幻想郷編:時代の流れは悲しくも
最近、諏訪子と神奈子が密会するようになった。不思議に思い、何の話をしているのか神奈子に尋ねても「女のおしゃべりに口を挟むもんじゃないよ。それとも、そういうのが好きなのかい?」と話を変えられ、あの諏訪子ですら「ごめんね、こればっかりは教えられないんだ」と真面目な顔で断られてしまった。
その密会の回数も、月を追うごとに回数が増え、最近ではひと月に10回程も行われるぐらいになり、もはや公然の秘密のような状態になっていた。
それに合わせて、妙に諏訪子が傍に居着くようになった。以前のような、鼻息荒く擦り寄ってくるようなものではない。擦り寄ってくるのは一緒だが、何か、違う。猫や犬が、寂しがっているときの仕草のような、余裕のない甘え方をするようになった。
それこそ、彼が嫌がらない限り四六時中、常に一緒にいようとする。一度、厠の中にまで入ってきたときは、堪らず苦言を漏らしたりもした。
「ごめんよ」と寂しそうに背を見せる諏訪子が、見た目以上にか弱く見えるのは、情のせいか、それとも女の仕業か。
つい、慰めの意味も込めて「それより、背中を流してくれないか?」と頼んでしまうのも、一度や二度ではない。そのときの諏訪子は、怒られたことも忘れて笑顔を浮かべると、彼を湯室に引っ張って行き、心から楽しそうに彼の頭を洗い、本当に嬉しそうに彼の背中を流した。
「何か心境の変化でもあったのか?」と神奈子に聞いても、「女にはそういう日があるんだ」と、いまいち要領を得ない答えしか返ってこない。その神奈子とて、諏訪子が先に寝入ったときには、不器用ながらも彼に甘えてきたりする。
二人が自分に隠し事をしている。ということに、霧中を歩いているかのような、なんともいえない寂しさを覚えたのは、何時だっただろうか。
夏の夜。まだ夏本番とまではいかない、寝苦しい夜を想像すらさせない涼しい夜。縁側で月見をしていると、在りし日の銀髪を思い出す。
彼女は、今、どこで何をしているだろうか。あの日から幾百年の月日が流れ、幾百人の友に置いて行かれた。苦しみぬいて死んだ者もいれば、安らかに息を引き取った者もいた。
今ではもう、顔すら、声すら、名前すら覚えていない者も大勢いる。それなのに、こうして生き続けている自分に、彼はふと、涙が零れそうになった。
諏訪子付の巫女が用意してくれた清酒を、杯に注いで一時待つ。すぐには飲まない。先日、数年前に引退した巫女の息子が奉納してくれた酒だ。「今年は出来がいいから、是非楽しんでください。お母さんも、諏訪子様や神奈子様、そして、あなた様に飲んでもらうのを、とても楽しみにしておりましたから」と、皺が寄った笑顔を向けてくれた息子の目じりには、涙の跡があった。その顔を見て、あの巫女も、皺くちゃの顔をさらにくちゃくちゃにして、ここを去って行ったっけ、と、杯を見つめながら思う。
酒の味にうるさくなったつもりはないが、用意された酒はいつにも増して美味しく、むなしい。諏訪子と神奈子と晩酌したのは、何時だったか。埃被った記憶を探ってみても、それらは舞い散るように手元に来てくれない。
季節が過ぎ去っていくに合わせて、数えきれない何かが、形を変えて、姿を消して、どこかへ行ってしまうような気さえする。
それに反比例するかのように、彼の周囲に耳障りな雑音が増え始めたのは、何時だったか。行動にはしなくとも、言葉にはしなくとも、彼らの視線には、隠しきれない侮蔑があった。
「……そうだな、どうやら、そういう時が来たのかもな」
月を映した清酒を、一息に飲み干す。揺れる月が唇の中へ消えると、ふう、とため息が漏れた。その工程を、4回程繰り返して、用意された酒を飲み干すと、彼は膝を叩いて立ち上がった。
