現世境旅館
はしゃいでいたメリー(に付き合う蓮子も)も、少しずつ口数が少なくなっていき、ついには無言になったのが、バス停から歩いて15分が過ぎたころであった。
今ではほとんど言葉を口にせず、額から汗を流して森林の中を突き進んでいる状況だ。呼吸こそ乱れてはいないものの、
それなりに負担を覚えているのは想像するまでも無い。蓮子の方は、まだ余裕があるようで、表情に陰りはない。だが、蓮子程体力が無いメリーには、少々辛いものであったようだ。
地面がアスファルトで舗装されているのが幸いだった。もし、これがむき出しの地面であったなら、今頃メリーは疲労で息が上がって、最悪立ち止まっていただろう。
心配に思った彼が何度かメリーを気遣うが、彼女なりのプライドがあるのだろう。「大丈夫」「平気」「これぐらいなら」と口にするだけで、一度も休もうとはしなかった。
その青臭い不器用さに微笑ましさを覚えつつも、さもありなん、と二人を見て思う。無口になった二人に視線をやりながら、気の毒だと思った。
二人は知らなかったのだろう。山道……というより、傾斜面を歩くということの辛さを。それによって肉体に掛かる、疲労と言う名の負荷を。
まあ、傾斜面などほとんど歩くことのない都会っ子が、知っていなくてもおかしくはない……か。
ちらりと視線をアスファルトに向ける。少し、前傾姿勢を取らなければならない程度に傾いているぐらいの角度だ。
蓮子とメリーの履いている靴(どう贔屓目に見ても、運動靴ではない。それは彼も同じだが、男と女では体の作りからして違うのである)では、余計に疲れてしまうだろう。
傾斜面どころか断崖絶壁を登った経験もある彼にとって、この程度は斜面でも何でもないのだが、それを女性二人に求めるのは酷というもの。
言うなれば、緩い角度の階段を延々15分、上り続けているのと同じである。むしろ、全く疲れない彼の方が異常なのだろう。
顔をあげると、アスファルトの続く彼方に、ぽつんと建物が見える。その建物の周りにも何軒か建物が見えるが、その建物が他のものよりひと際大きいせいか、その建物に視線が集中した。
(……もしかして、あれが蓮子の言っている民宿なのだろうか?)
少し、意外だ。彼はそう思った。彼が予想していたのは、下品なネオンに輝く、時代の流れに取り残されたホテルか何かだ。
しかし、視線の先にある建物は、どう見てもホテルというよりは、旅館、あるいは民宿と言った方がしっくりくる外観だ。
なるほど、確かに民宿である。だとするならば、ずいぶん辺鄙なところに民宿を建てたものだ。
失礼に感じつつも、彼はそう思った。もしかして温泉でも湧いているのだろうかという考えも浮かんだが、すぐに捨てた。
それならば、蓮子がとっくの昔に教えてくれているはずだ。基本的にくだらない嘘はつかない蓮子が、わざわざこんなしょうもないことをするとは考えられない。
(……まあ、考えたところで仕方がない。到着すれば分かる話だろ)
そう結論付けた彼は、リュックからペットボトルを取り出すと、前を歩くメリーに手渡した。
近くで見ると、なるほど、確かに民宿である。建物周囲を囲む、日に焼けた外壁はうっすらと茶色が掛かっていて、建物の年齢を想像させる。
入口横に設置された看板には『現世境旅館』と達筆で書かれていた。
ずいぶん変な名前である。そう思った彼の目の前で、メリーが「変な名前ね。うつしよさかいなんて、初見で分かる人いるのかしら?」と呟いていた。
どうやら、名称に対して思うのは彼だけではないらしい。
悪く言えば古臭い。良く言えば情緒のある、年代物の建物。改めて近くで拝見すると、周辺にある建物には無い、不思議な何か……を感じとれる……ような気がした。
それが何なのかは彼には分からなかったが、どこかそれを懐かしく思っている自分に、彼は内心首を傾げていた。
