お買いもの
メリーと蓮子は学業優秀の生徒である。単位もそうそうと取り終えているので、一週間やそこら休んだところで何の支障もない。二人の休講に合わせる形で、仕事先に六日程休むことを伝えた彼は、さっそく荷物の用意を始めた。
行き先は、彼の住むマンションの近くにあるデパートである。幸いにも天気は良く、雨雲らしきものは一切見当たらない。大した荷物になるわけでもないが、雨の日に買い物をするのが億劫なのは、彼以外にも当てはまることだろう。
今日はメリーと一緒ではない。最初は一緒に行くはずであったが、蓮子が「女の買い物よ」という言葉を残してメリーを引きずって行ったので、本日の買い物は彼一人だ。まあ、買い物と言っても、下着やら何やら、それぐらいしかないので、わざわざメリーと一緒に行く必要もないのだが。
というより、彼としては蓮子がメリーを連れて行ってくれたことに感謝したりしている。嫌というわけではないのだが、なぜか彼の下着を、自分のセンスに合わせ、彼の承諾を得ずに選んで購入しようとするので、メリーと買い物に行くのは大変なのだ。
これで蓮子まで同行したら、疲労は倍の倍だ。やれ荷物を持て、やれ服の感想を聞かせろ、やれ半分出せ、など、数え出したら切りが無い。これで一般的な女子が口にしたなら、彼とてさっさと張り手でもして距離を置くのだが、相手はメリーの親友である。
しかも、蓮子はいわゆる美人であり、なんというか甘え上手だ。そのせいか、無理難題を言われても、なんとなく、「今回だけは許してやろう」とか考えてしまったのは、一度や二度ではない。
それもこれも、蓮子の放つ雰囲気が、かつて仕えていた主を彷彿とさせていたからだ。懐かしさや哀愁も相まって、どうしても甘くなってしまうのは彼とて重々承知の上。それでもついつい手を貸したりしてしまう。そのおかげで、たびたびメリーから睨まれてしまうのは、彼としてはもはや笑うしかない。
住宅地の合間を抜けるようにして歩く。大通りに出て向かうよりも、この方が早く到着する。ここら一帯に住んでいる人しか知らない、近道だ。前までは直線で行ける道が他にあったが、今は通り道にマンションが立てられてしまったせいで、遠回りするしかない。
青臭い緑の臭いが鼻につく。これが何の臭いなのか、彼は知らない。ただ、ときどきどこからともなく漂ってくるこの臭いは、彼は嫌いではなかった。
少しだけ大きな通りに出る。ちょうど歩行信号が点滅し始めたところだった。走って渡ることも考えたが、面倒なのでやめた。別に急いでいるわけじゃないし、目的のものはそうそう無くなるものでもないから。
赤信号が点灯する。動き出した自動車に、足を止めると、一つ、欠伸が出た。陽気な日差しが全身に降り注ぐ。ぽかぽかとした気持ちよさに、彼は目を細めた。心地よい温かさだ。昼寝をしたら、さぞ気持ちよく眠れるだろうな、と彼は思ったが、買い物しなかったら二人に怒られそうな気がしたので、我慢した。
パンツぐらい、持っているやつでいいんじゃないかな。そんな考えは、二人には通用しない。この機会だから、全部新調しろと尻を蹴飛ばされてしまったので、買わないという選択肢を選ぶと後が面倒だ。
メリーは頬を膨らませるぐらいだが、蓮子は「じゃあ、私のパンツでも履いていなさい」とか平気で言うから油断ならない。しかも強制的に履かせた上に「美人女子大生の脱ぎたて生パンツ、一枚15000円になります」と、スリ師顔負けの腕前で財布から万札を二枚抜き取るのだから、彼としても買い物は済ませておきたい。
ちなみに、余剰分が返ってきたことは一度もない。遠まわしに催促したこともあったが、そういうときの蓮子の耳は、殺意を抱くぐらい遠くなる。
歩行信号が青になる。とぼけたアナウンスが、彼の意識を我に返す。彼以外にも待っていた歩行者たちが、我先にと横断歩道を渡っていく。
