第3章 冬華(4)
「星ちゃーん」
「ん?……風か。どうした」
慶次郎が鏡池で管輅たちに出会ったちょうどその頃。下邳の城壁の上に立つ星のもとに、風が現れた。
星の瞳からは、すでに涙は消えている。目が若干赤くなっていること以外は、いつもの星であった。そんな友の姿に安堵しつつ、風は城壁の下から話しかける。
「あのですねー、お兄さんがですね〜」
「お兄さん?……ああ、北郷殿か」
「はい」
風は、にっこりと微笑んだ。
「小沛の『天の御遣い』について、お話があるらしいですよ〜」
「……何?」
星の目が光る。
次の瞬間、彼女は城壁の上から地面に向かって飛び降りていた。
◆◆◆
「小沛の街にいるという『天の御遣い』に、会わせてくれないか」
風が呼んできた星に対して、一刀はいきなり頼み込んだ。ここは会議の間である。桃香を始めとして、徐州の主な武将たちが揃っている。
星の目には、一刀が慶次郎を天の御遣いと確信している様が、ありありと見て取れた。偉人は、偉人を知る。天の御遣いには、ほかの天の御遣いの存在がわかるのかもしれない。やはり、慶次殿は天の御遣いなのだ――。
みるみるうちに明るくなる星の顔を、一刀はうれしそうに眺めていた。そして、続けて言った。
「風や戯志才の話を聞く限り、その人はとても優れた人であるように思う。彼女らが言うように、きっと天の御遣いだと思うよ」
――とても優れた人、だと?
星は、左に並んで立つ友人たちの顔を見た。二人とも、素知らぬ顔をして前を向いている。
おかしい。
この二人が、慶次殿を『ほめた』というのか。しかも、天の御遣いとして。
星が口を極めて主張しても、稟は慶次郎が天の御遣いであると決して認めようとしなかった。その態度は、普段の彼女と比較すると意固地になっているようにすら見えた。
風は慶次郎から話を聞きたがっていたが、だからといってとりたてて敬っていたとは思えない。どちらかというと、からかっているようにすら見えた。
しかしながら、一刀の話を聞く限り、二人は自ら慶次郎が天の御遣いであることを告げたようだ。本当は、彼のことを認めてくれていたのだろうか――一瞬、そんな風にも思った。
しかし、思い返せば彼女たちの慶次殿に対する態度はどこかおかしい。違和感がある。それは……。
「趙雲?」
「は」
「君が小沛の天の御遣いと一番親しいと聞いたよ。紹介、お願いできるかな」
「はい。お任せ下さい」
星は、一刀に向かって頭を下げた。
風や稟に対して、納得しかねる気持ちはある。彼女らは、何か企んでいるのかも知れない。それでも――下邳の天の御遣いの訪問は、慶次郎が世に出る機会になるかも知れない。そのことが、星には何よりもうれしかった。
◆◆◆
冬華が目を覚ましてから、一週間が経った。
かつて、スタンダールはその著書『恋愛論』で次のように述べている。条件で人を好きになるということは、本当の恋ではない。本当の恋とは、相手の条件とは関係なく、逢った瞬間に雷にうたれたように恋することをいうのだ。そう、本当の恋とは雷撃のようなものなのである。
そして、今。
冬華は、そういう恋の中にいた。
彼女の体は、すっかり元に戻っていた。そのみずみずしい肌を見た者は、それが一週間前の彼女であると信じないだろう。その玉が転がるような声を聞いた者は、それが一週間前の彼女であると信じないだろう。
そこには、銀色の波立つ髪、大きな青い瞳、そして白い肌の匂うような乙女がいた――かつての外史において『徐州の水仙』と讃えられた占い師、管輅の本当の姿である。
『管理者』が己の死を肯定しない限り、その復元能力は神に等しい。それが、管理者という存在。だからこそ、世界は維持される。
だが、彼女が管理者だと知らない者にとって――いや、そもそも管理者という概念自体、通常は誰も知らない――、急激に復元していく冬華の姿は、どう見ても異常であった。冬華自身、慶次郎たちにそう思われることを恐れた。
しかし、慶次郎を始めとして、誰もそのことには触れなかった。そもそも、揃いも揃って『普通』の連中ではない。人には人の都合がある。変わったやつだな。その程度にしか思わない。そんな連中であった。
