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第3章 冬華(2)
 滝の後ろには、人が一人ようやく歩けるような岩の階段があった。目の前の滝の水を通って、うっすらと太陽の光が差している。

「大将、気を付けろよ」
「おぬしが歩けるんだ。わしに歩けぬことはあるまい」
「そりゃ、そうだ――それにしても、よく気づきましたね」

 んっふっふっ。周倉は笑う。

 周倉は街に出て買い出しなどをする時、遠回りになる山道を使うのを避けて、滝の裏にあるこの階段をよく使うという。さっさとどいて欲しくて、親切に『遠回り』になる道を教えたっていうのに――と笑った。

「いや、最初はおぬしが霊水とやらを汲みに来たと思ったのだがな」
「へえ」
「だが、おぬしはここでは霊水の価値はないという。そして、住処はあの山の中腹にあるという。にもかかわらず、大荷物を背負ってここにいるわけじゃ。」
「……」
「そうなると、わざわざ道を外れてここにいる理由がなんとなく読めた。そこで、かまをかけてみたというわけじゃ」
「やっぱり、大将にはかなわねえ」

 そんなことを話ながら階段の中程まで歩いた頃、周倉がゆっくりと振り返った。その表情は、硬い。

「で。大将はどんな目的でここに来たんですかい」

 周倉は階段の上から、慶次郎を包み込むように迫った。これまでも、そうしたことを何度もしてきたのだろう。慶次郎の視界は、黒い筋肉で覆われた。

 しかし、慶次郎は慌てない。いざとなれば、この男をつかんで一緒に落ちるだけだ。空中ならば、敏捷な慶次郎が必ず勝つ。後は、この男の上にでも落ちれば良い。

「『物の怪』じゃ」
「物の怪?」
「うむ。鏡池にいるという、物の怪を見てこいと頼みを受けてな」
「物の怪……」

 んっふっふっ。周倉はいかにも面白そうに笑った。そして振り返って慶次郎に背中を向けると、再び階段を登り始めた。

「大将」
「ん?」
「あれは、物の怪なんかじゃありませんや」
「知っとるのか?」
「んっふっふっ。あれはどちらかといえば、『守り神』なんで」
「守り神?」
「おかげで、うるせえ奴らが来なくなった。物の怪さまさまで」
「ほう……」
「あれは――」
「言うな!」
「へ?」
「わしの楽しみがなくなるではないか。いいか、絶対に言ってはならんぞ」

 慶次郎は必死である。
 周倉は呆れた。
 大将は大将でも、ガキ大将かい。

 ――んっふっふっ。

 周倉は久しぶりに、一緒に酒でも飲みたい男だなと思った。

◆◆◆

「大きいな」

 慶次郎は感嘆の声を上げた。周倉は自分の住処を『小屋』といっていた。しかし、慶次郎の目の前にそびえるのは小さな砦であった。その前にあるちょっとした広場を含めれば、五〇〇人は収容できそうな大きさだ。周倉によれば、滝の裏にある階段はこの砦からの緊急の出入り口ではないかということだった。

「おぬし、こんなところに一人で住んどるのか?」
「いえ。かかあもいますよ。おーい!」

 周倉は野太い声で叫ぶ。おーい、おーい、おーい……やまびこが響いた。

「いないみたいですな。まあ、こちらへどうぞ」

 周倉が歩いて行く。そのまま砦に入るのかと思いきや、その手前にある平屋建ての建物に入っていった。なるほど、『小屋』である。周倉によれば、背後の砦は昔のいくさで使われたもので、今は使われていないという。

 山の中腹にある平地であり、背後に水源――鏡池を持つこの砦は、籠城すればかなり持ちこたえることができると思われた。もっとも、その平地は今は畑となり、水源はその畑をうるおすために使われている。

「平和じゃのう」

 慶次郎は、眼下に広がる絶景を見ながらつぶやいた。

「まったくで」

 周倉がお茶を入れている。意外と器用なようだ。もっとも、周倉の前では普通の湯飲みも親指の先ぐらいの大きさに見える。

 周倉によれば、砦の前の道を歩いて行けば、山道に合流する。その道を使えば、四半刻(三十分)程で山頂の池に着く。しかし、この砦の裏にある滝の水源となっている水路側にある裏道を使えば、急坂ではあるが二町(二〇〇m)ほど登れば着くとのことだった。

 慶次郎はお茶を飲み干して周倉に礼を述べると、すぐさま砦の裏に向かった。唄でも歌いたくなるような気持ちであった。

 さてさて。唐土の物の怪とはどんなものか――。

◆◆◆

「おお……」

 慶次郎はうなった。

 その目の前には、まるで硝子のように透明で、鏡のように静かな池が広がっている。これを霊水とあがめる小沛の人々の気持ちも、わからないでもない。水面は太陽の光を浴びて、黄金のように輝いている。

 まるで天界の池のような光景に、慶次郎はうっとりした。だから、裏道を出てすぐ左のところに、巨木のようにたたずむ『物の怪』に気づかない。というより、池を見た瞬間に物の怪のことをすっかり忘れてしまっていた。