彼も続いて渡ろうと……した瞬間、背中に衝撃が走った。吹っ飛ぶ程でもないが、たたらを踏む程度に強いその衝撃に、彼は振り返った。
「あ、あの」
見れば、そこには制服に身を包んだ少女がいた。ぶつかったことに驚いているのか、それとも彼の風貌に驚いているのか、少女の頬は強張っていた。後者はよくあるので、今更どうこう思うところでもない。今の時代、鍛え抜かれた彼の肉体は、それだけで奇異の目を向けられてしまう。
気にするな。そんな意味を込めて、手を振って笑顔を浮かべる。何時の時代も、温和な笑顔は相手の警戒心を解く。近所の子供連中に鍛えられた笑顔は、少女の緊張を解きほぐすには十分だった。
目に見えて、少女の肩が下がる。安心したのだろう。少女は笑顔を浮かべて、頭を下げた。少女の背中に見えるランドセルは、彼の知っているものとは少し品が違う。制服を着ているということは、私立かそれなりに名のある学校に通っているのだろうか。
綺麗な少女だ、と彼は思った。学校では、さぞ男連中が放ってはおかないであろうな、とも考えたが、同世代が小学生なら、色気より食い気かな、と思い直した。
その年で染めているのか、あるいは地毛なのか。少女の髪は森林を思わせるような、透明感のある翠色をしていた。街中で見かければ、眉をしかめてしまいそうだが、不思議と眼前の少女には似合っていた。背丈や雰囲気からして大人びているかな、と彼は思ったが、口には出さなかった。
「ごめんなさい。私、急いでいるんで」
申し訳なさそうに少女はもう一度頭を下げると、駆け足で彼の横を駆け抜けていった。ふわりとゆらぐスカートに、少女の元気が伝わってくる。つられて踊るランドセルが、がしゃがしゃと音を立てていた。
通りの向こうへ小さくなっていく少女の姿が、彼の目には強く印象強く残った。
「若いって、いいなあ」
ポツリと呟いたその言葉は、鳴らされたクラクションにかき消された。
平日の昼間だというのに、デパートには人がごった返しになっていた。右を見ても人、左を見ても人。楽しそうに、中にはつまらなさそうに商品を物色している彼ら、彼女らに、彼は頭を振った。
「とりあえず、着替えかな」と呟きつつ、入口に設置された案内板を確認する。メンズ下着と書かれた場所は、3Fの、エスカレーター上がってすぐの場所だった。
エレベータに乗ろうかとも思ったが、十数人も順番待ちをしているエレベータ入口を見て、やめた。遠回りになるが、エスカレーターに乗ることにした。
2F、3F、と上ると、視界いっぱいに陳列された下着が映った。商品をよりよく見せる為か、他の階よりも比較的明るい。彼は、それらに視線を集中させないように、意識的に遠くを見つめた。
展示されている下着は全て、女性用だったからだ。ちらほらと下着の間から見え隠れする従業員やら、他の客の姿に、彼は舌打ちしたくなった。
面倒だな、と思いつつ、彼は何食わぬ顔で下着の間を通り抜けた。下手に意識すれば当然のことだが、彼の見た目が見た目である。いくらそんな趣味が無いとはいえ、屈強な男が一人女性用の下着売り場をウロウロしているのは具合が悪い。現に、何人かの女性が、彼の登場にわずかながら不信感を向けていた。
何度も言うが、彼にはそんな気は微塵もない。たとえそれが女子高生のものだろうが、女子中学生のものだろうが、女子小学生だろうが、彼にとっては全て等価値だ。まだカップラーメン貰った方が嬉しい。
顔立ちそのものは決して悪くは無いのだが、いかんせん、第一印象が悪い……といっても、別段ヤクザに見えるというわけではない。ただ、こいつ何か格闘技をやっているな、と、相手にいらない警戒心を抱かせてしまうだけであるが、それが毎度騒動の元になってしまうのは、彼自身、悩みの種であったりする。
女性用下着売り場を通り抜けて、レディースファッション、メンズファッションと書かれたブースを順番に通り過ぎ、お目当てのメンズ下着売り場に到着する。
