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第5章 決意(1)
「……」

 沈黙が部屋の空気を満たしている。これが元いた時代なら、時計の針の音が聞こえているかもしれないな。一刀は、現実逃避気味にそう思った。

 もう一度、勇気を振り絞って下座の方向を見る。そこには、神妙な顔をした慶次郎が座っている。目が合いそうになり、一刀は慌てて目を伏せた。そして、心の中で何度目かのため息をついた。

<どうして、こんなことに……>

◆◆◆

 一刀が庭に駆け込んできたのは、まさに慶次郎と愛紗がお互いに打ち込もうとしたその刹那であった。

 一刀の姿をその目で確認するやいなや、慶次郎と愛紗は即座に得物を手元に戻した。そして二人は目で言葉を交わすと、ほぼ同時に一刀に向かって片膝を着き、それぞれ青龍偃月刀を地面に置いた。

「お待ちしておりました、ご主人様」
「ようこそお越し下さった、北郷殿」
「えっ……」

 一刀は固まった。まさか、慶次郎がたかが自分程度にに礼を示すとは思ってもみなかったのである。慶次郎を目の前にして一刀は自分が『天の御遣い』であることを忘れ、彼に憧れる一高校生に戻ってしまっていた。

 だからこそ、慶次郎が笑って自分を迎えてくれ、そして気軽に肩でも叩いてくれるのではないかと期待していた――そう、小説の中の彼のように。しかし、現実には目の前の慶次郎は神妙に頭を下げている。一刀は無言で立ち尽くした。そんな彼を見て、星と並んで座っていた冬華が静かに立ち上がった。

「ようこそお越し下さいました。天の御遣い様」

 そういうと静かに頭を下げる。星も同じように立ち上がり頭を下げた。そして、背後にある大きな食卓に向かって歩いて行くと、上座に手のひらを向けた。

「北郷殿。どうぞこちらへ」
「私は、お茶を入れて参ります」

 そう言うと、冬華は部屋を出て行く。廊下には、一刀に着いてきた下邳の一行が待っていた。桔梗、紫苑、そして孫乾――。

「!」

 冬華の目が大きく見開かれた。しかし何事もなかったように彼らの側を通り過ぎようとする。最後尾の孫乾が、ぼそぼそと冬華の耳元でささやいた。一瞬、冬華の歩みが止まる。しかし、すぐさま何もなかったように歩き出した。

◆◆◆
 
 そして、冒頭に戻る。話が弾まない。一刀は途方に暮れていた。彼は慶次郎が気軽に、そう『友』に対するように接してくれることを期待していた。妄想の中で、そうした経験は呆れるほど繰り返してきた彼である。その際、イメージしていたのは結城秀康に対する慶次郎の態度であった。

 しかしながら、慶次郎は一刀に対して極めて礼儀正しく、まさに『天の御遣い』に接する態度を崩さなかったのである。傾いてはくれなかった。やはり、自分の妄想は厨二病的だったか……少々、自嘲的に思う一刀である。

 一刀は、助けを求めるように右手の方向を見た。そこには愛紗が座っている。その顔は、いつもと変わらない。心配そうに、一刀の顔を見ている。その表情を見て、一刀は改めて申し訳なく思った。結果として、慶次郎との真剣勝負に茶々を入れてしまった。自分であれば、かんしゃくの一つも起こしていただろう。

 ついで、左手の方向を見る。そこには、孫乾が座っていた。いつもは能弁な彼が、今ここに限っては一言も口を開けようとはしない。目をとじて、静かに腕を組んでいる。まるで、この場で話をすることを拒否しているかのようだった。

 現在、食卓の上座には一刀が座っている。その右手に一刀に近い順から愛紗、紫苑が、そして左手にやはり一刀に近い順から孫乾、桔梗が座っていた。対して下座には、慶次郎が座っている。一刀から見て、その右手には星が座っていた。冬華はお茶を各席にふるまうと、そのまま部屋を退席している。

<……胃に、穴が開くかもしれないな>

 逃げ場のない沈黙に、一刀は半ば本気でそう思った。

◆◆◆

 そんな主を助けるべく、愛紗は一刀が来る前に投げかけた問いをもう一度発した。

「……改めてお聞きしますが、前田殿は天の御遣いであられるのでしょうか」
「いやいや。先に申し上げたように、わしは予言とやらで天の御遣いが現れるとの場所をちょうど旅していた旅人に過ぎませぬ。そんなわしを天の御遣いなど、まことに恐れ多い」

 慶次郎は、やはり自らが天の御遣いであることをはっきりと否定した。当然、下邳の一行の視線は星に向かう。星は自分の右手に座る慶次郎の横顔をしばし見つめていたが、あっさりと陳謝した。

「慶次殿のおっしゃる通り。私は、黄巾賊に襲われていた慶次殿をお助けし、小沛の街までお連れしたに過ぎません。……私の説明が不十分だったために、戯志才や程昱に誤解を与えてしまったようです。まことに申しわけございません」

 こうなると、どうにもならない。下邳の一行は、一刀の顔を見た。そもそも、今回のお忍びは、一刀の強い意志によるものであった。そして、小沛の天の御遣いは本物であるという彼の確信こそ、その理由であった。

 しかし、当のその一刀はそうした視線に気づかぬように、ぼんやりと縁側の外の風景を見ていた。ちょっとした虚脱状況にある。

 大きな庭である。庭の中央に位置するあずまやには、人影が見える。周倉と裴元紹であると紹介された。二人は屋敷に戻ってきて天の御遣い一行が来客していることを知ると、恐れ多いと庭に移動していた。こちらに背を向けて、冬華が入れたお茶を飲んでいる。