新しい諏訪子付の巫女は、彼との折り合いが悪い。それは他の神官にも言えることだが、特にその巫女は酷い。口にこそ出さないものの、瞳には、はっきりと拒絶の意思が見える。
諏訪子と神奈子の手前、表向きは彼にも従順な態度を見せるが、やはりどこか距離を感じる。
普段の彼ならば、諏訪子たちのために、あまり関わりを持たないように努める。顔を合わせないようにするが、今回だけは、不審に思う巫女に伝言を頼み、自らは自室にて、二柱を待った。
座布団を三つ用意し、一つは自分が座るため、二つは、二柱のために向かい合うように並べて置く。彼は、一つ、深呼吸をしてから、座布団に腰を下ろして、正座した。横には、いつかこんな日が来た時の為に用意しておいた、金の延べ棒を15本。価値にして、大人一人が20年は遊んで暮らせる金だ。
着ている服も、いつもよりも質素でありながら、身動きの取れやすい旅人服。前の時とは違う。しっかりと、用意は終わっている。
……と、襖の向こうに感じる気配に、彼は息を吐いた。
「私だ、入るぞ」
彼が返事をするよりも早く、襖が開かれた。そこには正装に身を包んだ神奈子がいた。神奈子は、綺麗に片付けられた部屋と、彼の姿を見て、僅かに眉根を吊り上げた。
けれども、何も言わなかった。ただ、唇を噛み締め、固い表情で静かに室内に足を入れる。彼女の後ろを、諏訪子が落ち着きのない様子で部屋に入ってきた。部屋の様子に眉根を下げ、強張った表情で彼を見つめると、後ろ手に襖を閉めた。
「忙しいところを、すまない」
彼の言葉に、神奈子はただ首を振り、諏訪子は俯いて答えた。
どうやら、言外の意思は伝わっていたようで、従者や巫女は連れてきていないのが分かった。彼に促されるまま、二柱は座布団に腰を下ろした。
一瞬、間が空く。居心地が悪いと感じているのは、彼も、神奈子も、諏訪子も同じ。けれども、誰も口を開こうとは思わなかった。彼の場合は、どう話を切り出したらいいかという葛藤が。神奈子の場合は、ただ黙って彼から話をしてくれるのを待つ為に。諏訪子の場合は、このまま有耶無耶のままに話が終わってほしいと願って。
三者三様の思惑が交錯する。けれども、少しずつ重くなっていく空気を最初に破ったのは、彼であった。彼は静かに居住まいを正すと、黙って頭を下げた。
「諏訪子様、神奈子様」
普段の彼からは想像もつかない、低く険しい声。緊張に満ちたその声に、諏訪子は肩をびくつかせた。先ほどよりも、さらに落ち着きがなくなり、もはや挙動不審とまで言っていい様子で、諏訪子は顔を上げた。
「や、やだな、今は私たちしかいないんだから、いつもみたいに軽々しく呼んでよ。諏訪子、ってさ」
どこか媚びた瞳を彼に向けながら、諏訪子は彼に手を伸ばし……その手を、神奈子に止められた。
「諏訪子、もう、やめな」
「や、やめなって、だって神奈子……」
「諏訪子」
「だ、だって」
「諏訪子」
「だって、だって」
「諏訪子!」
神奈子の目じりが吊り上り、諏訪子を睨む。軍神と呼ばれた彼女の眼光は凄まじく、直接向けられたわけでもないのに、彼は思わず体を固くした。
その激しい叱咤に、諏訪子の肩が跳ねる。彼女の手に促されるがまま、伸ばした手を太ももに置かれる。「だって、だって……」と呟く諏訪子の手から、力が抜けるのを感じた神奈子が手を離しても、諏訪子は静かに俯いたまま、手を伸ばそうとはしなかった。
ふう、と神奈子がため息を吐いて、再び彼へと向き直った。続きを欲してるのだと判断した彼は、そのままの姿勢で唇を開いた。