とくにこだわりがあるわけでもないので、適当な下着を選んで買い物カゴに入れる。次いで、シャツと靴下も何枚か放り込む。これから暑くなっていくので、着替えは必須になる。まだ暑くない内に買っておかないと、商品が高くなってしまうので、今を逃したら勿体ない。
会計を済ませて売り場を出る。エレベータ待機所に向かうと、さっきと変わらず十数人ぐらいがすでに順番待ちをしていた。ここのエレベータは、建物の大きさから考えると、明らかに小さい。しかも一つしかないので、一回乗り過ごすと次に来るのに5分近くかかる。おまけにそう都合よく乗れるかどうかも分からない。
またエスカレーターに乗って行こうか。
その考えは順番待ちの何人かも思いついているのだろう。落ち着きなく時計と『7』と表示されているランプを交互に確認していた。一分程、彼より先にエレベータ待ちをしている人たちだ。このまま待つのと、エスカレーターへ向かう労力を天秤に掛けているのだろう。彼の腰ぐらいの子供たちは、走って彼の横を駆け抜けていった。
彼は踵をひるがえした。次に購入予定の品物は、5Fの家電販売店だ。エレベータを下りて目の前にある為、今すぐエレベータに乗れればそっちの方が早いのだが、そう上手くはいかない。
不躾な視線にさらされつつも、エスカレーターで向かった方が早いので、彼はそっちを選んだ。時間は余っているが、無駄に待たされるのは嫌なのである。
「あ、さっきのお兄さん!」
背後から呼ばれたその声に、彼は一瞬だけ肩を跳ねさせた。年若い、女の子の声だ。メリーとも蓮子とも違うその声に、すぐに自分ではないことに思い至り、再び止まっていた足を進めた。場所が場所である。下手に立ち止まっていると、店員から睨まれかねない。
「ちょっと待って、お兄さんで合っていますから」
しかし、彼の思いとは裏腹に、服の裾を引っ張られる感触に、彼はつんのめった。
前にもこんなことがあったなあ、と思いつつも、もしやと思って振り返ると、そこには脳裏に思い浮かべていた通りの少女がいた。記憶の中、そのままの姿で、少女はこちらを見上げている。違いと言えば、ランドセルを背負っていないということぐらいか。
彼がようやく足を止めてくれたことが嬉しいのか、少女は軽やかな笑みを浮かべた。
「こんにちは、お兄さん」
「ああ、こんにちは」
断っておくが、目の前の少女とは、さっきが初対面である。ついでに言うならば、彼はお世辞にも子供に好かれる外見ではない。おまけに、場所が場所である。普通なら無視されている。というより、記憶から消去されていてもおかしくない。
周囲の視線が、何とも言えない色を帯びてきていることを察する。とりあえず、適当に話をしてから切り上げるか、と彼は眼下の少女を見て、決めた。
「お兄さん、お買い物ですか?」
元気いっぱい。少女の様子は、その一言が実に似合う。何気ない質問なのに、不思議と元気を分け与えられたような気がする。
少女の質問に、彼は右手のビニール袋を見せて、買い物をしてきたことを伝える。
「もう、買い物は終わりですか?」
「いや、まだ色々あるよ。とりあえず、軽そうなやつから適当に買っただけ」
彼の言葉に、少女は俯く。今のうちに離れようかと悩む彼を他所に、もじもじと指先を合わせていた少女が、顔を上げた。
「ちょっと、ついてきてもらってもいいですか?」
少女の懇願に、彼は首を傾げながらも、頷く。どことなく恥ずかしそうに頬を染めた少女は、空いている彼の手を握ると、引っ張った。
引っ張った、といっても、少女の力は弱いので、痛みは無い。抱き着くように腕に捕まっている少女に、促されるがまま下着売り場を右に、左に曲がっていく。やましい気持ちがあるわけではないが、どこを見ても女性の下着しかないというのは、目のやりどころに困る。
