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第4章 邂逅(1)
 北郷一刀が『一夢庵風流記』を初めて読んだのは、彼が中学二年生の時である。

 季節は春。学校に英和辞書を忘れてしまった一刀は、父親の書斎から借りようと部屋に入った。そして首尾良く辞書を見つけて部屋から出ようとした一刀の目に、本棚の上段のにあった『それ』が目に入った。

 それまでの一刀ならば目に入らなかった――そう、中学二年生になって背が伸びたからこその発見。かすれた背表紙のそれは、新潮社文庫版の『一夢庵風流記』であった。

 最初にそれを見たとき、一刀は不思議に思った。父親の本棚には、ビジネス書がずらりと並んでいる。それら新刊のビジネス書の中で、既にカバーすらないその薄汚れた文庫は異彩を放っていた。

 単なる好奇心で、それを手に取った。そして表紙をめくり――父親が帰宅して彼の肩を叩くまで、一刀は床に座り込んで夢中になってそれを読んでいた。それが『一夢庵風流記』を初めて読んだ日――そう、前田慶次郎に惚れた日のことである。

◆◆◆

 一刀は父親に頭を下げ、『一夢庵風流記』を貸してくれるように必死で頼んだ。父親は快く貸してくれた。その時の、何とも言えないうれしそうな顔を今でも覚えている。そうか、お前もわかるか――そんな、男同士の共感の顔だった。

 そして、その日から一刀は『厨二病』、より正確には『慶次病』になった。中学二年生で『一夢庵風流記』を読む――その病にかかった彼を誰も責められまい。

 それを機に隆慶一郎作品に惚れ込んだ一刀は、『影武者徳川家康』、『捨て童子・松平忠輝』、『吉原御免状』、そして『死ぬことと見つけたり』といった作品群を片っ端から読んだ。日頃使う言葉に、『友』『漢』という言葉がテキメンに増えた。パンツの色はもちろん白――そう、『己の心の様に輝く白』である。

 一刀が剣道部であったことも、その病に拍車を掛けた。長期の休みごとに祖父に鍛えられ、それなりの剣術の腕を持つ彼である。祖父に申し訳ないと思いつつも、自らを『穀蔵院一刀流』の使い手であると心密かに称した。修得すべきいかなる型や技も存在しないのだから勝手に名乗っても問題あるまい、と。

 剣道部の練習を休むようになった。『虎や狼が日々鍛錬などするかね』というわけである。

 その代わり、放課後には学校の裏山にこもった。そして、ひたすらに強敵(『とも』と呼ぶ)を稽古相手として思い浮かべ、それとにらみ合った。それによって眼力と胆力が身に付けば、すなわち『漢』度が上がれば自ずと強くなる筈……と考えた。

 そして迎えた、夏の県大会の一回戦。そこには、眼光鋭く相手を圧倒する一刀が居た。竹刀をだらりと下げた、構えのない構え。相手は圧倒されて、一刀の目すら見ることができない。

 制限時間が近づいた。相手が、一刀から目をそらしつつ、遠間からやけくそ気味に打ち込む。

 ぱすん。

 その一振りは、一刀の右小手に当たって軽い音を立てた。審判の旗が上がる。

「一本!」

 見事、一回戦負けである。昨年夏、中学一年生でありながら県大会準決勝までいった一刀であった。それが、あっけなく一回戦で負けた。周りはあ然とした。もはや優勝しかない――周りから見ると、そんな雰囲気の彼であったのだ。

 しかし、本人はまったく落ち込んでいなかった。負けた原因は、自らの漢度が低いからであると結論づけた。戦わずして勝つ。戦わずして、相手が負けを認める。それこそが目指すべき場所。まだまだ、自分の目指すべき場所は遠い。夏休みに入ると早速、九州の祖父の家に剣術修行へと赴いた。

 その初日。一刀は、道場で祖父と竹刀を持って対峙していた。構えをつくらず、眼光鋭く自分を見据える孫の顔を見て、祖父は顔を引き締めた。しかし、少し時間が経って冷静に見ると、何とも隙だらけの構えである。そうなると、それまで眼光鋭い狼に見えたその顔が、目だけ輝くチワワに見えてきた。

「――ふむ」

 やおら祖父は一刀に近づくと、その頭を思い切り打った。

 ばこん。

 木がへこむような音がして、一刀は失神した。

◆◆◆

「ご主人様?」
「え?」

 ぼおっとしていたようだ。気がつけば、愛紗が顔をのぞき込んでいた。

「な、なんだい?」

 一刀は額に汗をにじませて微笑んだ。今でも、あの頃のことを思い出すと嫌な汗が出る。背中がかゆくなる。頭を抱えて、地面を転がりたくなるのである。

 現在、一刀は五十騎ほどの隊列の真ん中にいる。隊列の先頭には桔梗、中程には一刀と愛紗、そして最後尾を紫苑が固めている。そこから後ろに少し離れて、趙雲、戯志才、そして風が乗る馬が続いていた。

