第3章 冬華(5)
「けいじー。お昼にしましょう」
「む。もう、そんな時間かね」
慶次郎は顔を上げた。冬華が手を布巾で拭いている。昼食の準備が終わったようだ。
今日の最後の洗濯分をわらの上に広げ終えると、慶次郎は大きく背伸びをした。洗濯物の隣には、マントが虫干しされている。表が黒、裏が猩々緋の、愛用のマントである。
慶次郎は、複雑な気持ちでそのマントを見下ろした――もう一度、これをまとって良いものだろうか。
前の世界において、米沢に向かって京を発つ際に『傾きおさめ』をした慶次郎であった。それは、生きるだけ生き抜いたという満足感によるものであったが……。
「けいじー!」
「ああ、わかった、わかった」
慶次郎は、小屋に向かって歩いて行く。昼食といっても、朝食の残りである。裴元紹は毎朝大量の料理を作り、その残りを周倉や自分のお弁当や慶次郎たちの昼食分に当てていた。慶次郎たちが来てから、作る量は二倍になったという。十中九は、うちの旦那と大将が食べるんだけどね、と彼女は笑った。
もっとも、周倉たちはそのことに対して慶次郎たちにお礼を求めるわけではない。慶次郎もまた、特にお礼を言うわけではない。当たり前のように食事を提供し、当たり前のようにそれを食べる。逆の立場になれば、同じことをする。ただ、それだけのことであった。
慶次郎は小屋に入り、食卓の椅子に座る。目の前に、食皿が並べられていく。そこで、慶次郎は妙な感覚に襲われた。
「うーむ」
「どうしたの?」
「何か、『大事なこと』を忘れているような気がするんじゃが……」
「忘れているってことは、そんなに大切なことではないんじゃないかしら」
「まあ、そういうことかね。さあさ、食うか」
ひひーん。
広場から、松風と野風の呆れたようないななきが聞こえた。
◆◆◆
その日の午後。慶次郎と冬華の二人は、鏡池へと登る水路脇の道を歩いていた。正確には、一泳ぎしてくるといった慶次郎の後を冬華が追いかけてきたのである。
『わしの裸が見たいのか?』と尋ねた慶次郎の頬は赤くなっている。星といい、こちらのおなごどもには冗談が通じぬ――ぶつぶつとこぼす慶次郎である。
しかしながら、池が見えるとそんな気持ちもあっという間に消えた。すぐさま服を脱ぎ捨て、ふんどし姿になる。
その姿を見た冬華は顔を赤らめて、ぷい、と横を向いた。しかし好奇心に勝てず、ちらちらと慶次郎の体を見ている。
そんな冬華をにこにこしながら見ていた慶次郎であったが、さりげなく、聞いた。
「そういえば、冬華」
「なあに、慶次?」
「おぬし、なぜこんなところにいたのじゃ」
「それは……」
冬華の顔が、笑顔のまま凍り付いた。そのまま、おこりに掛かったように震え始める。そして、そのままの表情で慶次郎の顔を見た。
自分が、ボロ布をまとい浮浪者のごとき姿でこの池で『死んでいた』理由。それを、どうやって説明せよというのだろう。自分が予言者――いや、占い師であるとまでは説明できよう。しかし、永遠に繰り返される決まった人生に絶望して『死んでいた』のだと……誰が信じてくれるのだ。
そして冬華は、慶次郎に自分のことを何一つ話していなかったことに気づいた。慶次郎もそうである。自分のことを、何一つ話していない。だけれども、二人はそのことを気にしなかった。そんなこと、関係なかった……この、瞬間まで。そんな私たちの関係が。これから話す内容で変わる――いや、終わる?
