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第1章 慶次(4)
 慶次郎は困っていた。この男を困らす状況など、なかなかあるものではない。しかし、困っていた。とても、困っていた。

 あぐらをかいた慶次郎の前には、土下座をしている四人。趙雲と黄巾賊の三人組である。
 
 慶次郎は、再度同じ言葉を繰り返す。

「いや、だからな。その、真名とやらを受け取るわけには……」
「「「「何とぞ!」」」」

 四人が言葉を繰り返す。

「いや、だからな……」

 趙雲が土下座したまま、その背後で同じように土下座する三人を振り返る。

「いいか!もう一度だ!大きな声で!」
「「「へい!」」」
「……」

 無言になる慶次郎の前で、四人は再度言葉を繰り返した。

「「「「何とぞ、真名を受け取って下さいませ!」」」」

 慶次郎は空を仰いだ。
 なんでこんなことに……。

◆◆◆

 半刻(一時間)程前のこと。ふくべが空になったのを機に、趙雲は姿勢を正すと慶次郎の前に座った。

「前田殿」
「うむ?」

 慶次郎は、空になったふくべを逆さまにし、最後の一滴を飲もうとしていた。そんな慶次郎の顔を見つめながら、趙雲は問う。

「お名前を、正しく教えて下さいませ」
「ん?ああ。『こちら』ではわかりにくいかもな」

 慶次郎はふくべを懐に入れると、指で地面に自らの名前を書いた。

 前田慶次郎。

 まえだ、けいじろう――と何度かつぶやいた後、趙雲は慶次郎に正対する。

「前田慶次郎殿。先程の勝負、真に感服いたしました」
「いやいや。勝負は時の運。趙雲殿の槍さばき、実に見事であった」
「それで、その……」

 趙雲の顔はいつの間にか真顔になっていた。先程までの薄く桃色に染まった酔い顔が嘘のように、その顔は白磁のごとき端正さをもって慶次郎に迫る。

「ん?どうした?」

 慶次郎は、そんな趙雲に顔をずっ、と近づけた。趙雲の顔は一瞬で真っ赤になり、身体ごとさっと後ろに跳ぶ。そして首をぶるぶると振ると、改めて慶次郎を見据えて声を張り上げた。

「ま、前田慶次郎殿!」
「う、うむ」

 思わず、姿勢を正して頷いてしまう。

「私の武技を一顧だにせぬその技量。そして、それを誇らぬその度量――惚れ申した!」
「な?」
「しからば、お願い申し上げます。私の真名を受け取って下さいませ」
真名まな?」
「私の真名は『星』と申します。これからも、よしなに」

 そう言うと、星はその頭を小さく下げた。

 何だか、告白されているようだ――そんなことを考えながら、慶次郎は答えを返そうとする。

「趙雲殿。その……」
「ちょいとお待ちを」
「何じゃ?ノッポまで」

 気がつけば、黄巾賊の三人組も慶次郎に向かって姿勢を正して座っている。ノッポがその左右に座るデブ、チビの顔を見た。彼らが頷くのを確認すると、ノッポはやはり星と同様に真剣な面持ちで言った。

「わしらも、旦那に惚れやした。是非とも、真名をお預けいたしたく」

 慶次郎は腕を組み、静かに目をつぶった。四人は、その返答を待って息を止める。

 しばらくして慶次郎は目を開けた。そして、声を発した。

「真名って何じゃ?」

「「「「は……?」」」」

 慶次郎以外の四人の気持ちが、初めて一つになった瞬間であった。

◆◆◆

「……ですから、真名というものはとても大切なものなのです」
「ああ、わかった。わかった。存分にわかった」
「いや、慶次郎殿はわかっておられぬ。私が、いや、われらがどれだけの覚悟で……」

 星が真名について説明し始めて、四半刻(三〇分)が過ぎようとしていた。慶次郎は、助けを求めるように三人組に目を向ける。三人組は申し訳なさそうに、首を振るばかりである。いつの間にか、星は慶次郎を「慶次郎殿」と呼ぶようになっていた。

 星の話を聞いて分かったのは、真名はそう簡単に人に預けるものではないこと。よほど相手に惚れ込み、信じられた場合にのみ、打ち明けるものであるという。

 日の本における「いみな」によく似ている。しかし、心許した人々の間では通常使われるということであれば、一種の愛称に近いようにも思われた。

「本当にわかっているのですか!そもそも真名というのは……」

 また繰り返そうとしている。もしかして、酔っているのだろうか。日の本の酒は初めてだろうし、酒量を誤ったのかも知れぬな……。そんなことを思いながら、慶次郎は星に問う。