なので、少女の旋毛を見つめてやり過ごしていると、少女の足が止まった。顔を上げたそこには、『ティーンショーツ』と印字されたプレートが張られていた。プレートの下には様々な模様、キャラクターが印刷されたパンツが、所狭しに、ワゴン上に積まれていた。
「…………」
言葉に出来ないというのは、こういうのを言うのだろうか。なんだか面倒なことになってきていることを予感した彼は、恐る恐る少女に視線を向ける。
「あの、一緒に探してほしいんです」
何を、とは聞かない。ここまで来たのだから、何を探してほしいかぐらいは想像がつく。面倒なので断りたいが、振り返った少女の瞳には、懇願の色が浮かんでいた。そういう瞳が、彼は苦手だ。
「……うん、まあ、とりあえず、お母さんかお父さんは、どうした?」
「今日は、一緒じゃありません」
少女の言葉に、「それは分かっていたよ」と苦笑する。「お父さんもお母さんも、お仕事が忙しくて、一緒に買い物してくれないから」と聞きたくなかったことまで教えてくれた。「学校の規則で、白い木綿のパンツ以外は駄目なの。だから、お願いしても可愛いのを買ってきてくれないから」とまでいらない情報を口にされたおかげで、ますます断りにくい。微妙に水分を補充し始めた少女の瞳を見て、彼は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「今日が一番安く買える日なんです」と呟く少女の言葉にプレートを確認すると、確かに『均一セール、本日かぎりティーンズ下着表示価格より50パーセントOFF』と書かれていた。なるほど、2枚買えば、一着分の代金が浮く。少女が今日に固執するのも理解できる。
目の前に積まれたパンツの山を見つめる。少女が助力を求めた気持ちがよく分かる。山のように積まれた中から、特定の下着を取り出すのは時間が掛かりそうだ。おまけに下手に山をくずせば、床に雪崩を起こしそうで、手を出すのに躊躇してしまう。
少女の動機は分かった。けれども、どうしてほぼ初対面の彼に助力を求めたのか、いまいち彼には分からなかった。
「ああ、うん、事情は分かったけど、どうして俺なのか、教えてくれないか?」
「お兄さん、優しそうだったから」
それだけ? そんな気持ちが視線に滲んでいたのだろう。少女は手を振って、慌てた。
「それに、お兄さん、とっても力がありそうだし」
「まあ、力はあるよ」
「さっきも、嫌な顔しなかったし」
いや、それは見せなかっただけ、と喉元まで出かかった言葉を、寸でのところで抑える。
「なんていうか、お兄さんだったら、いいかなって思ったから」
だから、お願い。手を引っ張る少女の答えに、彼は思った。こいつはいわゆる天然だと。
思った通り、少女は色々と考えが足りなかった。知恵遅れというわけでも、バカというわけでもない。ただ、努力が空回りしており、当初は高みの見物をしようかと思っていた彼も、結局少女にあれこれ指示を飛ばすことになってしまい、思っていた以上に時間が掛かってしまった。
時間が掛かった理由として、まず、少女の探し方に問題があった。「カエルとヘビの可愛いやつが欲しい」という少女の要望に、まずは縞模様など、色柄を除外してはどうかと助言し、そこから始めることにした。何というほどでもない、些細な助言に、「さすがはお兄さん!」と尊敬の目を向ける少女を見て、嫌な予感を覚えたのが始まりだった。
「カエルはありそうだけど、ヘビはないかも」とあらかじめ予防線を張ろうとするも、「きっとあります」と一蹴されてしまった。なので、少女の横に並んで目線だけで探すことにした。
「あんまり手伝うことないんじゃないかな」と思って少女を観察していると、自分の思い違いがすぐに分かった。少女は、効率というものをまるで考えていなかったのだ。
なぜか、奥の埋もれた部分から探索を始めたのである。しかも、一度取り出して確認したものを、なぜかまた元の場所に戻すという、意味不明なことをしているのである。5分という短い時間のあいだに、少女が4回も同じパンツを確認しているのを見た彼は、ため息を吐いて、先述の助言を述べた。