「やっとこさ、到着したわよ……」
入口を前に、足を止めた蓮子が、そう告げる。その声に力が無いのは、果たして彼の気のせいなのか。
いや、違う。さすがの蓮子も、慣れない傾斜の移動には疲れたのだろう。見れば、しきりに足首を回して筋を解していた。
好奇心を満たす為なら徹夜もいとわない蓮子も、女性だったということか。改めてみる蓮子の細い足首から視線を外しつつ、彼はリュックを背負い直した。
バス停から時間にして30分。ようやく、寝床となる旅館へと到着である。「……着いたの?」と、死人のように青白い顔のメリーが、蓮子の袖を抓んでいた。
蓮子は自身の額に浮かんだ玉の汗をハンカチで拭いながら、メリーの顔も拭ってやった。
「ええ、思ったより時間が掛かったわ。ごめんね、メリー。ここまできつい行路になるとは思わなかったのよ」
別に、辛くもなんともないけど。そう思った彼ではあったが、口にしたが最後、二人の集中砲火を受けることは分かっていたので、「とりあえず、中に入ろうか」と二人を促した。
言われるまでも無い。そう顔に書いてある二人は、これまた時の流れを思わせる、薄汚れた石畳をのそのそと進み、さっさと中に入った。
彼も続けて中に入る……と、目の前に飛び込んできた室内の映像に、頬が緩んだ。
外観のイメージ通り、内装も懐かしさを覚えるものであった。入って正面には大きな覗き防止の飾り板が立てかけられていて、そこには鮮やかな向日葵の水墨画が描かれていた。
板張りの床に、どこか古ぼけた絵柄が描かれている襖。そして極めつけの招き猫。もはや、タイムスリップしたのではないかとすら思えてくる光景だ。
「……へえ、何か懐かしいなあ」
ポツリと呟いたそれは、二人の耳には届かなかった。ただ、考えているのは同じなのかもしれない。
見れば、二人ともノスタルジー的な感傷(メリーは少し意味合いが違うだろうが)を想起させられているのだろう。どこか、宝物を見つけた子供のような笑顔を浮かべながら、そこら中へ視線を向けていた。
二人の前方、玄関を上がってすぐの板の間には、スリッパが3足分置かれている。等間隔で、きっちりとこちらへ足口を向けていた。
「よいしょ」っと、蓮子は靴を履いたまま板の間に四つんばいになった。
靴の泥が付かないよう、膝から下は床に付かないように上に上げながら、「よいしょ、よいしょ」と飾り板と曲がり角の隙間に顔を突っ込ませた。
……従業員が近くにいるかを確認しているであろうことはよく分かったが、だったらスリッパに履き替えて確認した方が楽なのではないだろうか。
ていうか、せめて靴ぐらい脱いで行けよ。
そう思った彼だったが、何やらメリーも蓮子に倣って四つんばいになったのを見て、ため息をこぼした。
蓮子はパンツを履いているため、はしたない恰好になることはないが、メリーは……まあ、ロングスカートだから、そうそう捲れることはないだろう。
「わお、見てみて、メリー。レトロを感じさせる光景よ」
首から先をこちらへ向けないまま、片手でちょいちょいと呼んでいる。
「ちょっと待って、スカートが邪魔で……もう、面倒!」メリーは苛立ち紛れに靴を脱ぎ捨てると、どすどすと足音を立てて蓮子の横に並んだ。
「……結局脱ぐのか」
なんだろう。異国の地で一夜のアバンチュールを楽しむ女性が多いと、どこかの雑誌で読んだことがある。
一部では『ワン・コイン』と揶揄されているという、低俗極まりない内容だったのだが、あながち間違いではないかもな、と彼は再びため息を吐いた。
しかし……こんな辺鄙な場所に、よくもまあ残っていたもんだ。ぐるりと周囲を見回す。
見れば見る程、懐かしさが思い浮かんでくる光景だ。そのせいで、涙腺が緩みそうで、抑えるのが大変である。
(それにしても、宿の人はどこにいるんだ?)
