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  東方典型録 作者:葛城
スーパー急展開が続きます。
嵐の前触れ
 朝食は身体の資本というが、それは当たり前のことだが、何時の時代も変わらない。とくに、彼のように鍛えられた肉体を持つ男にとっては、いかに朝食が大事であるかを知っている人は多いだろう。もっとも、朝食の大切さが証明されるようになるのはそれから千年以上後の話なのだが。
 やはり、一人で食べる食事よりも、大勢で食べる食事に限る。彼はほんのり焼き色がついた魚の身を解しながら、そんなことを考えた。
赤毛少女と別れ、屋敷に帰る途中の河川敷で捕まえたその魚は、新鮮なだけあって、とても美味しいものであった。
 翁夫妻はもちろんのこと、輝夜や妹紅も頬を膨らませる程度だったのだから、彼にとっても、その美味はひとしおだろう。
「そうそう、私、次の満月がきたら、月に帰るから」
「……は?」
 食事も終わり、各々がくつろいでいる中、諸々の報告(ただし、余計なところは省く)をした彼に、輝夜が返答したのはそれだった。
 何を言っているのか分からない。そのときの彼の顔に浮かんでいたのはそれで、輝夜の横でお茶を啜っていた妹紅も同様に、目を点にしていた。
 その横で、翁夫妻はさっさと食器を持って行ってしまったのは、輝夜との長い付き合いからくる慣れからだろうか。夫妻にとって、輝夜の突拍子な発言や行動は、もはや朝起きたらトイレに行くぐらい当たり前のことなのだろう。

 それじゃあ、わしらが食器を持っていこうかの?
 ええ、お願いします、お爺様。それと、ちょっと話が長くなると思いますから、席を外しておいてくれないかしら?
 それは構わんが、わしらにも話せないことなのかい?
 うふふ、お爺様。若い者同士のお喋りに口を出すのは、無粋というものですよ。
 おやおや、これは一本取られたわい。

 そうにこやかに談笑し合う夫妻と輝夜を他所に、妹紅は四つん這いで彼へと近寄ると、胡坐をかいた彼の膝に、お尻を落とした。
「ねえ、今さっき、輝夜は何て言ったか分かる? ちょっとよく聞き取れなかったのよ」
「大丈夫だ、問題無い。俺もよく聞いていなかった。それと、お前は何食わぬ顔で俺を座布団がわりにしていやがる。重いから離れろ」
 途端、妹紅の腰が持ち上がり、彼の顎に衝撃が走る。仏頂面の彼は、自爆して涙目になっている少女の頭を撫でた。キメの良い、手入れの行き届いた黒髪だ。お風呂に入っているおかげで、指には垢が付くことも無いし、異臭もしてこない。
「痛い……乙女の身体に何て事をするのよ」
「自分からやっておいて、なぜ俺が怒られるのか、完全に理解不能なんだが」
「乙女に向かって重いと言った罰よ」
「……だが、都では貴族の女性はある程度太っている方がよいと聞いていたのだが?」
 彼の言葉に、妹紅はため息を吐いた。
「太ることと、重いってことは別なのよ」
「……どう考えても一緒だろう」
「違うわよ。そこらへんは、女心ってやつよ」
「分からん」
「分からなくて当然よ。男には万年掛ったって理解出来る代物じゃないもの」
 やれやれ、と首を大げさに横に振る妹紅を、じっと見つめる。
 そういえば、ちょっと前に赤飯炊いたな。
 とくに誰からも何も言われなかったし、言わなかったが、ほんのり顔を赤くしている妹紅の様子から、だいたい彼女の事情は分かっている。その日からそう経ってはいないのに、もう一端の女になったかのような言葉だ。
 現代とは違い平均寿命が低いこの時代では、自然と結婚適齢期が早くなるのも仕方ないのだろう。彼からすれば、妹紅など子供で、むしろ子供が背伸びをしているようで、微笑ましさすら感じた。
 確かにこの時代、妹紅の年齢ならば、男と通じてもおかしくはない。むしろ、妹紅ぐらいから他所の貴族から求婚話が出てくるのが普通だろう。しかも、妹紅は貴族の中でも力のある、藤原の一族だ。
 本人いわく、私は妾の子だから父とも仲良くないし、結婚してもあんまり意味は無いと口にはしている。だが、妾だとしても、藤原の名を有する者と関係を作れるというのは、野心を持つ者にとっては魅力的だ。