「思えば、神奈子様とは長い付き合いでした。初めて出会った日は敵として。戦いの果てに同郷の友としてこの地で暮らすようになってからの日々は、とても楽しいものでした。軍神としてのあなたは、まさしく戦いの神でした。圧倒的な力を誇示しつつも、それをむやみやたらに使うことは無く、ただただこの地を狙うやつらを相手に使い続ける。その誇り高き姿に、尊敬の念を抱いたこと、一度や二度ではありません」
次いで、彼は頭を諏訪子へ向けた。
「思えば、諏訪子様とは長い付き合いでした。初めて出会った日を、今でも鮮明に覚えております。諏訪子様の湖だとは知らず、暢気に水浴びをしていた私のあのときの驚きを、諏訪子様は知らないでしょう。ですが、あそこが諏訪子様の湖で良かった。諏訪子様に仕えることができて、私は幸せでした。民の為に、神の為に、自らよりもはるかに強大な力を持つ軍神相手に、一歩も引くことなく迎え撃った諏訪子様の勇姿……私は直接この目で拝むことはできませんでしたが、それでも嬉しそうに話す信者たちの姿を、今も覚えております」
そして、彼は「これは、ほんのばかりのお礼にございます」と延べ棒を指し示すと、顔を上げた。
「今日、ただ今を持って、お暇をいただきたくございます」
「駄目だよ」
そう返事をした諏訪子の顔には、表情が無かった。感情を切り取った人形のような面持ちで、彼との視線を交差させた。「諏訪子!」と名を呼ぶ神奈子の言葉など、耳に届いていないようで、一瞬たりとも彼から視線を外さなかった。
「なんで出ていくのさ。意味が分からないよ」
「諏訪子様も、お気づきのはずだと存じ上げております」
「諏訪子って呼んで」
「諏訪子様……」
「諏訪子って呼べ!」
この日初めて、諏訪子の口から怒鳴り声が上がる。なのに、全く表情が動かない。唇しか動いていない。その異様な姿に、彼も、神奈子ですら、言葉を飲み込んだ。
「ねえ」
少女のような、軽やかな問いかけ。形造られた笑みは、どこまでも穏やかで、どこまでも慈しみがある。かつて、彼が在りし日の面影に思いをはせていたとき、いつも諏訪子はそうして、ただ膝を撫でてくれたか、と彼は思い出した。
暗い、それでいて静寂が、諏訪子の瞳にはあった。憤怒も、侮蔑も、悲哀も、何もない。硝子のように透明で、どこまでも不安にさせられてしまう。
始めて見る諏訪子の、そんな瞳に、彼は何も言えなかった。
そうさせたのは、彼だ。そうさせてしまったのは、彼なのだ。
「何か気に入らないことでもあったの?」
直接、伝えても大丈夫なのだろうか。天秤に掛けられた疑問を、目線で神奈子へ伝える。狼狽していた神奈子は、言葉無く一つ、うなず
「こら、よそ見しない」
一瞬だった。時間にすれば、一秒の半分にも満たないわずかな巡回。その一瞬の間に、彼の視界は、諏訪子の顔で埋め尽くされた。
気配を察知することに長けた彼ですら、何が起きたのか分からなかった。ほっそりとした、小さな掌が、自らの頬を包んでいることが分かって初めて、諏訪子が自分の目の前にいるのだということを、理解出来た。
「諏訪子! 何をして」
「私は大丈夫です!」
諏訪子の瞳が揺らぐのを見て、彼は声を張り上げて神奈子を静止した。姿は見えないまでも、気配から、彼の言葉を聞いて腰を下ろしたのが分かった。
「ほら、また」
安堵した彼に、諏訪子の顔が近づく。触れ合った鼻先が温かく、唇に、諏訪子の吐息が降りかかる。熱く、湿気を含んだそれは、舐めるように首筋を流れた。
「いつからそんなによそ見するようになったんだい? そんな悪いお眼めは、お仕置きしないと……ね」
小さな唇が、視界いっぱいに広がる。瑞々しいそこが上下に開かれると、そこから小さくも血色の良い舌が、伸びる。