「あら、もしかして、ご予約の方でございますか?」
彼が従業員を探そうと思った瞬間、背後から落ち着いた声が掛けられた。振り返ると、そこには白髪の混じった黒髪を頭の後ろで団子状にまとめた、老女が立っていた。
少したれ目の、年齢にすれば、70過ぎぐらい。目じりに刻まれた皺が、彼女の年齢の高さを物語っていた。
「あ、はい。えっと……」
チラリと視線を二人へ向ける……と。
「あれ?」
二人の姿が消えていた。よくよく見れば、足元にあるメリーの靴の傍に、蓮子の靴が無造作に投げ捨てられていた。
「もしかして、つい今しがた中を覗いていた御嬢さんをお探しで? それでしたら、あなた様が目を離した隙に、サッと奥の方に駈け出して行きましたよ。元気の良い御嬢さんね」
老女の質問に、彼は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いやあ、すみません。どうも、こういう宿に泊まるのが初めてらしくて。後で言って聞かせますので」
俺はお父さんか! そう、心の中で、自分に愚痴を零す。
「かまいませんよ、どうせあなた方以外、この宿に泊まる人なんておりやしませんから。それに、若い人は元気が一番! あなたも、あの子たちを見習って元気におやりになさればいいんですよ」
「……もう、そんな年じゃありませんよ」
「何を仰います、そんな若いなりで。私にとって、あの子たちもあなたも、大して違いませんよ」
からからと老女が笑った。きっちりと整えられた割烹着と、スッと伸びた背筋に、歳不相応の若々しさが見て取れたが、笑うとさらに若々しく見えた。
まあ、彼が躊躇するのも仕方がない話である。年齢だけを言えば、老女の1000倍以上長生きしているのである。今更若い人間と同じようにやれよと言われても、戸惑って当然だろう。
「ところで、念のため本当にご予約様なのか確認させてもらってよろしいですか? ご予約を頂いたときの電話口の相手は女性でしたので、おそらくあなた様に聞いても分からないかもしれませんけど」
「かまいませんが、何か身分証明が必要ですか?」
いえいえ、そんなたいそうな代物、いりませんよ。と、老女は笑いながら手を振った。
「ご予約していただいたときのお名前を確認したいだけですから」
「ああ、なるほど。えっと、宇佐見、だと思いますが、合っていますか?」
老女はにっこりと笑みを浮かべた。
「改めて、ご挨拶いたします。当旅館においで下さいまして、まことにありがとうございます。短い時間ではありますが、どうか楽しんでいってください。わたくし、『現世境旅館』の館長を務めております、長江と申します」
そう、長江は彼に告げると、深々と頭を下げた。
長江に案内された部屋、『現世』の間は、それなりの広さがある大きな和式部屋であった。
部屋の中央にはこれまた年代物のテーブルが置かれていて、壁には古臭いテレビと古臭い掛軸が掛けられていた。
部屋の奥は障子で閉じられている。開けてみると、そこは畳3畳を縦に並べた板の間になっていた。両端には小さな箪笥が置かれていて、中はからっぽだ。
一面全体を使用した窓ガラスには、夕焼けの光によって、鬱蒼とした赤と黒のコントラストの世界が広がっていた。
彼には、そこから見える景色が、どうしても喜ばしいものには思えなかった。むしろ気味の悪い感覚すら背筋に走り、そっと障子を閉めた。
なんだろうか、この感覚は。彼はこの旅館に来てから何度目かに分からない、奇妙な感覚に、頭を捻った。
「あら、開けないの?」
「ああ、もう西日が眩しい。目に毒だよ」
肩口から掛けられた声に、彼は振り返らずに答えた。「ふうん、それもそうね、障子越しでも十分明るいわ」と、納得の色がうかがえる返事に、彼は振り返った。
「あら、障子だわ。日本の風景っていったら、これね」
と、同時に、メリーが彼の横をすり抜けて、障子に手を掛けた。「あっ」と彼が静止するよりも早く、メリーはスルスルと障子を開いた。