 本当なら、妹紅はこうして彼の膝の上でじゃれあう場合ではないのだろう。一刻も早く有力な一族と婚姻し、藤原の力をさらに高める定めを果たさなければならないのは、妹紅自身分かっているのだろう。事実、結婚、という言葉に、彼女は寂しそうに、申し訳なさそうに視線を落とした。
 ……まあ、妹紅が望んでここにいるのだから、俺が口出しする話でもあるまい。せめて、ここにいる時だけはそういったことは考えさせないようにしてやろう。
 そう考えを纏めた彼は、妹紅の腹に手を当てた。肌触りのいい白生地の滑らかさと共に、柔らかな脂肪の感触と体温が伝わってくる。体勢から考えれば、腹周りの脂肪が前に張り出すようになるはずなのだが、軽く力を込めれば、すぐに固い腹筋の感触が伝わってきた。
 都で出会った時のような金の掛ったものではなく、生活性を重視したものである為、かなり薄めに作られている。それを考えても、妹紅の腹周りには肉が付いていないのがよく分かった。
 パチン、と、彼の手が叩かれた。ついでに、手の甲を抓られる。
「ちょっと、なにいきなり発情しているのよ。まだ朝よ」
「……どこから突っ込めばいいか分からんが、とりあえず、そういうつもりじゃない」
「じゃあ、どういうつもりよ。私、始めてだから、優しくしてよね」
 唇を尖らせてそっぽを向く妹紅の首筋は、まるで湯に2時間浸かったかのように赤くなっていた。彼の位置からは首筋しか見えないが、おそらく顔も同じような状況だろう。
「いや、だから、そういうつもりじゃない……っていうか、お前は何を口走っているんだよ……そうじゃなくて、貴族は確か太っている女性の方がいいって話を思い出しんだよ。それで、同じ貴族なのに妹紅はずいぶんと痩せているなって、疑問に思っただけだよ」
「あんなの、短歌と口説きと自慢に一日を費やしている貴族どもの常識でしょ。まあ、太っている方が触り心地はいいし、柔らかいから人気が出るのは分かるけど、私はあんな風にはなりたくないわ。始めては布団の上で、接吻から始めてよね」
「そういうもんなのかね……まあ、多少太っているぐらいは許容範囲だけど、さすがに目に見えて太っているのは……俺も駄目だな」
 その彼の言葉に、妹紅の目がきらめく。何時の間に夫妻と話を終えたのか、傍に寄っていた輝夜が、そっと彼の手を抱きしめた。
 しまった、面倒なことになったぞ。そう、口に出さなかったことを、彼は自画自賛した。口に出していれば、口に出すのも嫌になるぐらい面倒なことになるのは明白だからだ。
 彼はふと、酒に酔った諏訪子と神奈子のことを思い出した。あの二人は元気にやっているだろうか。今度、里帰りするのもいいかもしれない。
「そうよね、太っているよりも、痩せていて、程良く肉が付いたぐらいが一番いいわよね。私も始めてだから、接吻から始めてね。もちろん、最初は優しく唇によ」
「輝夜もそう思う?」
「ええ。妹紅も?」
「うん。だって、太ったら動きにくくなるし、すぐに汗が出るわ身体が臭くなるわ、あんまりいいことがないんだもの。着物だってその分大きいものを買わなくちゃいけなくなるもの」
「そうよね……なんであんなに人気が出るのかしらね……そういえば、妹紅は知っているかしら?」
「今は知らないわ」
「まだ何も話していないじゃない……えっとね、つい先日耳に入ったんだけど、一部の貴族では、今は……男色が流行っているんだって」
「え、それって本当?」
 輝夜の言葉に、妹紅の瞼が大きく開かれる。そのまま静かに彼へ視線を向けた。
「なぜ俺を見る?」
「あんた、まさか……」
「本当に何から言えばいいか分からんが、俺は男より女が好きだぞ」
「そうよ、こいつは男の穴よりも女の穴の方が好きなのよ」
「何を人聞きの悪い事を、お前は何を口走っていやがる」
 振りおろした拳が輝夜の脳天を直撃する。ふおお、と男には見せられない苦悶の表情で頭を抱える少女を、彼は呆れた眼差しを向けた。