永遠にも思える繰り返しの中で、初めて出会った希望。それは一瞬にして蜘蛛の糸に変わった。凍った笑顔の瞳には涙がうかび、こぼれ落ちそうになった――その刹那。慶次郎は、足から池に飛びこんだ。
ざぶん。
大きなしぶきが立つ。
「きゃっ!」
「まあ、いずれにせよ。こんな場所で溺れるとは、とことん間抜けたヤツよのう」
◆◆◆
慶次郎は笑う。もう、冬華に『天の御遣い』について聞く気持ちは失せている。彼女が普通の存在でないことは既にわかっていた。冬華がつぶやいた詩――あれは唐代のものである。この後漢末にはありえない、詩。
なるほど、聞けば『天の御遣い』について教えてくれるかもしれない。自分がこの世界に来た理由について教えてくれるかもしれない。元の世界に帰れるかもしれない。しかし――。
小沛の街で、まるで浮浪者のごとき姿を甘受していたという冬華。百発百中の予言――しかし、それで得られる崇拝を、尊敬を、そして地位を拒絶した。
『天の御遣い』の予言を終えるやいなや、街から消えたという冬華。天の御遣いに会おうともしなかった。
それは予言者としての自分の、いわば自己否定ではないか。多かれ少なかれ、その自己否定が先日の事故――自死につながっていることは確かであるように思われた。そして、先程の、顔。
慶次郎は思う。たかが別世界に来た程度のことで、おなごを泣かしてもつまらんわ――すまんな、兼続。
冬華は慶次郎があげた水しぶきを顔に受け、しばし呆然としていた。そして右腕の袖で顔をごしごしと拭うと、にっこりと笑った。その花咲くような笑顔に一瞬、目を奪われる。慶次郎はきなくさい顔をすると、鼻をかいた。
「……ありがとう、慶次」
「何のことかの」
「ねえ、聞いて」
冬華は池のほとりに腰を下ろした。その両足は、所在なげにばたばた動いている。小さな水しぶきが立った。慶次郎は、その左隣にゆっくりと座る。冬華は黙り込んでいたが、やがて穏やかに話し始めた。
「私、ずっと変わらない人生を生きてきた……わかる、慶次?」
「いや」
「私、ずっと死にたかった、消えたかった……わかる、慶次?」
「いや」
「私、今自由に生きてるの……わかる、慶次?」
「いや」
目の前の水面は、黄金のようにきらめき。
空は、地平線まで青く広がっていて。
山の空気は、どこまでも澄んでいて。
隣には、愛しい男がいる。
「私、いま」
「……」
「楽しい」
「……」
「楽しいの」
「……」
「こ、こんな日が、わ、わ、私に来るなんて」
えぐっ、えぐっ。
冬華は泣いている――いや。涙を流しながら、笑っていた。
◆◆◆
感情の上下が激しすぎる。慶次郎はそう思った。しかし、何も言わなかった。絶望から戻った人間は、こうなる。そのことを、慶次郎は経験から知っていた。
すべてに絶望した人間が、希望を見つけたとき。
その光がどれだけまぶしいか――。
その光の周りを飛び跳ねたくなるだろう。
その光の周りで踊ってみたくなるだろう。
今、冬華はそういう時期なのだ。
予言者としての彼女が、何に絶望していたのかはわからない。そして今、何に希望を見いだしたのかも。だが、それで良かった。笑顔を見れれば、それで良かった。
だから、慶次郎は何も言わない。代わりに、両手で水を救うと、冬華の顔にばしゃりと掛けた。
「きゃっ!」
「辛気くさい顔してるのう。ほれ!」
もう一度、水を掛ける。
「もーう!」
慶次郎は背中を向けると、そのまま池の中へ駆けだした。大きな水しぶきが上がる。
一転、破顔した冬華は負けじと服を着たまま池の中に飛び込んだ。じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ、池の浅いところを走りながら息を切らせて叫ぶ。
「待てー!」
「待てと言われて待つ阿呆がどこにおる!」
「そこにいるー!」
笑いながら、水を掛け合う男と女。それは子どもの遊戯に等しき光景だった。だが冬華にとって、それは自らの意思による再生の儀式だった。
幸せだった。
冬華は、慶次郎がなぜこの世界に居るのかを――『知らない』。
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