途端、メリーの全身に夕焼けの明かりが降り注ぐ。パッと火が付いたように明るくなった室内に、メリーの短い悲鳴が上がった。
「んもう、眩しいわね。こんなに眩しいんじゃ、開けるのは無理ね」
日差しから逃れるように顔を手で隠したメリーは、そう呟くと障子を閉めた。途端、室内は元の淡い色合いに戻った。ふう、と安堵のため息をこぼすメリーの肩に、彼は手を置いた。
「なあに?」
くるりと振り返るメリー。そこにきて、彼は初めて自分がメリーの肩に手を置いたことに気づいた。「あ、い、いや、何でもない」。
そう答えると、メリーは首を傾げながら、背伸びをして、そっと彼の首筋にキスをした。
「今はこれだけ。それじゃあね」メリーはそう彼の耳元に囁くと、薄く紅潮した頬に弧を描いて離れた……その後ろ姿を見つめている彼は、愕然とした。
おかしい。直感的に走ったその感覚。久しく使われていなかった能力、『獣の本能』が発動しているのを、自覚する。
同時に、無意識的に使わなければならない程の何かが、今、たった今、起こった事実に、彼は一筋の汗を流した。
「……なあ、メリー、さっき、俺に声を掛けたか?」
「んー……掛けていないわよ」
彼が背負ってきたリュックから、着替えを取り出していたメリーが、そう投げやりに返事をした。「ほら、俺が障子を開けたときだよ」
「声なんて掛けていないわよ。あなたが勝手に開けて、勝手に閉めたんじゃないのよ……ねえ、蓮子?」
荷物を取り出し終えた蓮子が、顔をあげた。
「さあ、私は知らないわよ。荷物取り出していたし……メリーの悲鳴のことじゃないの?」
「……いや、すまん。どうも空耳のようだ」
本当に空耳であったのなら。そう心に思う彼ではあったが、激しく警報を鳴らす獣の本能が、それを許さなかった。
「宿に到着したからって、気が緩み過ぎよ。今日はのんびり休むけど、本番は明日なんだから、しっかりしなさいよ」
熊とか出てきたら、あんたの出番なんだから。そうからからと笑う蓮子とメリーは、彼の様子に気づいた様子も無く、テーブルの上に置かれた茶菓子や緑茶のティーパックを手に取って、お茶の用意していた。
「うおお、それにしても疲れたーー!!」
何時の間に用意したのだろうか。どこからか引っ張り出してきた座布団に腰を下ろした蓮子は、ぱきぱきと全身の骨を鳴らしながら、そう叫んだ。
なんともまあ、男らしい。傍にいるメリーなど「……蓮子、いくらなんでもオジサンだよ、それ。ていうか、どっから座布団出したのよ」と、苦笑していた程だ。
「座布団は押し入れからよ。それに、しかたないじゃないの。それにしてもメリー、あんた、さっきまで打ち上げられたクラゲのような顔色していたのに、もう平気な顔しているわね」
「なんだか、宿について疲れが取れちゃったわ……ていうか、クラゲのような顔ってなによ? 全く想像がつかないんだけど」
そう姦しく騒ぎ始めた二人を見ながら、彼は我知らず、拳を握りしめていることに気づき、そっと指を開いた。ほんのりと、掌には血が滲んでいた。
「それにしても、御嬢さん方は勇気がございますね」
夕食時。最後の膳を運んできた長江が、3人の顔を覗き込むように一瞥すると、そう呟いた。笑顔の中に滲む、僅かな好奇心が、そこには見え隠れしていた。
ナスの浸しに箸を伸ばしていた彼は、「勇気がある、とは?」と、箸を止めて聞き返した。向かいに座る蓮子の肩が、ピクリと動いたのを見た限り、おおよそろくなものではないのだろう。
テーブルには、質素ながらも、なかなかに食欲をそそりそうな品が、いくつも置かれている。山菜の天ぷら、山菜の浸し、イノシシ肉の煮つけに、郷土野菜の漬物。
高級素材というものは無いが、都会では食べられない珍しい品がいくつも並んでいる。
蓮子から聞いた一泊分の料金から、あまり期待はしていなかったのだが、思ったよりも豪勢な嬉しい誤算に、彼らは舌鼓をうっていた。
おまけに「とっておきですよ」と、長江が秘蔵の日本酒をサービスしてくれたとあれば、楽しくないはずがない。
長江が話を切り出したのは、そんな時であった。