それすら下着の山に手を突っ込んで、取りにくいところから探索を始めようとするので、「俺は目的以外のパンツを選別するから、お前はキャラクターものをチェックしろ」と指示をしてから、探索に参加した。
いちいち手に取り、広げて確認している少女を他所に、彼は一人黙々とパンツを選別していく。柄物、色物、模様無し、手に触れるものから片っ端にカゴに放っていく。
幸いにもここの置かれているパンツはいわゆる売れ残り商品らしく、ときおり通りがかる女の子たちは、視線をくれるだけで手に取ろうとはしなかった。屈強な男がパンツを選別している横で、はたしてどれだけの女の子がそこに手をのばしてくれるのだろうかと思うと、彼は胸が苦しくて仕方が無かった。時折混じる、何とも言えない視線が涙腺を刺激する。
「俺、こんなところで何やっているんだろ」とポツリと呟く。「何って、私のパンツを選んでくれているんじゃないんですか?」と少女に返された。
そういう意味じゃない。そんな思いで少女を見つめると、少女も見返してきた。ハッと、少女の目が大きく広がる。次いで、少女の頬が紅潮する。ちなみに、少女の手は止まっている。その手に握られているのは、ピンクと白の縞模様のパンツだ。
何を勘違いしたのか、少女はそのパンツを両手で握りしめると、彼へと差し出した。差し出された彼は、少女の行動に意味が見いだせず、差し出されたパンツをジッと見つめた。
「欲しいのなら、お金さえ払って貰えたら一緒に買いますよ」
彼は黙って、少女の頭に拳骨を落とした。「お父さんにも打たれたことないのに!」と涙目になっている少女を一瞥し、パンツの選別を続ける。
少しずつワゴンに積まれた山が低くなっていく。買い物かご7個分ほど選別したあたりで、彼は少女に告げた。
「もうそろそろワゴンの中身が少なくなってきているが、注文に合いそうなパンツは見つかったのか?」
「はい、なんとか4着見つかりました」
「ほら」、と少女はそれを彼に見せた。カエル? ヘビ? と疑問符が付きそうなキャラクターがプリントされたそれを、少女は大切にカゴに分けていた。
何が少女をそこまで引きつけるのかは分からないが、目的のものが見つかったのなら重畳だ。まだ探索を続けるのかを少女に確認してから、カゴに入れたパンツをワゴンへ戻す。戻すのは簡単だ。ただカゴをひっくり返すだけでいいのだから。
あっという間にエベレストに戻った布の山(パンツ製)を前に、彼はため息を吐いた。とにかく、少女の目的は達成した。レジへと向かった少女の後を追うと、ちょうど支払いを行っている最中であった。
「ありがとうございます」そう、少女は店員に告げて、支払いを終えた少女が、こちらに駆け寄ってきた。
「本当に、今日はありがとうございました」
深々と頭を下げる少女。ご苦労様、と労うと「ご苦労様です」と返された。直後、首を傾げる少女に、彼は苦笑して、少女の頭に手を伸ばした。一瞬だけ驚いた反応を見せるものの、嫌がる様子はなく、されるがままだ。嫌がられるかな、とも思っていたが、特にそんな様子を見せないので、そのまま頭を撫でる。アホな子だけど躾けが行き届いているし、良いところの育ちなのかもしれない。
「これで、頼み事は終わりか?」
少女の頭から手を離す。少し乱れた髪を手で整えている少女は、彼の言葉に肯定した。
「お兄さんは、これから買い物ですか?」
「そうだよ。電池やら何やら、色々物入りでね」
その言葉に、少女は笑みを浮かべた。嫌な予感を覚える。久しく使用していなかった『獣の本能』が、自動的に発動するのを実感する。発動しても意味がないだろうと彼は自分自身に突っ込みを入れた。
「だったら、今度は私がお兄さんの買い物を手伝います!」
「なんでも仰ってください!」と豪語する少女に、彼は気の遠くなるような思いであった。