「うーむ、すごい。これはすごい」
『……』
「これは、一泳ぎしても罰は当たるまい」
『……』
「泳ぐのは何年ぶりか――三十年ぶりかのう。いやいや、長生きはするものよ」
『……』

 ぼん。

 爆発するような音とともに、慶次郎が飛んだ。自分で飛んだわけではない。物の怪に蹴られたのである。

 慶次郎は空を飛びながら、なぜか懐かしく思った。あやつに最初に蹴られたのは、いつのことだったか。確か厩橋城の――。

「松風!」

 慶次郎は叫んだ。逆さまに水の中に落ちようとする慶次郎の目に映った愛馬は、ふん、と横を向いた。

◆◆◆

「いやあ、松風。おぬしがここに来ているとは。まあ、わしもこんな風だし、不思議ではないの」

 びしょ濡れの慶次郎が夢中で話しかけている。もちろん、相手は松風である。

 しかし、松風はふん、ふん、しきりに横を見て、慶次郎のことを見ようとしない。

 慶次郎は深々と頭を下げる。

「いや、すまん。本当にすまん。あまりにも池が綺麗でな。われを忘れたのじゃ。本当にすまん!」

 がし。

 頭を下げる慶次郎の右肩に、松風が噛みついた。これまた、懐かしい感触じゃ。慶次郎がにんまりすると、

 ひゅーん。

 そのまま池の中に放り込まれた。女心を傷つけた男の罪は重いのだ。

 そうしたことを十数回繰り返した。だが、慶次郎は楽しくてたまらない。その度毎に、じゃぶじゃぶ池の中を走りながら松風に謝りに行く。謝っているはずなのに、顔は満面の笑顔なのである。そんな男を、結局は許してしまうのが女である。

 松風の姿は、慶次郎と初めて会った頃のように見える。彼女も若返ったのだろうか。

 と、松風がくるりと背を向けた。そしてこちらに顔だけ向ける。『こっちに来い』と告げている。

 松風は、池のすぐ側にある松林に入っていく。慶次郎はその後を着いていった。そこには、愛用の武具が並んでいた。鎧櫃もある。慶次郎は目を見開いた。

 こやつらもついてきたか。何とも愛いやつらよ……。

 そんな慶次郎に、松風は鎧櫃の側にある黒いずた袋のようなものをあごで示した。それはしどとに濡れていた。骨のような手足がはみ出ている。

「……仏、か」

◆◆◆

 それは、餓死したとでもおぼしき死体であった。松風の歯形の跡のようなものが見える。池に浮いた仏を、松風が哀れに思ったのか拾い上げたのだろう。霊水とやらを汲みに来て、誤って池に落ちたのかもしれない。

 灰色の毛のようなものが、はみ出ている。近づくと、むわっと異臭がした。慶次郎は、ふと星の話を思い出した。

「……管輅?」

 証拠はどこにもない。しかし、聞いた特徴といちいち合致していた。生きていれば、慶次郎がこの後漢末の世に来た理由が分かるかもしれなかった。だが――。

 慶次郎はもう、そのことを頭から消していた。仏は、弔わねばならない。それが、生者の最低限の義務である。彼の頭の中にあるのは、ただ仏を安らかに葬りたいという気持ちだけであった。

 慶次郎は、管輅らしき体を抱えた。軽い。まるで、小枝のようである。ハエが、わっと飛んだ。細い腕が、だらりとたれる。慶次郎は池に向かった。葬る前に、体を清めなければならない。

 池の側に着くと、慶次郎はゆっくりと管輅らしき体を地面に置いた。そして腰を下ろし、その身体を覆う布をそっと剥がそうとした。

 がぶり。

 いつのまにか背後に来ていた松風が、慶次郎の右肩を噛んだ。慶次郎は、ため息をつく。

「なあ、松風。怒っているなら、後でもう一度謝ろう。だから少しの間、待っていてくれないかね」

 しかし、松風は慶次郎の右肩から口を離さない。怒ったような目で慶次郎を見ている――どうしたのだ?

 ぷす。

 足下に、小さな矢が刺さった。松風が慶次郎の右肩から口を離す。なぜ、邪魔ばかり入る――慶次郎は腰を下ろしたまま、振り返らずに静かに言った。

「仏を清めるところじゃ。邪魔はしないでもらおう」
「生きてるじゃねえか、その娘」

 その声に振り返ると、そこには猟師のような姿をした小柄な若い女が立っていた。左手に小さな弓を、そして右手は矢をつがえている。弓は引き絞られ、その矢は正確に慶次郎の頭を狙っていることが見て取れた。先程の矢は、威嚇だったのだろう。

「娘?」
「わたしゃ猟師だからね。生き物の気配には敏感なのさ」
「おぬしは……」
「若い娘の服を寝ている間に剥がそうなんざ、人倫にもとるよ」

 ひゅっ。

 足下のずた袋から、空気の抜けるような音がした。


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