「あら、知らなかったのですね。私はてっきり、ご存じのうえかと思っておりましたが……御嬢さん方も人が悪い」
二人の視線が、一人へ向けられる。もちろん、二人と言うのは彼とメリーであり、一人は蓮子である。
話題にあげられた蓮子はというと、聞こえていませんと言外に述べているのか、口笛(と思っているのは蓮子だけで、実際は唇を尖らして息を吹いているだけである)を吹きながら、そっぽを向いていた。
「……蓮子、私が言うのもなんだけど、そういうのは、ちゃんと口笛を吹けるようになってからした方がいいと思うわよ」。なんともまあ、古典的な誤魔化し方である。
もちろん、付き合いの長いメリーが騙されるわけがなく、ぷすう、ぷすう、と口笛もどきを行っている蓮子のほっぺを抓んだ。
「……ええっと、長江さん。とりあえず、勇気がある、というのは、どういう意味なんだい?」
痛い痛いと涙目になっている蓮子を横目に見やりつつ、彼はそう尋ねた。
「ふふふ、そうですね、隠し立てする必要もないでしょうし、お答えいたしましょうか」
蓮子、私が怖がりであることを知ったうえでのコレなのね。無事だった片方の頬に、メリーの手が伸びる。
蓮子の目じりに涙が浮かび始めるが、メリーはそれ以上に涙目である。お酒が入っているせいか、妙に子供っぽい反応だ。
「お客様もお考えになったのではございませんか? こんな辺鄙な場所に、なんで旅館が立っているのかと」
「……思わない、わけではない」
「気を遣わなくて結構ですよ。もともと、趣味でやっているだけで、普段は別の仕事をしていますから。こう見えても、華道の先生なんですよ、わたくし」
ほほほ、と長江は口元に手を当てて笑った。上品な笑い方だ。幸せに年を取った者特有の、品の良さがある。
ピタリと、長江は笑みを止めると、真顔になってあたりの様子を伺った。何かを警戒するように右に左に首を向けるが、彼の目からは、それが演技であることが良く分かった。
同時に、目の前の老女がずいぶんとノリの良い芸達者な女性であることも。
そっと、内緒話をするように、口元に手を当てて長江が身を乗り出してきた。彼も、彼女に倣ってそっと耳を近づけた。
「ここはね、お客様。“出る”んですよ」
「……出る?」
なんとなく続きを予感しながら、彼は長江に向き直って聞き返す。長江は、楽しくて仕方がないと言わんばかりに、怏々(彼の目には、そうとしか見えなかった。実に趣味が悪い)に頷いた。
「『現世境旅館』。聞き慣れない名前だと思いませんか?」
「なにか、由来があると?」
長江は頷いた。
「読んで字のごとく、この旅館は、『現世』の『境』に位置する旅館という意味なんですよ。別の世界と、この世界の間に位置する境界線。
この旅館は、そういう場所に建っております。だから、ときおりこの世ならざる不可思議な事態が姿を見せるときがございまして……お客様も、既に体感なさったのではございませんか?」
彼の脳裏に、あの時の声がよみがえる。思い返してみれば、あの声は女性ではあったが、聞き覚えのない声だった。蓮子のものでも、メリーのものでもない。存在しない、第三者の声だ。
あのとき、彼は一瞬だけ、『妖怪』の存在を疑った。遠い昔、この地上から姿を消した隣人たちが、悪戯をしたのかと、どこか期待すらした。
だが、妖怪特有の気配(昔の僧は、その気配が妖気の正体だと言っていた)は無く、メリーと蓮子を除くと、生物の気配は感じなかった。
念のため、彼が持てる限りの精神力を使って周囲の様子を探ったが、それでも不審な気配の痕跡すら無かった。
「別の世界……それは、死者の世界ということですか?」
自ら問いかけて、彼は苦笑を零しかけた。馬鹿げている。死者の世界など、あるわけがない。
ありえない。そんなこと、ありえないのである。妖怪も、人間も、そこだけは同じ。生きとし生けるもの、全てに共通すること。
諦観すらしてしまう程の差がある二つの存在が、唯一共通している部分。それが、『死』である。
そして、死者は蘇らない。かつて、この地上の頂点に君臨していた鬼たちですら、死ねばそれまでだったのだ。
