第3章 冬華(3)
管輅が目を覚ますと、そこは布団の中だった。据えた臭いのする、綿の布団である。小さな、薄暗い部屋の中にいるようだ。いつの間にか、薄い麻の寝間着のような服を着させられている。
右脇に、すぐにも蹴破れそうな木の扉がある。そこからは赤い光が漏れ出ている――夕日だろうか。
体を起こす。時間が掛かった。無理もない。筋肉が細りきっている。遠くから見たら、服が勝手に体を起こしたように見えただろう。
扉の向こうからは、大きな笑い声が聞こえた。陶器がぶつかるような音も、時折聞こえる。酒を飲んでいるようだ。
楽しそう。
――憎らしい。
がっかりした。もう、新たな外史が始まってしまったのか。
うんざりした。もう少し、静かに眠らせて欲しかった。
新たに外史が始まったとしたら、『天の御遣い』を予言するまで、あと五年――また、五年。あの街角で、死ぬ日を数える日が始まるのか。管輅はため息をついた。
そこで気づいた。なぜ、私はここに居るのだろう――新たな外史は、管輅の目に小沛の街の広場の風景が目に入ることから始まる。外史の始まりと共に広場の隅に座る占い師。それが自分の役割だった筈だが……。
まあ、どうでもいいか。
管輅は下を向いた。
ほんと、どうでもいい。
……消えたいなあ。
……消えたいなあ。
……消えたい。
……。
……。
右脇の木の扉が開いた。黒髪を後ろで結わえた、小柄な女性が入ってくる。管輅が目覚めていることに気づくと、やわらかく微笑んだ。そして木の扉をいったん閉めると、しばらくしてお盆にのせたおかゆを持って来た。
「目が覚めたかい」
「……」
「おかゆ食べな。元気つくよ」
「……」
「せっかく生き返ったんだ。食べようよ」
「……」
無反応な管輅の態度に、裴元紹はため息をつく。彼女は、周倉のかかあ――妻であった。
慶次郎と鏡池のほとりで会った裴元紹は、その説明を聞いて誤解を解いた。近づいてみると、その娘は餓死寸前の状態と思われた。そこでとりあえず口に水を含ませると、慶次郎の力を借りて、周倉と一緒に住んでいる砦の前の小屋まで連れてきたのである。
その上でお湯を沸かすと、体と髪を丁寧に洗った。時間は掛かったが、その結果が目の前にいる。銀色の波立つ髪、大きな青い瞳――骨と皮になりつつも、この世の者とは思えないほど美しい女がいる。
目を覚ました管輅に、裴元紹は何度も話しかけた。けれども、彼女は反応しない。濁ったガラスのような瞳は、微動だにしなかった。裴元紹は、こんな瞳を知っている。絶望しきって、心が凍ってしまった人間の瞳。そうした人間に、他人の声は届かない――。
「おう、目を覚ましたか」
裴元紹の後ろに、大きな人影が現れた。
◆◆◆
……。
……。
なに。
なに、このひと。
……。
……。
すてき。
ぽっ。
管輅の瞳が、いきなり澄んだ。ガラスが宝石に変わった。青白かった顔は、一瞬で桃色に染まる。あまりの急変に、裴元紹は驚きを隠せない。そんな彼女を尻目に、管輅は慶次郎にいきなり話しかけた。
「はじめまして。私は名を管輅、真名を『冬華』(とうか)と申します」
「……字ではないのか?」
「……」
冬華は頭を抱えた。私のばか!最初から真名を教えてしまうなんて!――まあ、いいか。冬華は一瞬で立ち直ると、改めて目の前の男を見た。
見れば見るほど、いい男である。ただのいい男なら、飽きるほど見てきた。しかし、目の前のこの男はそうした類の男ではない。一目見て、感じた。自分にとって『特別』な、何かだ。
こんなことは、管理者を務め始めて一度もなかった。初めて途切れた、永遠の地獄のループ。そして現れた運命の人。これって、天が私にくれたご褒美ではないかしら。頑張ってきて良かった!――最近、すぐに死んでいたけど。