デパートの帰り道を、二人で歩く。少女に抱きしめられた左手が温かい。いっこうに離れようとしない少女に苦笑しつつ、彼は右手のビニール袋を握り直した。
あれから、少女に引っ張られるように買い物を済ませ、少女と一緒に食事(もちろん、彼の奢りである)をし、適当にぶらぶらとデパートの中や、ゲームセンターの中を歩き回った。
最初は遠慮を見せていた少女も、いつしか素直に甘えるようになり、笑顔をよく見せてくれた。別段、少女の気を引きたかったわけではないし、さっさと離れようとも思った。だが、少女の家庭事情を顧みて(彼女の口から、さわり程度に教えられた)、少しぐらい我が儘にさせてやろうと思ったのも事実である。
結局、夕方になるまで少女に引きずられるように遊びまわることになってしまった。おかげで、笑顔で抱き着いて来る程度には懐かれたのだが。
清純そうな見た目からは考えられないぐらい、少女はとても活発で、また負けず嫌いであったのは意外であった。エアホッケーに熱中するあまり、何度もスカートが捲り上がるのを、彼は繰り返し注意した。それでもパンツが露わになるのにも気づかないぐらい、少女は彼との勝負に熱中したのだから、よっぽど娯楽に飢えていたのだろう。
大通りの交差点に差し掛かる。彼は左に曲がろうとすると、少女の足が止まった。見れば、少女が寂しそうに俯いていた。
「ありがとうございました。今日はとっても楽しかったです」
夕暮れの帰り道は、どこか寂しいものがある。ある意味昼よりも強く感じる太陽の光は、彼と少女の陰を長く映し出していた。
「ここを右に曲がらないといけませんので」と彼の腕から身を離した少女は、深々と頭を下げた。
「そんなに気にするなよ。こっちも楽しかったし、若さを分け与えられた気分だったよ」
「お兄さん、まだ全然若いじゃないですか」
「俺はこう見えて、恐竜よりも前から生きているんだぜ」
彼の言葉に、少女はけらけらと笑った。本当なのにな、と彼の呟きは、少女には届かなかった。
ふと、彼は別れの挨拶を言おうとして、少女の名前を聞いていないことに気づいた。思い返せば、デパートやゲームセンターでも、おい、お前、というような感じで、名前を言っていなかったことに、今更ながら思い至った。
俺もぼけたのかな。そう苦笑しつつ、彼は少女に自らの名前を告げた。頭に刻み込むように、何度も口に出して呟く少女に、彼は笑みを浮かべた。
「それで、お前の名前は?」
「え、あ、わ、私は、東風谷早苗といいます。東の風の谷と書いて、こちや、です」
「ふ~ん、珍しい苗字だな」
「よく言われます。酷いんですよ、クラスの男連中、私の事を、とーふーって呼ぶんですから」
「私は豆腐の親戚ではありません!」と憤慨する早苗の様子に、彼は思わず笑い声をあげた。おそらく、クラスの連中はただからかっているわけではあるまい。美少女の範疇の中でも、上位に位置する美貌の彼女に、好意混じりのちょっかいを掛けているだけなのだろう。
ちょっと天然が入っているところがあるけど、それも魅力に思えるくらいなのだから、将来は男連中が放ってはおかないだろうな。
ひとしきり笑った後、まだ眉をしかめている早苗に手を振った。
「それじゃあ、俺はここらで失礼するよ」
「え、あ、もう?」
背を向けた彼に、早苗は慌てて声をかける。こんなに楽しかったのは、本当に久しぶりなのだ。クラスの男は意地悪ばかりしてくるし、最近は女子連中もあまり相手にしてくれないし、家では言わずもがな、だ。
女子連中が早苗を避ける理由を、彼女は知らない。何か気に障ることをしたのかな、と早苗は考えているが、事実は違う。
美少女の早苗と並ぶと、どうしても周囲の目は早苗と比べられてしまう。それが嫌な女子連中は、自然と早苗を避けるようになっているというのが、真相である。