呼吸を止めて、鼓動を止めて、冷たくなっていく。雨風にさらされ、いずれは腐臭を放ち、蛆が湧いて、元の形すら分からなくなる。
そして最後は自然に分解され、自然に帰る。それが摂理なのだ。それが、この世の理なのだ。
彼の長い人生の中で、一度として死した者と会話した覚えも、出会ったことも無い。それが当然なのだ。死者は、何も語らない。語れないのだ。
「さあ、それは私にも分かりません」
彼の問いに、長江は首を横に振る。「けれども……」と続けた。
「この旅館に泊まる人は様々でございます。お客様のように、別の世界を『死の世界』であると思い、当旅館を訪ねてくる方もおります。
伴侶を無くした人、家族を亡くした人、恋人を無くした人、事情は異なりますが、いずれも失った人物にもう一度出会う為、この地を訪ねてきます。」
「別の世界を『異世界』だと考えるお客様もおりましたし、『未来や過去』という人もおりました。中には、この地は外宇宙に繋がるワームホール? とかの入口だ、と騒いだお客様もおりました。」
「……その人たちは、どうなったんだ?」
ふふふ、長江の笑みが深まる。
「人それぞれですよ。満面の笑みで帰られる人。肩透かしを食らったのか不満げな面持ちで帰る人。涙を流して帰る人……人それぞれ、共通していることなど、何一つございません」
「……そうか」
「私が言えることは、ただ一つ。『お客様の望む世界』が広がっていますよう、願っております、ということです。お客様が何を思い悩んでいるのかは存じませんが、この地で何か答えが出るといいですね」
ああ、喉が渇きました。わたくしも、一杯いただきますね。そう、長江が言うと同時に、コップに酒を注いで、一口、二口喉を鳴らして飲み始めた。
……望む、世界。
それが何なのか、彼自身、分からなかった。何を望んでいるのか、何を願っているのか、自分のことなのに、まるで答えが見出せない。
不穏を振り払うように酒を飲み干すが、いっこうに晴れる気配は無かった。
「あらあら、お連れさんはすっかり眠られてしまいましたね」
顔色一つ変えない長江が、視線を彼から外して笑う。その言葉に我に返った彼が、長江の視線を追うと、そこには箸を持ったまま寝息を立てている二人が居た。
どちらもほんのりと頬を赤く染めている。軽く二人の肩を揺する。だが、二人の反応は鈍く、強く揺すると、ようやく薄く瞼を開く程度で、すぐに瞼を閉じてしまった。
「結構、飲んでおられたようですね。よっぽど疲れていたのでしょう……最近の子は、ほとんど歩かないと言いますし、彼女たちには少し重労働だったのかもしれませんね」
その分、足腰が細くて、とても綺麗な体型なんですけど。そう長江は苦笑すると、割烹着についているポケットから、粉薬が入った透明の袋を取り出した。
「これを飲ませておけば、翌朝二日酔いに悩まされることはありません。それと、既にご入浴を済まされたようですが、決して入浴はさせないようにしてくださいね。
わたくしには、彼女たちを湯船から担ぎ出せるような力はございませんから」
なんともまあ、用意周到というか、気が効くと言うか。何から何まで至れり尽くせりの御もてなしに、彼は頭を掻いた。
「いやあ、すみません。何から何まで……」
受け取った薬と、メリーと蓮子を交互に見つめる。出来ることなら、本人に手渡して自力で飲んでもらいたいものだが、先ほどの反応を見る限り、それは難しいだろう。
軽く、二人の頬を叩く。メリーは辛うじて反応が返ってくるが、蓮子はほとんど返ってこない。少し強めに頬を抓ると、ようやく眉根をしかめた。
辛うじて、完全に寝入ってはいないようだが、それも時間の問題。ならば、どうするか……彼が飲ませるしかないだろう。
一口分の水が入ったコップに粉薬を溶かす。察した長江が「私がやりますから、お客様は御嬢さん方を抱き起してください」と促されたので、彼はお言葉に甘えて、近くにいるメリーの方から抱き起した。
「ほら、メリー、薬だ。飲まんと明日が大変だぞ」