唾液で濡れた舌は、ゆっくりと彼の視界を埋め尽くしていき……ぞろりと、彼の左目を舐めあげた。滑る舌が、ぐにゃりとうごめく音を、彼は聞いた。
「ぐうう……!」
思わず、身じろぎする。だが、顔を固定する諏訪子の両手は、岩石のような重量を想像させ、微動することも出来なかった。
「こら、動いちゃダメ」
左目に走る激痛と、叫びだしそうなぐらいのおぞましさに、彼は声も出せない。耳に届く諏訪子の、どこか楽しげな吐息に、彼は歯を食いしばって耐えた。
時間にすれば、8秒程。彼にすれば十倍にも感じた逢瀬は、始まりのときと同じように、唐突に終わった。音もなく顔を引いた諏訪子は、再度向き直る。
涎で歪んだ左半分から、涙がこぼれる。右半分に映った諏訪子は、目に見えて興奮している。最後に、目じりから零れた涙に、かわいい音を立てて接吻すると、諏訪子は童女のように笑顔を浮かべた。
「えへへ、大丈夫? ちょっと痛かったかな? でも、悪いのはお前だよ。私がこんなにお前を見ているのに、お前はすぐに余所見をするんだもの。そんなの、許されないことだよね?」
「あ、それと」と呟くと同時に、小さくも柔らかい感触が唇から伝わる。
「さっきから、私に敬語を使う、とってもわるーい唇はこれかな? そんな意地悪な唇は、食べちゃってもいいよね? いいよね?」
恥ずかしそうに、頬を染める諏訪子の掌からは、微塵も力が抜けていない。そのことが分かっている彼は、震える自分を叱咤した。
「……この地には、もう、俺の場所はない」
「何を言っているのか、よく分からないなあ……帰る場所は、目の前にいるじゃないのさ。大いに不服だけど、神奈子だってそう思っているよ」
「そう思ってくれているのは、心から嬉しい。だけど、そう思ってくれているのは、いまやお前たち二人だけだ。お前も知っているだろう。信者や巫女の中には、俺の存在を認めていないやつが大勢いる。分かっているだろう? 少しずつ、少しずつ、あいつらの中に欲望が生まれてきているということが」
「知っているよ。うん、知っている。昔みたいに、ただただ私たちに縋って、奉って、ささやかな見返りを求めた愛すべき人たちはいない。手の届かない隣人であると理解してなお、ともに生きていこうと考える人間はいなくなった。それが分かった最後の巫女は、ここを去ったじゃないか。でも、それがどうかした? それがいったい、何だというのさ?」
皺くちゃだった巫女の姿が、脳裏に浮かぶ。巫女の息子が持ってきてくれた酒の味が、脳裏に浮かぶ。
「俺には力はない。衝撃波を生み出し、道具が無くても道具を用意できる。けれども、それは別の方法で、普通の人間も出来る。俺は、歳を取らないだけで、普通の人間と変わらなくなってしまったんだ」
「普通の人間が、神の傍に居続けるのは駄目だ。それでは神そのものが、普通の存在ではないかと疑われてしまうから」。そう続ける彼の頬に、力が込められる。痛みすら感じ始めた小さな万力に、彼は眉根を顰めながらも、話を続けた。
「時代は進んでいるんだ。外国の宗教が来て、鉄砲が伝来して、人々の価値観は大きく変わった。天候の成り行きが、神の心のままにではなくなった。死への抗い方が増えていくにつれ、人々はどんどん神を特別視しなくなってきている」
「それがなに? 隣人の恐ろしさを忘れてしまったやつらなんて、また思い出させればいいじゃないか」
「もう、無理だよ」
「無理じゃない!」
悲痛な叫び声。血走り始めた祟り神の瞳が、彼へ向けられる。あまりの力強さに、畳がざわめき、家具がきしみ、襖が振動する。