そんなことなど知る由もない早苗にとって、ここ最近は本当に寂しい毎日を送っていたのである。例え今日一日の付き合いだったとはいえ、ここまで優しく相手にされたのは久しぶりだ。だから、さっさと背を向けてしまった彼に、怒り三分の一、寂しさ三分の一、悲しさ三分の一という、複雑な思いで声をかけてしまった。
彼が振り返る。西日のせいで、彼の表情をうかがい知ることは出来ない。だが、鍛えた彼の背中は大きく、父親よりもずっと逞しい。なにげないその動作に、早苗はどきりと胸を高鳴らせた。クラスの男連中や父親とは違う雰囲気を放つ彼に、早苗は初めて目の前の彼を、『大人の男性』として意識した。
「まだ何かあるのか?」
そう彼に問われれば、特に用が無い早苗は沈黙せざるを得ない。
早苗にとって、彼は我が儘を聞いてもらえて、甘えられる貴重な相手。別段、両親以外にも甘えられる相手はいるが、その人はどう頑張っても彼のように頭を撫でることはできないし、拳骨も出来ない。
両親に至っては、早苗よりも彼女の弟に目を向けてばかり。何かあれば、『お姉さんらしくあれ』。弟の我が儘に文句を言えば、『まだ弟は幼いから』。そのせいで、早苗は家ではずっと『良い子』を演じなければならないのである。
甘えられる兄や姉が欲しいと思ったことは一度や二度ではない。背が高くて、顔が良くて、線の細い。アイドルのような理想の兄とは違うけど、それでも早苗には、彼は優しいお兄ちゃんであった。
沈黙を続ける早苗に、彼はため息を吐いた。
「携帯電話、持ってる?」
早苗は首を縦に振ると、スカートのポケットから携帯電話を取り出した。その携帯電話に、「見覚えがあるな」と思わず呟く。
「これ、よくCMでやっていますから」
ほら、と差し出された携帯電話は、確かにCMで見たことがあった。大手の会社が販売している子供向けの携帯電話だ。ネットサービスの一部機能が制限された、キッズ携帯というやつだ。
「赤外線通信は出来る?」
彼の言葉に、早苗の瞳が輝いた。嬉しそうに弧を描く唇から、白い歯が見えた。
「はい、できます!」
「よし。それじゃあ、こっちから送るから、受信してくれ」
彼の指示に、早苗は急いで赤外線通信機能を立ち上げ、受信状態にする。それを彼の携帯電話に近づけると、電子音と共に画面に『通信完了』の文字が表示された。
そのまま携帯電話を操作して、ちゃんと登録されているか確認する。アドレス帳に表示された彼の名前に、早苗は頬を紅潮させた。締まりのない笑顔を浮かべる早苗に、彼は頬を掻きつつも、交差点の向こうを指さした。
「そこの郵便局を右に曲がった先にある、大きな公園は知っているか?」
「はい」
何を言うのだろう。そう早苗の顔には書いてあった。
「もし、遊びに行きたくなったら、待ち合わせはそこの公園だ。電話でもメールでも構わないから、遠慮せず送ってくれ」
「はい」
「ただ、俺にも都合があるから、毎回遊びに行けるってわけじゃないぞ。それと、早苗の携帯プランは、パケット定額なのか?」
「いえ、電話掛け放題です。メールは、月2000円までなら無料です」
「そうか。電話代定額なら、明細書にも定額分しか印字されないし、あんまり咎められることもないだろう。メールは油断すると2000円なんてすぐに超えるから、気を付けろよ」
「はい」
どんどん早苗の笑みが深くなっていく。自身で制御できないぐらい、早苗は有頂天になっていた。
「あんまり溜めこむなよ」
「はい!」
「それじゃあ、俺は帰る。お前も暗くならないうちに帰れよ」
「はい! お兄さんも、また明日!」
「……明日?」と頬を引きつかせる彼をしり目に、早苗は身を翻して夕暮れの中を走って行った。どんどん小さく、黒い点になっていく早苗の後ろ姿を見て、彼は思った。
「若いっていうのも、大変だな」
彼の呟きは、夕暮れの明かり光に溶け、誰にも聞かれることは無かった。
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