 小沛の天の御遣いに、下邳の天の御遣いが会いに行く――そのことが明らかになったら、大騒動である。そもそも、小沛の街に天の御遣いがいる(かもしれない)ということ自体、世人が知らぬことであった。

 そうした事情から、一刀はお忍びで小沛の街に赴くことになったのであったのである。もっとも、表面上は徐州牧である劉備の命を受けた文官が、小沛の街を視察のために訪れるということになっている。

「……額に汗が浮かんでいます。お体の具合に何か問題でも」
「あははは、あは、な、何でもないよ」

 愛沙にそう答えると、一刀は額の汗をぬぐって微笑んだ――あんまり、今のオレを見ないでくれ。

◆◆◆

「獅子欺かざるの力だね、爺ちゃん」

 失神から覚めた一刀が祖父に発した最初の言葉である。どうもおかしい。そう思った祖父は、一刀に彼が思うところを尋ねてみた。

 よくぞ、聞いてくれた――一刀は己の存念を思う存分に伝えた。祖父は頷いた。その後、三時間の正座での説教を経て、彼の厨二病はようやく治癒した。

 中学三年生になった。厨二病は治癒したものの、相変わらず『慶次病』には罹患したままの一刀である。パソコンを買ってもらった彼がインターネットで最初に検索した言葉は『前田慶次郎』であった。また、図書館や書店に通って関連文献を読みあさった。

 その結果わかったことは、『一夢庵風流記』の前田慶次郎はあくまで『虚構』であるということであった。

 山形県の博物館に残っている前田慶次郎のものとされる鎧は、当時の標準的な大きさらしい。となると、実際の慶次の背の高さは百六十cmから百六十五cm程度である可能性が高い。そもそも、慶次の背の高さに関する資料そのものが残っていない。

 実際、『一夢庵風流記』は隆慶一郎先生がほんの数枚に過ぎない資料をもとに書いたと聞いた。また、松風とおぼしき馬も確かにいたらしいが、当時の馬よりも頭一つ大きい程度であったという。当時の馬の大きさは現在のポニー程度――したがって、現在では競馬でよく見るサラブレッド等に比べてもはるかに小さい。

 しかしながら、それで彼の慶次郎に対する敬意はいささかも薄れなかった。事跡が少ないにもかかわらず、今でも語られているのはそれだけ魅力ある人だったということだ。

 そして、たとえ『虚構』であれ、隆慶一郎先生が書いた前田慶次郎は自分の『理想』の男である。虚構の存在に敬意を示して何が悪いのか。

 そもそも、自分はその存在が『現実』とされる世の偉人たちと直接会ったことがあるわけではない。存在が確実とされる彼らとて、実際に相まみえず文字や漫画を通じて知る限り、それもまた虚構であろう。

 以後、父親から借りたままの『一夢庵風流記』は一刀のいわば聖書として、常に彼のそばにあった。聖フランチェスカ学園に進学して寮で生活をするようになってからも、それは変わらなかった。机上の辞書の隣に、今もそのすり切れた聖書は鎮座している。

◆◆◆

 時折、慶次病患者としての一刀は夢想した。

 例えば『戦国時代に転生して織田信長になって――いやいや、あんな苛烈な人生はちょっと無理。一向一揆を皆殺しになんて命令できそうにないし。そうだな、出来が悪かったらしい次男、三男あたりに転生して、慶次と友になるというのもいいな』なんて考えたり。

 例えば『直江山城守兼続に転生して――いやいや、主君にあれほどの忠誠を捧げるのはちょっと無理。そうだな、あえてあぶれ者として上杉家中に転生して、河原田城での慶次の一騎駆けについていくというのもいいな』なんて考えたり。

 この後漢末の時代にやってきて、戸惑いながらもスムーズに『天の知識』として未来の知識を提供できているのも、実はそうした絶え間ない妄想――いや、夢想の繰り返しがあったからであった。

 戦国時代に転生したら、疑われない程度に未来の知識を提供して、皆の信頼を受ける。そんな場面を何度も何度も繰り返し夢想してきた一刀は、結果としてそうした『シュミレーション』の成果を、この三国志の世界で十分に発揮することができたのである。

 その意味では、この時代で『天の御遣い』としてなんとかやってこれたのも、慶次病患者としての夢想のおかげであると言えないこともない。もっとも、やってきたのが自分がそれなりに詳しい戦国時代ではなく、『蒼天航路』でしか知らない後漢末の時代であるということ、そして三国志の英雄たちが美少女であるということまでは流石に夢想できなかったが。

 そして、あの前田慶次郎がこの時代に来ているかもしれない。これこそまさに、まったく夢想だにしないことであった。それも史実の彼ではなく、『一夢庵風流記』の慶次郎が来ているかもしれないのだ。これは、本当にスゴイことだ。しかし、そのことが意味するのは――。

 一刀は、最近抱き始めたある『仮説』を思い出して小さく身震いした。


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