成り行きを見守っていた神奈子は、黙って力を部屋の四方に飛ばした。かつての全盛期と比べれば、はるかにか弱いものであったが、それは諏訪子も同じ。
力は神奈子の意思に従い、祟りを決して周囲に漏らさず、中和する。「そうさ、無理なんだよ、もう」と呟いた神奈子の言葉に、祟りの力が軍神へ向けられる。
それを片手で振り払いつつ、神奈子は持参していた清酒を、一口舐めた。飲まなければ、やってられない。
「もう一つの隣人はどこに行った? あれほど地上を我が物顔でいた妖怪どもはどこへ行った? 恐怖の代名詞だった鬼たちは、どこへ行った? それは諏訪子、お前も分かっているだろ」
最後に会った妖怪は、紫。彼女は、いつものように胡散臭そうな笑みを浮かべて、彼の頬に一つ、接吻してから、どこかへ行ってしまった。それを最後に、彼は一度も妖怪を見たことはない。鬼も、天狗も、河童も……美鈴ですら、いつのまにか姿を消していた。「おやすみなさい」と言って、手を振って襖の向こうに行ったっきり、彼女の笑顔を見ていない。
もう、幻想はこの世にはない。
「諏訪子」
いつの間にか、強張りが体の中から消えていた。それは、目の前の少女の瞳に浮かぶ涙が、そうさせたのか、彼には分からない。
少しずつ力が抜けていく小さな手を、彼は逆に掴んだ。小さな、女の子の手だ。どこにでもいる、女の子の、普通な手だ。
「殺せば、殺せばいいんだよ。そうだよ、言っても分からないやつは、皆殺しちゃえばいいんだ。祟って、祟って、祟りまくれば、あいつらだって理解するさ。自分たちが、どんな神様に仕えているのかってことが」
「諏訪子」
「大丈夫だよ。私にはまだまだ力があるし、人間の100人や200人、朝飯前だよ」
「諏訪子」
「誰から殺した方がいいかな、ねえ、誰からがいい? あ、そうだ、あの巫女にしよう。お前のことを蔑視する糞で出来た女を、自分から死にたいと口にするようにすれば……」
「諏訪子!」
彼の怒鳴り声に、諏訪子は肩をびくつかせた。拍子に、涙がこぼれる。彼は膝立ちになって、目の前の祟り神を抱きしめた。
あの頃となんら変わらない、小さい温かさ。あの頃と同じように、少女の頭を撫で、背中を撫でると、小さな両腕が、背中に回るのを、彼は感じた。
震えている。それが自分なのか、諏訪子なのか、彼には分からない。ただ、諏訪子の後ろで、目元を手で遮った軍神の姿が、妙に心を抉った。彼女の頬に光る涙を見て、彼は頭を下げた。
「遅かれ早かれ、いつかはこうなる定めだったんだよ。それが今、こうしてやってきたんだ」
「……早すぎるよ」
諏訪子の言葉に、もう、先ほどのような力強さはない。あるのは、幼子のように震える、悲しい泣き声だけ。
「そうだな、早かったな。でも、仕方がない」
「仕方が無くなんか、ない。最後の最後まで、傍にいてよ」
「それは出来ない」
「なんでさ!」
鳩尾に走る衝撃。見れば、諏訪子は駄々っ子のように彼の胸元を叩いていた。右手、左手、右手、左手。それほど痛くもないその行為に、彼は「今までで一番効くよ」と呟いた。
「俺がいれば、お前たちの最後が早まる。俺がいなくなれば、人間を傍におかない神は、孤高になれる。そうすれば、まだお前たちは生きられる」
「それこそ、遅かれ早かれ……じゃないか」
力なく動いていた諏訪子の手が止まる。胸元に沁みる想いの熱さに、彼はただただ受け続けた。
「たとえお前たちに恨まれても、俺はお前たちに長く生きてほしい」
「……それが、私たちが望んでいなくても、かい?」
「ああ」
「それがどれだけ卑怯なことで、ゲスなやり方でも、かい?」
「ああ」
