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第2章 御遣(3)
「私は周瑜と申す者。こちらに我らが主君、孫策様がご滞在と聞き、参上いたした」

 雪蓮が訪れた翌日の朝。入口の鐘が鳴る音を聞いて応対に出た慶次郎は、二人の女性と向かい合っていた。眼鏡を掛けた褐色の肌の女性と、昨日天井から飛び降りてきた黒い長髪の少女である。

「確かに、ここにいるぞ。……おーい、雪蓮!」

 冥琳はその流麗な眉をひそめた。真名を許しているだと。

 あのばかめ……。

 ほどなくして、奥の部屋からしどけない格好の雪蓮が出てきた。

「どうしたの?冥琳」
「……」

 冥琳はため息をついた。

◆◆◆

「こんなところにいたのか。探したぞ」

 冥琳は語気を強めた。

 雪蓮、冥琳、そして明命の三人は庭のあずまやにいた。彼女らが囲む丸い卓の上には、三つの湯飲みが載ったお盆がある。先程、慶次郎が置いていった。意外においしいので、冥琳は驚いた。

 庭に向かう部屋の縁側近くの床に、寝転がって書物を読みふける慶次郎の姿が見える。そんな男を見ながら、雪蓮は冥琳に問うた。

「結論は?」
「ああ。『本物』だ。下邳の天の御遣いとやらは」
「……ふーん」

 気乗りのしない声で雪蓮は答えた。冥琳は話を続ける。

「かの者が下邳に到着するやいなや、諸葛亮と鳳統が現れて主従を申し出た」
「あの、伏龍と鳳雛が?」
「ああ。それだけではないぞ。他にも魏延、黄忠、厳顔……いずれも知るものぞ知る、猛将たちが主従を申し出ている」

 冥琳はお茶をすする。

「彼が下邳に来て二週間後、黄巾賊八千が来襲。州牧の陶謙は心労で倒れてしまった」
「それで?」
「下邳の兵士はそのときわずか二千。しかし、倒れた陶謙の前に『たまたま』いた天の御遣いの指揮のもと、徐州軍は黄巾賊を奇襲によって見事撃退。……まあ、これは軍師の指揮によるものだろうが」
「ふーん」
「そこで名を挙げたのが、その黄巾賊を指揮していた波才を見事討ち取った関羽。そして、それに負けじと武威を示した張飛だ」

 さらに、と冥琳は続ける。

「彼女らの長姉である劉備は、その類いまれな魅力で下邳の『偶像』(アイドル)となっている。いや、彼女だけではない。関羽、張飛、諸葛亮、鳳統……皆、街では大人気だ。彼女らの似顔絵が、市の至るところで売られている。
 それにともない、黄巾賊を恐れていた商人どもが、どっと集まった。黄巾賊を討つための義勇兵もぞくぞくと集まっている。その兵力は、少なく見積もっても既に三万。……そして御遣いが来て三週間後、陶謙は息を引き取った。徐州を御遣いに託してな」

 そこまで言うと、冥琳はもう一度お茶をすすった。

「……結論として、天の御遣いは下邳に来てわずか三週間で徐州を得たことになる。誰にも恨まれず、誰からも称賛されるかたちでだ。そして今、徐州の首都である下邳は空前の繁栄を迎えつつある。
 すべてが、御遣いの力によるものとは思えない。けれども、御遣いがいるからこその繁栄であることは確かだ。……正直、私は恐ろしい。天が味方しているしか思えない。御遣いは、まさしく『天運』の持ち主と言うべきだろう」
「天運……」
「だが、これで我らの側に引き込むことは難しくなった。もはや、やつは徐州の英雄だ。我々が御遣いの『種』を得たいと申し出ても、容易に引き受けることはなかろう。……特に、やつの回りの連中はな」
「そう……」
「管輅の予言に頼りすぎたな。いくらその予言が外れたことがないとはいえ、小沛に気を取られすぎた。明命もこちらに配置していたし。――とにかく、仕切り直しだ。何とか、天の御遣いとのつながりを作らなくては」
「そうねー」

 気のない返事を返し続ける雪蓮に、流石に冥琳は声を荒げた、

「おい、雪蓮!」
「何よ」
「空返事はよせ。真面目に聞いているのか?」
「聞いてるわよ」
「お前が思いついた、天の御遣いの血を入れて……計画。ほぼ、潰えたのだぞ」
「考えてみると、お馬鹿な計画よねー」
「……お前がそれを言うか」