「ということは趙雲殿。おぬしはわしに惚れたということか?」
「はい。そう申し上げました」
「しかしだな、会ってすぐに惚れたと言われてもだな」
「ふ、愚問ですな」

 星は腕を組んで慶次郎を見上げた。星の背丈は、慶次郎よりもずっと低い。見上げるその姿は、何とも得意げに見えた。

「先ほど申しましたように、私は慶次郎殿に同じ武人として惚れたのです。僭越ながらこの趙子龍、諸国を巡り歩き見聞を重ね、人を見る目はそれなりに養ったといささか自負しております――ましてや、慶次郎殿は天の御遣い。真名をお預けすることに、何の異存がありましょう」
「その割には、ずいぶんと顔を赤くしていたではないか」
「な……!」

 星は目に見えて狼狽した。組んでいた腕を外すと、よろよろと後ろにたたらを踏む。

「そ、それは、慶次郎殿が急に顔を近づけたりするから!」

 叫ぶようにそう言うと、星はきっ、と慶次郎を睨んだ。

「……もしや、私が女性として慶次郎殿を慕い、真名をお預けしたなどと勘違いなさっているのではあるまいな?」
「わかっておる、わかっておる、十分にわかっておる。勘違いなどしておらぬ。ただの冗談じゃ。だから、そう怒るな」
「……」
「……どうした?」
「……いや、それはそれで腹が立つというか」
「何?」
「この気持ち、何でしょう。初めてです」
「?」

 慶次郎は首を傾げる。

 星も不思議そうに首を傾げた。そしてしばし黙考すると、やにわに槍を逆手に持ち、槍の柄で慶次郎の頭を軽く叩いた。

 ぽこん。

「……何をするのじゃ」
「いや、よくわかりませんが、こうすると何やらすっといたします」

 星が口元に笑みを浮かべている。鼠を見つけた猫の顔だ。その顔は、ほんのりと赤い。

「……おぬし、やはり酔ってるな」
「それでは、もう一度」
「待て!」
「待ちませぬ」

 慶次郎は駆けだした。その背中を怒っているような、それでいて喜んでいるような顔の星が追いかける。

 どちらも本気ではない。戯れである。いずれにせよ、妙齢の女性が振り回す槍から逃げ回る大男の姿は、いかにもおかしかった。

 その姿を見て、黄巾賊の三人組は笑った。久しぶりに、腹の底から笑った。

◆◆◆

 そして、冒頭の光景に戻る。星は顔を地面に伏せながら、涙声で訴えた。

「……なぜ、われらの真名を受け取って下さらぬ。なぜ、主従としての誓いを拒まれるのか」

 星は顔を伏せたまま、右手で顔を拭った。

 気が済むまで人の頭を叩いておいて何を言う……ん?いつの間に主従としての誓いまで――そんな慶次郎の気持ちとは裏腹に、黄巾賊の三人組も『趙雲殿の言うとおり』とばかり、しきりにうなずいている。

「われらには……慶次郎殿にお仕えする価値がないということですか」
「いやいや、そういうわけではなくてな」
「だったら、なぜ!」

 星が顔を上げた。怒り心頭といった感じである。星からすれば、それだけの覚悟を持って預けた真名であった。それをあっさり拒否されるとは――自分の価値が見くびられたような、そんな憤りもあった。

 やはり、先程の涙声は嘘泣きであったか。食えぬおなごだ――そんなことを思いながら、慶次郎は頭をかく。

 やれやれ――。

「勘違いするな。価値がないのは、わしじゃ。わしに、その価値がないからよ」
「何をおっしゃる!慶次郎殿は、私に勝った!負けて言うのも何ですが、私の技量はかなりのもの。それを赤子の手をひねるように相手された慶次郎殿はまさに万夫不当!お仕えするのにこれ以上の方はおりませぬ!」
「星よ」
「……はい!」

 真名を呼んでくれた――そのことに喜びを感じたのも束の間、星は息を呑んだ。いつの間にか、慶次郎が真顔になっている。
 
「わしは、強いだけだ」
「は?……」

 慶次郎は続けて言う。

「強いだけでは主はつとまらぬ。理想だけでは主はつとまらぬ。主とはつまるところ、自らを慕うものたちを飢えさせぬ力を持つもののことよ」
「……慶次郎殿?」

 星の問いかけには答えず、慶次郎は空を見上げた。いつしか日は西に傾き、空はうっすらとあかね色をさしている。

 友はいた。皆、戦乱の世を独りで生き抜く力を持った、類い希なる漢たちだった。

 だが、部下はいなかった。

 独りでは生きていけない――そういう存在と関わることを、恐れていたのかもしれぬ。

 守るべき存在が増えることを、疎んでいたのかもしれぬ――自由で、いたかった。

 なあ、親父殿。やはり、わしには大名など無理なんじゃないか。そして叔父御――利家殿。あんたは、本当に偉かったな。

「異国に来たばかりのこのわしに、そのような力はない。おぬしらが真名とやらを預けるような、ましてやおぬしらの主たるような価値は、今のわしにはないのじゃ」
「慶次郎殿……」  
「いや……今までもなかったのかもしれぬな」

 そう言う慶次郎の顔は、星には見えなかった。


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