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第5章 決意(4)
 『流流楼』の五階にある東側の窓から、小沛の街から離れていく下邳の一行の姿が見える。彼らの姿を視界におさめながら、稟は部下からの報告を聞いていた。

 報告しているのは、下邳の一行が小沛に到着した際、稟に慶次郎の不在を告げた小男である。かつて豫州において盗賊として名を馳せたが、稟たちに捕らえられた。その後、才覚を買われて仕えている。

「――以上が、お二方がご不在時の『かの者』についての報告の概要です。詳しくは、報告書を」
「ご苦労。下がりなさい」
「は」

 小男は頭を下げると、階下に降りていった。

「前田のお兄さんは、出かけるみたいですね」

 風がつぶやく。彼女は西側の窓から遠眼鏡を覗いていた。李典こと真桜が、眼鏡を参考に発明した特注品である。それには答えず、稟は机上の竹簡に目を移す。

「予定通り、来週にはいらっしゃるそうよ」
「では、そろそろ星ちゃんを動かさなくてはなりませんね」
「ええ」

 稟はそう答えると、風の背中から西側の窓の外の景色に目をやった。そこからは、彼女らが慶次郎を居候させている屋敷が見下ろせた。

◆◆◆

 慶次郎が普段寝転んでいる敷物の上で、星は鼻歌を歌いながら龍牙の手入れをしていた。昨晩は、実に気持ちの良い夜であった。

 メンマの買い出しから戻ると、愛紗が慶次郎と一緒に酒を飲んでいた。それを見たときは、正直いい気分はしなかった。しかし、話してみると愛紗はとてもからかいがいのある――いや、愛すべき人物であった。酒宴が終わる頃には、彼女とは真名をかわすまでの仲になっていた。

 愛紗がさりげなく慶次郎にも真名を預けていたのは気になったが――まあ、いいだろう。

 また、久しぶりに慶次郎の武技を見ることができたのも、実に爽快な出来事であった。一度槍を交わしたときに感じたその底知れぬ武力は勘違いではなかった。なにしろ、青龍偃月刀をとっては徐州の武神と讃えられるあの愛紗を、一瞬であるとはいえ本気にさせたのである。

 しかも、その際に慶次郎が携えていた武器は青龍偃月刀であり、彼本来の武器ではなかった。臥牛山から彼が持ち帰ったあの朱槍――常人には持つことすら難しい重量、ぞっとするような長大な槍刃、まるで槍ではないような『槍』――を彼が用いたら、どれほどのものであるか。

 慶次郎は今、屋敷を空けている。彼は松風と野風を預けている街の馬場に出かけていた。一晩でも離れると寂しい――というわけで、慶次郎は朝食を終えるといそいそと出かけていた。

<ん?>

 気配を感じた。顔を上げた星の目に、お茶を乗せたお盆を持つ管輅こと冬華の姿が映る。

 星は眉をひそめた。昨日初めて会って以来、二人は冷戦状態にある。あからさまに慶次郎に好意を示す冬華に対して、星はあまり良い感情を持っていなかった。

 そんな星の気持ちを知って知らずか、冬華は星の隣に来るとお盆を床の上に置く。そして自分も敷物の上に座った。

「お茶をどうぞ」
「……何用ですか?」
「そんなに警戒しないで。……あなたに、ちょっとお願いがあって」
「お茶のお礼程度なら」

 星は愛槍を傍らに置くと、お茶の湯飲みに手を伸ばした。そんな星の姿を、冬華がじっと見ている。
 
「慶次のこと、教えてほしいの」
「慶次殿のこと、ですか?」
「慶次から、この国に来てから一番長く共に時間を過ごしたのはあなただと聞いたわ」
「……確かにそうですが」

 星は慎重に答える。冬華はにこりと笑った。同性の星でさえ、どきっとするような笑顔である。

「あの人のこと、できるだけ知っておきたいの。もちろん、私が彼について知っていることも話すわ」

◆◆◆

「――というわけで、黄巾賊の連中と慶次殿は酒盛りを始めましてな」
「ふふふ。慶次らしいわね」

 結局、星は冬華の願いを受け入れた。もっとも、彼が『天の御遣い』の予言をなぞるように顕現したことは伏せている。もはや、そのことを誰にも話すつもりはない。あくまで、東方からの旅人として語った。

 冬華は口を押さえて小さく笑っている。星もそれに合わせて微笑んだが、内心は困惑していた。昨日、確かにこの女性は自分に対して敵意――そう、嫉妬の感情を自分に見せていた。それが、今は感じられない。

