第2章 御遣(5)
「はあ……」
下邳の街、西側の城壁の上に座り、星は深いため息をついた。まさか、泣くとは思わなかった。……この自分が。
あのような場所で、こともあろうに涙をこぼしてしまうとは――武人として、あらざる失態である。星は唇を噛んだ。
気がつけば、慶次郎の存在は星にとって大きなものになっていた。
最初は、好奇心だった。白い光とともに舞い降りた『天の御遣い』。そして『女より強い男』という矛盾の体現者――その不可思議さに心惹かれ、共に過ごす気になった。その行く末を見てみたい、そんな気持ちになった。だからこそ、主従を申し出た。
小沛で過ごした一ヶ月は、慶次郎に対する気持ちを育てるには十分すぎる時間であった。強く、賢く、剽げていて、そして――優しい。二人きりで過ごす時間が、何よりも心地良かった。いつしか、彼の所作を目で追う自分に気づいた。だが、それが――恋慕であるとは気づかずにいた。こんな経験、今までなかったのだ。
しかし、自分の目から熱いものがこぼれた時、ようやくわかった。自分は慶次郎に惚れている。同じ武人としてだけではなく、一人の男性として――。
星はつぶやいた。
「困った」
これまで、他人の恋愛ごとに首を突っ込んではかき回すことを喜びとしてきた。そんな自分が、いつのまにかその恋愛ごとの渦中にいる。
「困った」
もはや、他人の恋愛ごとを笑えない。人を呪わば穴二つ。いや、他人の恋愛を気にする余裕もない。まずは、自分の気持ちをどうにかしなくては。
「困ったなあ」
星は城壁の上で立ち上がった。そして西の方角を見た。そちらには、小沛の街が――慶次郎がいる筈だ。
「……覚悟してもらいますぞ、慶次殿」
先程までの憂い顔が嘘のように、星は微笑んだ。
◆◆◆
「そんなことがあるものか!」
愛紗の声が部屋中に響いた。ここは会議の間。桃香の座る美麗な椅子を上座として、その左右に徐州の主な武将たちが揃っている。一刀は、桃香の左に立っていた。
ここにいる武将たちは皆、一刀が『天の御遣い』であることから縁が生じたと言える。したがって、誰が天の御遣いであるかということは、彼女らにとって非常に重要な問題であった。
「愛紗ちゃん、少し落ち着いて。まずは程昱殿と戯志才殿の話を聞きましょう」
紫苑が愛紗をなだめる。愛紗は下座を睨むように見た。そこには、風と稟が並んで平伏している。
「そこの者たち」
「「はい」」
「小沛の街に、もう一人の天の御遣いがいらっしゃるという話。本当か」
「それについては、私がお話いたします」
稟は顔を上げた。
「その天の御遣いは、ちょうど北郷様がこの世に顕現された日、やはり小沛の東に顕現されました。そのことは我が友、趙雲が証言しております。我が友は冗談を好みますが、このようなことで虚言は弄しませぬ。その証言をお疑いならば、私と程昱、いずれもお疑いになりますように。そして――」
その者は『前田慶次郎』と名乗っております。
一刀は凍りついた。
前田慶次郎……?