……それ以上、諏訪子の言葉は続かなかった。こみあげてくる嗚咽を噛み締めることしかできず、力いっぱい彼の服を握りしめることしか出来なかった。唇を噛み締める神奈子の姿を、彼はけっして忘れまいと心に誓った。
心に、焼き付けた。
重苦しい沈黙が室内を覆う。どれくらい、3人はそうしていただろう。
ジッと彼の腕の中で嗚咽を漏らし続けている諏訪子と、鼻をすする神奈子の咽び声が室内に響く。
黙って、諏訪子の背を撫で続けた彼の手が止まった。
同時に、アッと驚く間もなく、諏訪子は彼の胸元から距離を取ると、彼に背を向けた。少女の旋毛が目に映る。
「そうかい、分かったよ。あんたの気持ちは分かった。この恩知らず」
「……………………」
返事は、しなかった。返事なんて、していいわけがない。その資格なんて、彼にはない。
「どこへでも行けばいいさ。好きな場所に行き、好きな場所で暮らし、好きな場所でのたれ死ねばいい」
「お前のようなやつ、きっとどこへ行ったって同じさ。そうやって逃げ出して、自分ひとりいい恰好して、悦に浸っていればいいさ」
「その金塊もいらないよ。お前の手垢がついたものなんて、汚くて売れやしない。そんな、はした金用意したところで、何も変わらない」
「だから……だから……」
諏訪子の肩が震える。徐々にその震えは全身に伝わり、声にも張りが無くなっていく。俯いた諏訪子の姿に、彼は腰を上げかけて……寸でのところで、止めた。
「……達者で暮らせ……!」
「今まで、ありがとうございました……!」
代わりに、頭を下げた。額を畳にこすり付けて、万感の思いで礼を述べた。「ありがとう」の他に、言葉は出なかった。どんな美辞麗句でも、この気持ちを表せはしないと、彼は思う。
楽しいこともあった。喧嘩もした。出ていこうと思ったことなど、一度や二度ではないし、事実、家出だって何回かした。
それでも、ここを離れようとは思わなかった。ここが、彼の家だったから。彼の、帰るところだったから。
顔を上げて、立ち上がる。無言のまま諏訪子と神奈子に背を向けて、縁側に降り立つ。そして、最後に、もう一度頭を下げようと振り返る
「振り返るな」
神奈子の言葉に、彼は動きを止めた。まっすぐ前を見つめたまま、彼はこぶしを握り締めて、振り返るのを静止した。
「振り返るな。立ち止まるな。ここはもう、お前の帰る場所じゃない。お前はもう、余所者なんだ」
神奈子の言葉に、彼はただ、頭を下げた。そうせずにはいられなかった。
「……今まで、ありがとうございました」
「言いたいことは、諏訪子が全部言った。私から言うことなど、一つしかない……せいぜい、苦しんで生きろ」
「……はい」
歩き出す。振り返らず、わき目も振らず、がむしゃらに腕を振り、足を動かす。左目の痛みなど、彼女たちが感じる痛みに比べられない。涙など、流してはいけない。流していいのは、彼女たち二人だけ。彼に、涙を流す資格など、ない。
夜の闇が、彼の視界に広がる。ちょうどいいと、彼は思った。
「……おい!」
神奈子の言葉にも、足を止めない。止めては、ならない。
「……さようなら」
一瞬、足が止まる。けれども、すぐに足を進めた。
次第に遠ざかっていく二人の気配。耳に届く諏訪子の泣き声が、いつまでも耳に木霊していた。
いつまでも、いつまでも。日が昇り、朝日が世界を照らす頃になっても、彼は、それを隣で聞き続けた。
ついに始まりました幻想郷編。
といっても、まだ幻想郷は姿を見せません。ですが、すぐに出てくるかと思われます。
あいもかわらず、何の前触れもなくシリアス()になるのは御愛嬌、なのかな。
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