「水仙殿」
「何かしら、趙雲殿」
「失礼を承知で申し上げるが、昨日とはずいぶん雰囲気が違って見えますな。いかがなされたか」
「……そう、見えるかしら」
「はい」

 冬華は星から視線を外して、庭に視線を移した。庭の中央に、あずまやが見える。それをしばらく見つめた後、彼女は静かに微笑んだ。

「実は私……記憶が戻りまして」
「!」
「家族も心配しているでしょう。明日には、小沛を発とうと思います」

 しばらくの間、星は絶句した。確かに、記憶が戻ったというなら、そうした判断もうなずけないこともない。だが……。気を取り直して、冬華に向かって問う。

「水仙殿。つかぬことをお尋ねいたします」
「何かしら」
「あなたはそれでよろしいのですか」
「それでよろしいのですか、とは?」
「とぼけないでいただきたい。慶次殿のことです」
「慶次のこと?」

 冬華は不思議そうに首をかしげる。相変わらず、何を考えているのかわからない。星は続けた。

「このまま、慶次殿と別れるおつもりということですか」
「そうなるわね」
「!」
「あなたにとっては、都合が良いことではなくて」
「……そのことは認めましょう」

 星は頷く。だが、納得はいかない。

「しかし、あなたの彼への……慶次殿への執着はその程度だったのですか」
「そうよ」

 冬華は当たり前のように頷く。

「詳しくは言えないけど、私は洛陽のとある大商人の娘なの。そのことを思い出した以上、命の恩人であるとはいえ、いつまでも東方からの旅人程度を気に掛けているわけにはいかないわ――それに」
「それに?」
「私には……そう私には、心から愛している許婿がいるのよ」

 星は、自分の気持ちを計りかねていた。正直に言えば、うれしい。慶次郎と自分の間に突然割り込んできた異物。それが、自ら立ち去ろうとしている。しかし、釈然としないものを感じた。そんな星の気持ちには気づかぬように、冬華は続ける。

「だから、せめて慶次の思い出だけでも、洛陽に持ち帰ろうかと」
「……左様か」
「ええ」

 冬華は、にっこりと頷いた。

「それでは、次は私の番ね。慶次とのなれそめからお話ししましょうか……」

◆◆◆

「お話、どうもありがとう」
「いえ、私こそ」

 冬華は星に向かって頭を下げた。星も冬華に頭を下げる。気がつけば、太陽は真上に上がっていた。そろそろ、昼食の時間である。慶次郎も戻ってくるだろう。

「お茶の礼には不足していたかもしれませぬが」
「いえ、十分でした。……これで、心残りはありません」

 もう一度、冬華は頭を下げる。そして、星の瞳をじっと見つめた。

「趙雲殿」
「はい」
「あなたは強い人です。……悔しいけれど、慶次の隣に並び立つのに相応しい」
「水仙殿?」
「あの人のこと、よろしくお願いしますね」

 そういうと冬華はさらにもう一度、丁寧に頭を下げた。

 やはり、おかしい。愛しい許婿のいる者の態度ではない。何かを隠しているのではないか――そう思った星は冬華に問いかけようとした。

「水仙殿。あなたは……」
「冬華」
「冬華?」
「私の真名です。あなたに預けましょう」
「……なぜ、それを私に」
「それを預けるに値するお方と、判断したまで」

 その真摯な瞳に、星は意地を張ることの無意味さを悟った。至誠には至誠を持って返さねばならぬ。

「……私の真名もお預けしましょう」
「趙雲殿?」
「既にご存じかと思いますが……星と申します」
「……なぜ、それを私に」
「はは。あなたが私より『いい女』に見えたことがしゃくに障りました。……まあ、意趣返しですな」
「まあ」

 二人は顔を見合わせて小さく笑った。星は冬華の笑顔を見ながら、若干の寂しさを感じた。確かに、慶次郎をめぐっていがみ合いもした。しかし、考えを変えれば彼女は自分と同じように彼を慕う仲間でもある。意外と、気が合う女性であるのかもしれなかった。

 冬華もそう思っているのかもしれない。自分を見る彼女の表情が、これまでになく優しく見える。その表情のまま、冬華は星に最後の頼み事をした。

「このこと、慶次にはくれぐれも内緒でお願いします」
「……それでよろしいのですか」
「はい」
「しかし」
「良いのです」

 冬華は微笑んだ。


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