<どうして、こんなことに……>

 一刀は、改めて思う。自分に責任があることはわかっていた。例えるなら、自分は好きなアイドルに会う機会を得たファンのようなものであった。

 いつもいつも、そのアイドルのことを考えている。一度でも会えたら、と思う。しかし実際にその機会を得ると、握手以上のことができない自分に気づく。まさに、自分はそういう状態であった。

 天の御遣いに関することだけが、話しかけることができる唯一の話題であった。しかし、そのことは慶次郎本人にはっきりと否定されている。それに対して、『いや、あなたは天の御遣いだ』と主張する勇気もなかった。

 ましてや、『あなたを知っている』なんて言えるはずもない。しかも、それは『一夢庵風流記』という歴史小説――自分が慶次郎であっても、そのように言われたら警戒感を持つであろう。それだけは、何とか避けたかった。憧れの人に、そのように思われたくない。

 そもそも、一刀の『仮説』は慶次郎と二人きりでなければ切り出せるものではない。それでも、自分の責任で訪ねてきた以上、何らかの成果を得なくては。何でもいい。話をしよう。一刀はそう覚悟を決めると、声を上げた。

「あの……」

 げふ。

 酒臭い息が一帯に漂った。

◆◆◆

 見れば、桔梗が真っ赤な顔をして口を押さえている。

「桔梗!」

 愛紗が声を上げて立ち上がる。桔梗とは別の意味で、顔を赤くしている。

「前田殿に失礼であろう!」
「も、申しわけござらぬ!」

 桔梗は深々と頭を下げた。大失態である。どんな理由があるにせよ、責任は自分にあった。

「まことに申しわけござらぬ。わしはこれにて……」

 桔梗は頭を下げながら立ち上がった。そんな彼女に、慶次郎が声を掛ける。

「厳顔殿」
「前田殿。その……大変な失礼を」
「酒が、好きらしいの」
「は?はい……」

 慶次郎は桔梗に向かって涼やかな笑顔を見せた。桔梗の顔が、さらに別の意味で赤くなる。

「実は先だって、わしが懇意にしている酒屋から酒が届いての。わしの故郷の澄み酒を参考にした新作じゃ」

 慶次郎は、部屋の隅にある酒瓶を指さした。大きめの酒瓶である。その側にある卓の上に、いくつかの酒杯が乗ったお盆が見えた。一刀は思う。もしかして、自分たちのために準備してくれていたのだろうか。

「は、はあ」
「このまま黙って座っていても埒が明かぬ。せっかくの機会じゃ。いかがかな、御一献」
「はあ……」

 桔梗は自らの主の顔を見た。そして、驚いた。一刀は本当にうれしそうに微笑んでいたのである。

「いいよ、桔梗。前田殿のせっかくのご厚意だ。ご馳走になりなよ」
「は、しかし……」
「遠慮はいらないよ。オレのことは気にしなくていい」
「ん?北郷殿は飲まぬのか?」
「い、いえ。ぼ、僕はお酒が飲めないんで」
「……そうか。残念じゃのう」

 慶次郎は本当に残念そうに眉をひそめた。そして、他の面々も誘う。結局、手を挙げたのは紫苑だけであった。桔梗に気を使ったのであろう。愛紗と孫乾は手を挙げなかった。この二人は、酒が飲めない一刀に気を使ったものと思われた。星は何も言わず、じっと慶次郎の顔を見ている。

「ふむ。厳顔殿と黄忠殿の二人だけか。ならば」

 慶次郎は縁側に出ると、大きな声で叫んだ。

「周倉!裴元紹!一緒に飲まぬか!」

 前のめりになる二人の姿が見える。突然の大声に驚いたのだろう。お茶を吹き出したのか、咳き込んでいる。そして二人して顔を見合わせると、照れくさそうに頷いた。

 慶次郎もまた、うれしそうに頷く。立ち上がると、部屋の隅に歩いて行った。そして右手で酒瓶、そして左手で酒杯の乗ったお盆を器用に持つと、くるりと振り返って言った。

「酒を飲まぬ者の前で酒を飲むというのも申し訳なし。せっかくの良い天気じゃ。飲む者どもはあのあずまやで飲むとしようぞ」

 そう言うと、慶次郎は星の顔を見た。そして星が小さく頷くのを確認すると、返事も待たずに歩き出した。

◆◆◆

 あずまやで酒を飲む五人が見える。騒がしくはない。時々、笑い声が聞こえる。いかにも楽しげであった。落ち始めた日の光を受けて、陰影の深まった彼らの姿は、さながら一服の絵のように見える。

「……趙雲は、行かなくていいのかい?」
「私はいつでも慶次殿と飲む機会があります。それに――主がいぬ間にお客の相手をするのは臣下の務め」
「そっか……」

 一刀は頷く。そして、星の顔に浮かぶ表情を見て言った。

「もう、決めたんだね」
「はい。……もっとも、慶次殿はまだ認めて下さらぬようですが」

 星は苦笑する。一刀は頷くと、もう一度あずまやで酒を飲む彼らの姿を見た。月並みな台詞であるが、彼らは格好良かった。そして思う――ああいう大人になりたい。まだ、自分はあの場所で酒を飲むには若すぎる。

「早く、オレもあんな風にお酒を飲めるようになりたいな」
「そのときは、私もご一緒します――もちろん、そのときは」
「ああ。前田殿も誘ってくれるかな?」
「はい」

 二人は笑顔を交わす。そんな二人を見て、愛紗も微笑んだ。

 ただ孫乾だけが、その表情を変えなかった。


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