ぱしぱしと頬を叩く。お酒とは別の要因で彼女の頬が赤くなった頃、ようやくメリーはゆっくりと瞼を開いた。
「ふぇ……あれぇ?」
「よし、目を開いたな。眠る前にこれを飲め」
長江から受け取った薬入りのコップを、メリーの口元に持っていく。コップの縁を、瑞々しく張りつめている唇にくっ付ける。
臭いで嫌がるかな、とも思ったが、どうやら鼻と頭がバカになっているようで、メリーは気づいた様子も無く、コップを両手で持った。
「……なぁに、これぇ……」
「いいから飲め。とっても体にいいものだから」
「……そぉなのぉ……飲むぅぅ……」
今の彼女はまるで力加減が出来ない為、迂闊に任せれば零してしまう。そうならないよう、決してコップから手を放さないように気を付ける。
ゆっくりと、薬液が傾いていき、柔らかな唇の間に吸い込まれていった。
こくり、こくり、メリーの喉が鳴る。咳き込まないように、ゆっくり、ゆっくり、最後の一滴まで飲み干させる。
こくん、と、最後の一滴まで飲み干したのを確認してから、メリーの手からコップを取り上げる。
途端、蕩けていたメリーの表情に、苦悶の色が浮かんだ。瞬間、彼の全身が硬直した。ぷるん、と水分に煌めく唇が、小さく開いた。
「にがぁい……なぁに、これぇ……」
「……体にいい水だよ。ほら、これで口直ししろ」
まさか!? と、一瞬身構えたが、どうやら徒労のようだ。安堵のため息を吐きつつ、水滴が浮かぶコップを手に取って、臭いを確認。
……よし、無臭だ。お酒でないことを確認してから、メリーの口元に再度持っていくと、先ほどよりもしっかり、音を鳴らしてごくごくと飲み干していった。
「……これはぁ?」
「体に大切な水分だよ。それじゃあ、お休み」
抱き上げた際に感じるメリーの軽さ(思えば、しっかり抱き上げるのはこれが初めてだ)に驚きつつ、事前に並べて置いた布団の一つに寝かせると、すぐさま瞼を閉じた。
「ちゅうしてぇ」と愚図り出したので軽く唇にキスをすると、笑みを浮かべて「お休みぃ」と言った後、寝息を立て始めた。
……天使のような寝顔とは、彼女のことを言うのだろう。すました彼女は年相応の美女だが、今の彼女はあどけない無垢な少女に見えた。とても、同じ人間とは思えない変わりようだ。
ふう、とため息が漏れる。とはいえ、酔っ払いの相手は面倒なことだ。長江が用意してくれた薬液と、今にも眠りそうな蓮子を交互に見つめつつ、今度は深いため息が零れた。
傍で、「これも甲斐性ですよ」と楽しそうにしている老女の笑い声を聞き流しつつ、彼は蓮子の身体を抱き起した。
香水の匂いと、かすかな酒の臭い。女性特有の体臭と、男性特有の体臭。湿り気を帯びた夜の風が、ふわりと室内を流れる。布団を蹴飛ばして寝ている蓮子の前髪を、ゆるゆると梳かした。
賑やかだった室内も、今ではすっかり鳴りを潜め、ただただ夜の静寂が姿を見せている。敷布団に追いやられるように、部屋の隅にまとめられた荷物が、物言わぬ存在感を生み出していた。
……ここは?
フッと彼の目が覚めた。同時に、脳裏に渦巻いていた眠気という霧が、瞬く間に晴れていく。気づいたとき、彼ははっきりと目を見開いていた。
気味が悪い。いっそ、気持ち悪いと感じてしまうぐらいの、目覚めの良さだ。欠伸すらでてこない。
こちり、こちり、アナログ時計の秒針が、規則正しく鳴っている。耳を澄ませば、蓮子とメリーの寝息が聞こえてきた。見れば、開け放たれた障子の向こうから、月の光が静かに注がれていた。
といっても、たかが月明かり程度である。常人よりも優れた動体視力と、暗闇に慣れた状態だからこそ視認できるほどの明るさだ。
わずかな輪郭の違いから、辛うじてメリーと蓮子の判別が出来るぐらいで、結局はほとんど見えていないのと同じである。
真っ暗闇な視界。しばらく、呆けてそれを見つめる。そして、ようやく自分が現世境旅館にて泊まっているということ、ここがその一室であることを思い出した彼は、安堵のため息を吐いた……。
同時に、彼の背筋に悪寒が走った。
(俺……障子なんて開けていないぞ!)