 冥琳はがっくりと肩を落とすと、ため息をついた。そして、雪蓮の視線の先を追う。

「……そんなに、いい男か」
「そんなに、いい男よ」
「……」

 雪蓮は慶次郎の姿を見つめ続ける。冥琳がその横顔を睨み続ける。張りつめた時間が過ぎていく。

 何も発言できない。明命は、今にも胃袋が破れそうだった。

「……まさか、後を蓮華様に譲るとでも言うのではあるまいな。冗談でも許さんぞ」
「蓮華に後を譲る……」

 雪蓮は冥琳の言葉を繰り返す。そして頷いた。

「譲ってもいいわ。それで、あの人が振り向いてくれるなら」
「雪蓮!」
「でも、だめね。……せめて、『王』にはならないと」
「雪蓮?」
「呉に帰るわ。……早く、王にならなくては」
「しぇ……」

 冥琳は言葉を止めた。

 昨晩、慶次郎は雪蓮を抱かなかった。酔いつぶれた雪蓮を奥の寝室に運ぶと、戻って独り、酒を飲み続けていた――らしい。起きたとき、当然あるべきと考えていたその温もりは隣になかった。その時に感じた寂しさ、そして……。

 雪蓮の瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。

「あの人を、振り向かせるわ」

◆◆◆

「慶次、世話になったわね」
「なに。旨い酒が飲めた」
「こちらこそ」
「そういえば、雪蓮」
「なあに?」
「おぬし、何をしに来たのだ?」
「忘れちゃった」

 雪蓮はちろりと舌を出すと、くるりと背を向けて足早に屋敷を出て行った。冥琳と明命は慶次郎に一礼すると、慌てて雪蓮の後を追いかける。彼女の足は、速い。

 一刻も早く、呉に帰ろう。
 
 そして――袁術を潰す。

 そうしたら……。

 彼らが街の中央部に至ったとき、雪蓮がくるりと振り向いた。猫のような笑顔――既に、先ほど冥琳に見せた一瞬の狂気は消えている。そんな彼女を、冥琳はじろりと睨んだ。

「何よ、冥琳。怒ってるの?」
「当たり前だ。……さっき、自分が言ったことを忘れたのか?」
「私が言ったこと……?」

 雪蓮は右手の人差し指を顎に当てて、首を傾げた。

「ああ、蓮華に後を譲るって言ったこと?」
「そうだ。たかが男のことで、そのような大それたことを」
「……ただの男じゃないわ。天の御遣いよ」
「ふん。天の御遣いが二人もいてたまるか。それに」
「それに?」

 こちらの方が、より重要なのだろう。冥琳は息を整えると、静かな目で雪蓮を見つめた。

「好いた男を振り向かせるために、王になると言ったな」
「そんなこと、言ったかしら」
「しらばっくれるな。そんなこと、私はともかく」

 そう言うと、冥琳は一瞬、明命に視線を移した。明命はびく、と身体を震わせる。

「……他の連中に聞かれてみろ。許されん」
「わかってるわよ」

 雪蓮は両手を腰に当てると、静かに言った。

「……私が王となるのは、お母様の無念を晴らすため。そして、孫家を奉じ、命をかけてくれる者たちの居場所をつくるためよ」
「わかっていれば、それでいい」
「だけど」
「だけど?」
「理由は幾つあっても、いいわよね?」
「雪蓮……」
 
 ぐきゅるるる。

 緊張を引き裂く緩慢な音が響いた。雪蓮と冥琳が同時に振り向く。その音源は、明命のお腹辺りであった。

「も、申しわけありません!」
「……いいのよ。そういえば、もうお昼ね。どこかで食事でもしましょうか」
「あ、それでしたら」

 明命がうれしそうに答える。そして、ある建物を指さした。

「あそこはいかがですか」

 そこには、五階建ての真っ赤な建物があった。店先から、絶え間なく人々の笑い声が聞こえてくる。なかなか繁盛しているようだ。

「『流流楼』という、この街一番の高級料理店です」
「流流楼……」
「何でも、一年前にできたばかりということで。ここ小沛でも、人気のお店です。私も一度食べたいと……」
「……ほかの店にしましょう」
「しぇ、雪蓮さまぁ〜」

 肩を落とす明命を尻目に、雪蓮は再び歩き出した。
 
 妙に、気に入らなかった。


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