 これが、都の中でも力のある5人の貴族から求婚されていると思うと、彼は外見に騙されている貴族達に憐憫を禁じえなかった。本当に、見た目はいいのである。見た目は。
 ただ、中身があまりにも残念なだけ……いや、むしろ、年相応なのであろう。天真爛漫というか、お転婆というか、とにかく自分のしたい事はする、したくないことは絶対しないという、骨の髄まで、生まれついてのお姫様なのである。
 けれども、それが妙に似合っているあたり、さすがは、なよ竹の輝夜姫なのだろう。これが妹紅なら、ここまではいかなかっただろう。
「……でも、男同士で……どうやって……その、するの?」
 妹紅の台詞に、彼の動きが止まり、輝夜のうめき声が止まった。見れば、妹紅は自分の台詞に羞恥心を抱いたのか、恥ずかしそうに彼の胸元に顔を埋めていた。
「そんなことは三回ぐらい死んでから考えて、とにかく妹紅は俺の膝か」
「お尻よ」
「え?」
「お尻を使う」
「なにそれ卑猥」
 顔を真っ赤にした妹紅に釣られるように、輝夜の頬も紅潮していく。どうやら、想像してしまったらしく、お尻に手を当てて、太股を擦り合わせていた。
「お前ら人の話を聞けよ」
 彼の言葉は、悲しいぐらいに二人の頭をすり抜けていった。
「……え、でも、お尻って、その、不浄が出てくるところでしょう? そ、その、汚くないの?」
「馬鹿ね、使う前に綺麗にしておくに決まっているでしょ」
「そ、そうよね」
「なんでも、薬草を煎じて溶かしたお湯をお腹の中に流し入れて、中に入っている不浄を全部出してからやるみたいなのよ」
「へ、へえ、凄い、ね」
 想像したのだろう。妹紅は恥ずかしそうにお腹に手をやった。彼女には全く想像できなかったが、お腹の中にお湯が溜まっていくというのは、なんとなく感覚的に想像出来た。
 お腹いっぱい水を飲んだ時みたいになるのかしら、と一人妄想を続ける妹紅に、輝夜の瞳に喜色が浮かぶ。自分の話にこうやって反応を返してくれるのは、何時見ても気持ちがいいものだ。
「しかも……それって、女相手でもやるらしいわ」
 目に見えて、妹紅の頬が赤くなる。パタパタと手と首を振った。
「え、えええ!?」
「おまけに……慣れると、すっごく気持ちいいんだって」
「き、気持ちいい……」
 二人の視線が、自然と一つへ向かう。もはや、血液を塗りたくったかのような顔色になってきた二人を見て、彼は早く終わらないかな……と、遠い青空を眺め続けていた。
「あ、あのさ」
「お、お尻に興味はない?」
「少なくとも、お前らにするつもりはない」
 この騒動は、結局お昼を過ぎるまで続いた。


「それで、結局のところどうなんだ?」
 お昼過ぎ。翁夫妻が用意した握り飯を食べ終わった彼と輝夜と妹紅の三人は、お茶を啜っていた。朝と同じように、席を外した翁夫妻を見送った彼は、輝夜にそう話を切り出した。
「ん? お尻の話?」
「違うっていうか、もうその話は止めろ」
「五つの難題の話じゃないの?」
「あれはもう終わったでしょ……あれ、あんた知らなかったっけ?」
「俺は知らん」
「あれは傑作だったわ……わが父親だけど、あんなに顔を真っ赤に恥じ入っているのは始めて見た。おかげでしばらくお腹が痛くて堪らなかったわ」
「あのときは妹紅、半日笑っていたものね」
「それじゃない。いいかげんにしろ」
 これ以上の脱線は沢山だと言わんばかりに、彼は輝夜を睨んだ。ああ、そういえば、元々はそういう話だったわね、と呟く妹紅がいたとかいなかったとか。
 さすがに輝夜もこれ以上茶化すつもりはないのか、湯呑に残っていたお茶を一息に飲み干すと、彼と妹紅を順に見つめた。
「………………」
 無言の一瞬。トン、と机の上に置いた湯呑が、合図だった。
「まず、結論から言うわ。私は、地球の……というより、人間じゃないの」
「地球?」
 首を傾げる妹紅に、輝夜は首を振った。
「この世界全部のことよ……私は、この星の人間じゃない……私はね、あの夜空に浮かぶ、月からやってきた、月人なのよ」
 ……輝夜のその言葉に、深い、深い沈黙が流れた。いつもなら、妹紅も彼も、何をまた冗談をと輝夜に言っていただろうが、今回ばかりは言えなかった。