震える声で、聞く。
「あの、どんな……どんな感じの人なのかな」
横から、風が口を出す。
「一日中寝転がって書物を読んでます。日の本の出身だと言ってました。風のことをなかなか構ってくれません。いけずな男です。身の丈は六尺五寸(一九七cm)はあるでしょうか」
稟が続ける。
「失礼ですが、北郷様は会話には問題がなくとも、読み書きにつきましてはこれからの由。しかしながら、前田様におかれましてはわが国の教養を既に十分お持ちであり、私たちとて感心させられる程でございます。現在は、小沛の街にある私たちの屋敷にご滞在いただいております」
一刀は思う。似ている。あの前田慶次郎に……。
「馬……そう、馬が一緒じゃなかったかな。大きな黒い馬なんだけど」
「残念ながら……。趙雲によれば、白い服を着て一人、荒野に顕現されたと」
どうなのだ。確かめたい。もし、その人が『あの人』ならば……。
黙り込んだ一刀を心配したのだろう。桃香は、左脇に立つご主人様を見上げて言った。
「大丈夫!たとえ、その人がもう一人の天の御遣い様だったとしても、私たちのご主人様への気持ちは変わらないよ!」
そんな桃香を見て、鈴々と焔耶も言葉を続ける。
「そうなのだ!鈴々のお兄ちゃんは、お兄ちゃんしかいないのだ!」
「元から私の忠誠は桃香様のものだ。北郷、お前が本物だろうが偽物だろうが私には関係ない」
「焔耶!口を慎め」
愛紗は焔耶を叱咤すると、必死の面持ちで一刀に迫った。
「ご主人様!そのような者、気になさる必要はございません。無視すればよろしいではありませんか――第一、こちらの世界に来て一ヶ月、何もせずにただのんびりと寝転んで過ごしていただけの男に、天の御遣いを名乗る権利などございません!」
この一ヶ月、愛紗は下邳の支持者の力を借りて、全力で天の御遣いたる一刀の喧伝に努めてきた。そのかいあって、一刀は『天の御遣い』として人々に認められ、晴れて桃香は徐州の主となることができたのである。それを今さら……。
普段の彼ならば、愛紗の迫力に腰を引いてしまったことだろう。しかしながら、そこにいたのはいつもの一刀ではなかった。
「会いに行く」
「ご主人様!」
「会いに行くよ」
「……」
「その人が、もし、俺の予想通りなら」
愛紗は目を見開いた。ご主人様の目が濡れている。
「その人は、俺の憧れだ……そして」
一刀は諸将をぐるりと見渡して、宣言した。
「きっと、天の御遣いだ。俺にはわかる。それ以外にないよ」
その毅然たる態度に諸将は息を呑んだ。はっ、と頭を下げる。
「風、戯志才。慶次さん……いや、前田殿のところに案内してくれ。頼む」
「「承知いたしました」」
二人は平伏した。そして下を向いたまま、視線を交換する。
そんな二人を、憤懣やるかたない顔をした愛紗が睨んでいた。
◆◆◆
「おい、あんなこと言ってるぞ」
会議室を壁一つ隔てた部屋で、二人の男が並んで立っていた。一人は文官の服を着た、栗色の髪の若い男。もう一人は、ふんどしを締めた褐色の筋肉だるまである。
「貂蝉、どう思う?」
「そりゃ、憧れの人が近くにいると知ったら、誰だって一目会いたいと思うでしょうね」
「憧れの人か……目の前に、三国志の英雄たちが綺麗に着飾って揃っているっていうのに。贅沢な男だ」
そういいながら、若い男の顔はまんざらでもない。
「左慈」
貂蝉と呼ばれた巨躯の男が話しかけた。
「そういえばあなた、ちょっと頑張りすぎじゃない?……蜀の面子が揃うの、ちょっと早過ぎやしないかしら」
「いいじゃねえか。ここは『北郷一刀が中華を統一する世界』。北郷が楽できるなら、それに越したことはないだろう?」
「……」
「趙雲が仕官しないのは意外だったが……好きにさせてもらうぜ。こんな機会――俺が北郷を応援できる機会なんて、滅多にないんだ」
そういうと、左慈は頭の後ろに手を組んで天井を見た。その表情は伺うことができない。
「……左慈?」
「あ、そうそう」
貂蝉の問いかけに、左慈が話題を変える。
「そろそろ、管輅の奴を起こしに行かなきゃならなかったな……また『鏡池』か?」
「『仕事』は終わったんでしょ。しばらく放っておいてあげなさいよ」
「于吉からの連絡があった……追加でもう一つ仕事があるそうだ」
左慈は頭の後ろに組んだ手をとくと、右手でその頭をかいた。
「何でも、大事な仕事らしいぞ」
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。