。邪魔はせぬ。ゆっくり旧知を温めてくるがよい」
「それじゃ、お言葉に甘えますね」
程昱がそう答えると、まず紅花が立ち上がった。ついで、戯志才。そして程昱。三人は慶次郎に軽く頭を下げると、紅花を先頭にして部屋を出て行った。そんな三人の後ろ姿を眺めながら、慶次郎は思う。
<そろそろ、潮時かね>
もはや『確信』があった。すなわち、この屋敷を出る日が来たということだ。下邳に買い出しに出たままの星には悪いと思う。しかし、そのように戯志才と『約束』していた以上、このまま居座るわけにもいかなかった。約束は、守らなくてはならぬ。
部屋の隅に目を移した。そこには、既にある程度まとめられた旅の準備があった。
◆◆◆
三人は、紅花を先頭に歩いている。いずれも、無言である。
やがて、街の中央部に到着した。三人は大勢の客で賑わう料理店、『流流楼』に入っていく。入口近くにいた店員たちは、彼らの姿を見ると直立不動となって背を伸ばした。客たちが、そんな店員たちにいぶかしげな視線を送る。その中を、三人は奥の階段へと向かった。
流流楼の一階と二階は、一般向けの大食堂になっている。三階と四階は複数の個室からなっており、それなりの地位と財力がなければ利用できない。そして、五階には最高級の部屋が一つだけある。しかし、この小沛の街でその部屋を利用したことのある住人はいなかった――戯志才、程昱、そしてその部下として働く小男を除いては。
三人が階段を登りきると、五階の部屋の前に出た。そこには、膝をついた小男が控えていた。小男はその体勢のまま、扉を静かに開ける。紅花を先頭として、三人は一瞥もせずに部屋に入っていく。三人が入ると、小男は扉を閉めた。そして、扉を背にして立つ。
紅花は部屋に入ると、上座にある椅子へ向かった。そして、ゆっくりと腰を下ろすと、足を組む。戯志才と程昱は、その前にひざまずいた。二人の頭上に、朗々とした声が響く。
「それじゃ早速、二人の『天の御遣い』について報告をしてもらおうかしら」
紅花――こと曹操、字は孟徳、そして真名は華琳――は、目の前に臥せる二人の配下に命じた。
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