あの後、結局彼が寝入るまで、この部屋に入ったものは一人もいない。長江は早々に席を外したし、わざわざ寝入っている客の部屋に従業員が入るだろうか……否、入るわけがない。
何か、何かが起きている。そう判断した彼は、起き上がろう四肢に力を込めて……愕然とした。慌てて首を起こそうとするが、それも無理であった
力が、入らないのである。いや、正確に言えば、力そのものは入っている。
だが、それを動かしたい方向に動かせない。必要な部分に力が行き届かない。まるで、神経の一部が断線したかのような違和感だ。
焦りが滲み始めた心を、必死で押さえつけながら、彼は呼吸を整える。はるか昔に培った経験則。焦りは全ての大敵である。幸いにも、呼吸はいつも通りにできるのが分かったのは、僥倖だろう。
すう、はあ、すう、はあ。寝息を立てている二人をしり目に、彼は深呼吸をして心を落ち着かせる。大丈夫、平気だ。この程度の怪異、かつては日常茶飯事だったではないか。
(金縛り……というやつなのか、これが?)
妖術……というより、術などの類ではないことは、すぐに気づけた。それらしい力の波動は感じられないし、なによりこの時代にはそういった失われた技術を体得している者など、ごく少数なのだ。
ふう、と最後に大きく息を吐く。煩わしい鼓動も、すっかり静まっている。
なにか、この事象の原因となるものはないだろうか。
そう思った彼が、視線だけでもと周囲に視線をやって……息を呑んだ。
(……女?)
彼の視線の先。ちょうど、開け放たれた障子の向こうにある、板の間。そこで、彼に背を向けるようにして佇んでいる、女の姿があった。背はそれほど高くはない。せいぜい、平均程度だ。
彼が女だと判断出来たのは、他でもない。女の後ろ姿が、暗闇の中にも関わらず、はっきりと浮かんで見えていたということと、それによって見えた後ろ姿が、女性的であったからだ。
帽子を被っているせいで、顔はおろか髪の毛すら拝見することは出来ない。だが、衣服越しに感じられる臀部が、程よく衣服を押し上げているのだけは分かる。
けれども、その明るさは何と説明したらいいだろう。女そのものが輝きを放っているわけでは決してない。それならば、女の周囲がわずかながらも、見えるようになっているはずだ。
だが、眼前で佇む女には、それがない。着物と洋服の中間のような衣服に身を包んだその女性だけを、まるで切り取ったかのように、暗闇の中で浮かび上がっていた。
何者だ、おまえは?
言葉を出すことが出来ないので、心の中だけで念じる。今、攻撃されれば、手も足も出せないまま、殺されるだろう。だが、最悪の場合、刺し違えてでもしなければ、二人が危ない。
そういった意味でも覚悟を決めた彼が、黙って(それしか出来ない)女の後ろ姿を見つめる……と。
くるりと、女が振り返った。その動作に、特に警戒の色は感じられない。ちょっと呼ばれたから振り返りました……そのような印象を覚えてしまう程、意外な、無防備さだ。
(え?)
だが、なにより以外だったのは、そこではない。何よりも意外だったのは、女の素顔が、ほんわかとした雰囲気を醸し出す、年若い美女であったことだ。
彼としては、もっと、こう、なんというか、ドロドロとした表情をしているかと思っていたのだが……。
そんな彼の驚愕に気づいた様子も無く、女の視線が彼と重なる。
一瞬の後、女は首を傾げた後(その際、さらりと零れた桃色の前髪が、なおさらこの場の雰囲気にそぐわなかった)、「あらあら」とにこやかに笑った。可愛らしい、声である。
ふわりと、女の身体が浮き上がる。重力を感じさせないその動きは、ゆるやかに空中を移動して、彼の目の前に浮かんで、停止した。
ジッと、女の瞳が彼を見つめる。先ほどまでとは違った緊張感を、彼が覚え始めたとき、もう一度女はにこりと笑った。
「いやん、覗き見は駄目よぅ。幽々子ちゃん、恥ずかしいわぁ」
そう話した彼女は、恥ずかしそうに自らの頬に手を当てた。
……その瞬間、彼は別の意味で体から力が抜けるのを、堪えることが出来なかった。
久しぶりに、100%エロ無しで行きました。おかげで反動が強くて強くて……シリアスとはいったい……うごごごご
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。
ついったーで読了宣言!
― お薦めレビューを書く ―
※は必須項目です。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。