冬華は、うれしかった。初めて、管理者ではない『ただの女』になれた気がした。例え、それが勘違いであったとしても――。
◆◆◆
毎朝、周倉は畑に向かう。いつも大きな弁当を持っていく。近くに小屋があるのだから戻ってきて食べればと思うのだが、青空の下で食べる愛妻弁当が好きらしい。
裴元紹は、弁当と弓矢を持って山に向かう。狩りをするためだ。彼女の猟果が、夕食の豪華さを決める。
彼らが戻ってくるのは、夕方になってからである。それまでの間、慶次郎と冬華は二人で時間を過ごした。
その日。時刻はちょうど、周倉たちが出かけて一刻(二時間)後。慶次郎は洗濯に取り組んでいた。
鎧櫃の中には、黒く焼きの入った南蛮鎧が入っていた。その詰め物として、慶次郎は愛用の衣服を何着か詰め込んでいた。いつ何時でも、時が至ればすぐさま戦場に向かうための知恵である。
しかし、それらの衣服はずっと鎧櫃に入れっぱなしであったために皺だらけになっていた。虫食いもある。
そのため、このところ毎日、慶次郎は裏手の水路を使ってそれらの服を洗い直している。そしてそれらを適当に手で絞り、小屋の前に広げたわらの上に干していた。洗えないものは、適当にほこりを払って虫干ししている。
冬華はといえば、縁側に座って南蛮鎧を綿布で磨いている。服は裴元紹のものを借りていた。どう見ても似合っていないが、本人はまったく気にしていない。
きゅっ、きゅっ、きゅっ。
額に汗がにじみ出る。埃にまみれて鈍い光をまとっていた鎧が、硬い光沢を少しずつ取り戻す。
冬華は、ふと目を上げた。愛しい男の背中が見える――何だか、一緒に暮らしているみたい。
小屋の前の広場では、二頭の馬がのんびりと歩いている。松風と野風だ。
冬華が慶次郎たちと始めて会った日。裴元紹が彼女を介抱している間に、慶次郎は松風を鏡池から連れてきていた。また滝壺のそばにつないでいた野風は、周倉が取りに行ってくれた。二頭は時折、並んで気持ちよさそうに走った。
ぱからっ、ぱからっ、ぱからっ。
規則正しい乾いた足音が、広場に響く。馬格の優れた二頭の馬が、足を揃えて並走する姿は美しい。その毛並みが、太陽の光を浴びて金色に輝いた。
そこには、まごうことなき夢見た世界があった。繰り返される運命から解放された、みずみずしい世界があった。その世界は静謐で、安寧で――幸福に満ちていた。
◆◆◆
幸せだわ。あまりの幸福に、冬華は身震いした。
幸せって、こんなに怖いものだったのね。ほら――失うことを想像するだけで、こんなにも恐ろしい。
管理者である自分。占い師としての自分。それに相応しい自分。その立ち振る舞い、その話し方、そのすべてが『決められていた』。どんなにあがいても、運命の轍から外れることはできなかった。
唯一選択できるのが、自死――それですら仮の死であり、『天の御遣い』の予言を終えた後に限られた。その予言の後に、できるだけ速く自死する。それが冬華の、魂の牢獄めいた運命に対するせめてもの抵抗だった。
だから、『決められていない』自分が存在できることに驚いた。自分の中に、こんな『自分』がいることに驚いた。ドジで間抜けでやかましく――思い返せば顔から火が出そう――そして、人を好きになる自分。そんな自分が、存在できるなんて。
讃えられ、畏れられ、崇められた。そんな自分はどこにいってしまったのか。もしかして管理者としての自分は、自死の繰り返しで故障してしまった――いや『壊れて』しまったのだろうか。
だからこそ、運命の轍から外れることができたのか。……慶次郎に、出会うことができたのか。
それで、いい。
冬華は鎧を拭く手を休めると、縁側から空を見上げた。
透き通るような、青い空が広がっている。
雲がゆっくりと流れていった。
天が、壊れた自分をこのまま放っておくとは思えない。けれども、これが私の望んだ世界。繰り返されない、たった一度の『生』の世界。この時間の、ためならば。
――私は、天をも敵にまわす。
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