冬華はうっとりと慶次郎を眺めた。はっと、と気持ちを入れ替える。
いやいやいや。流されてはいけないわ。確かに目の前にいるのは、姿形、雰囲気、そのすべてが好みの男。だけどもっと大切なものがある。それは――教養。見掛けがいいのに話が合わない男って、最悪じゃないかしら。付き合う前に、まず確かめなきゃ。うん、私は冷静。
本人の思いとは裏腹に、いつもの冷静さを放り投げた恋の暴走列車、冬華は自分の好きな詩を慶次郎に向けてそっとつぶやいた。
「勧君金屈巵 満酌不須辞」
思わず、慶次郎は続けてしまう。
「花発多風雨 人生足別離」
冬華の青い目が、大きく見開かれた。
◆◆◆
……これって奇跡かしら。
いいえ、きっと運命ね。
ようやく出会えた――王子様。
入水自殺して、良かったわ。
冬華は感極まった。そんな彼女を、裴元紹は眉をひそめて見つめている。この娘、頭に春でも来てるんじゃないかしら。
そんな裴元紹の視線をよそに、冬華は慶次郎に向かってにこやかに話しかけた。
「あの、お酒、お好きなんですか?」
「ああ、好きだが……」
「私も、好きなんです!あの、今度……一緒に飲みませんか?」
「う、うむ。だがな」
一拍。
「あー、娘。酒が好きなのは良いが、子どもにはまだ早い。大人になるまで止めておけ」
冬華が固まった。
ぷっちん。
と、爆発する。
「私、子どもじゃありません!ばりばりの大人です!」
「そうか。失礼した。あまりにも起伏のない体なのでな」
な、なんて失礼な男なの……。
餓死寸前なんだもの。
起伏がないのは当たり前じゃないの!
……い、いつもならもう少し……。
冬華の体は怒りでぶるぶると震えた。しかし、恋する女の子は無敵である。冬華はすぐさま立ち直ると、顔を赤らめてそっと聞いた。
「あの、どのような女性がお好みですか。あ、せっかくの機会ですから、今回は体つきについて」
「「はあ?」」
慶次郎は、裴元紹と顔を見合わせた。
やるか。
やりますか。
「……うむ。胸はこう、どーんとな」
慶次郎はまず、自分の胸の前に両手で大きな胸をつくってみせた。そして、お尻を冬華に向けて突きだしてみせる。
「そして尻は、ばーんとな。そんなおなごが好きかの」
「わー、大将ってば、ひどーい。さいてー。女を体で判断するなんてー」
裴元紹はお盆を両手で持ったまま、大袈裟に首を振ってみせる。
「いやー、やっぱりおなごの体はみやびでないと」
慶次郎は腕を組んで目を瞑ると、これまた大袈裟に頷いて見せた。そして、冬華の顔をちらりと見る。その体がわなわなと震えている。
ぷっちん。
と、爆発した。
「貸しなさい!」
冬華は、裴元紹の持つお盆の上からおかゆのお椀を奪うように手に取った。そして、それをれんげでがつがつとかき込む。そして一瞬の間の後、
「あっつー!!」
と、豪快におかゆを吹き出した。
ぷっ。
慶次郎と裴元紹も吹き出した。
「どわはははは!」
「ひーっ、ひーっ」
「なに、笑ってるんですか!熱い!水!みずー!」
冬華は涙目で要求する。
「はいはい」
裴元紹は目に涙をためながら立ち上がった。慶次郎はまだ、腹を抱えて笑っている。
「もう!!」
冬華は頭から湯気が出そうな程に顔を赤くすると、箸を握った手で目の前の男の体をぽかぽかと叩く。だが、慶次郎の笑いは止まらない。つぼに入ってしまったようだ。
「……もう!」
そんな慶次郎の姿を見て、冬華も笑い出した。こんなに楽しい気分になったのは久しぶりだった。冬華は、自分が死ぬつもりだったことをすっかり忘れていた。
そして――。
自分のつぶやいた詩が、いつの時代の詩であったのかを忘れていた。
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