 輝夜の瞳が、あまりにも真剣だったから。いつもの余裕綽々としたものではなく、どこか高みを決めた瞳でもない。
 迫力が違った。真実を話しているということが、言葉ではなく、心で伝わってきた。だから、妹紅も、彼も、黙った。黙ったまま、静かに輝夜の言葉をかみ砕いた。
 ……静かに、ゆるやかに、妹紅の瞳に、困惑の色が浮かぶ。それはそうだ。見た目は完全な人間がいきなり、私は月からやってきた人間じゃありません、なんて話したところで、信じてもらえるわけがない。
 輝夜はそれを見て、無理もないと思った。話した輝夜自身、信じてもらえるとは思っていない。むしろ、一笑されなかっただけ、妹紅も彼も真摯に受け止めてくれていることに、感動すら覚えた。
 ふ、と輝夜は違和感を覚えた。妹紅の困惑に満ちた瞳は理解できる。想像していたとおりだ。
 しかし、彼の方は、想像とは違っていた。そこにあったのは、困惑でもなければ嘲りでもない。輝夜の語彙では表現出来ない……なにか、深くて、激しくて、それでいてとても穏やかな、見ているだけで心をかき乱されそうな何かが、その瞳には浮かんでいた。
 なんだろう、あれは。
 不思議に思えた。今まで見た人々の中に、彼と同じ瞳を持った人は一人も居なかった。そんな瞳を、彼が今、自分に向けているということに、輝夜は心底不思議に思えた。
 ……そういえば。
 輝夜は彼と出会った日から毎日を思い出す。色々あったし、驚かされた。見た目は筋肉隆々の男だが、意外と繊細で、流されやすい。少女の自分に頭から命令されているのに反抗せずに従うし、狼藉を働くことも無い。文句はよく口にするが、それも不快に感じる程ではなく、それが彼の性格なのだろうと、むしろ好意的にすら感じた。
 衝撃波を自在に操るだけでなく、身体能力もずば抜けている。貴族の男どものようなでかすぎる自尊心も無いし、かといって卑屈というわけでもない。不思議な男だ、と、輝夜は思う。
 そして、彼のことを回想しようとして……気付いた。彼の好きなご飯、嫌いな物、苦手な物、好きな遊び、彼の能力、知っていることは色々ある。それこそ、片手ではとうてい足りない程度に彼を熟知しているつもりでいる。
 しかし、それだけだった。彼がどうしてそんな力を身に付けたのかも、以前はどんな場所で生活していたのかも、何も、輝夜は知らなかった
 結局のところ、私はこいつのことを、まだ何にも知らないんだな……。
 そのことに思い至った輝夜は、なんだかとても寂しく思えた。なぜならその結論は、妹紅にも通じるから。
「……私は、月から来た」
 仕切り直すように、輝夜は呟く。
「話せば長くなるから、省略するけど、私がこの星……あんたと妹紅が住んでいるこの大地だけど、この星に来た理由は、私が禁句を……犯してはならない罪を、犯したからなの」
「罪?」
「ねえ、妹紅。あなたは、私が幾つに見える?」
 彼の呟きを遮ったその質問に、妹紅は首を傾げた。
「……幾つって……まあ、せいぜい私と同じぐらい……かな」
「私、これでも今年で3097歳なのよ」
「…………は?」
 ポカン、と開かれた口を見て、輝夜は笑った。
「うふふ、普通はそうよね……でもね、事実なの。私はこう見えて、3000歳を超えているのよ」
「……えっと、本当に?」
「嘘をついても意味はないわ。見た目は妹紅と同じでも、中身はしっかり年を取っているのよ」
 それが良い事なのか悪い事なのか、私には答えを出せないけど。そう、呟いた輝夜は、一つ、溜息を吐いた。
「……私の罪はね……ある薬師の力を借りて、ある薬を作り上げてしまったこと。そして、それを私が飲んでしまったことなのよ」
「……その薬って?」
「……不老不死の薬よ。厳密に言えば違うけど」
「ふ、不老不死って、老いない、死なないっていう、あの?」
「私から言えば、老えない、死ねない、が正しいわ。そう、その不老不死。その薬の名は、蓬莱の薬……月の頭脳と謳われた薬師と、ただただ狭い箱庭で日常を生き続けることに飽いた馬鹿な女が作り上げた、碌でもない代物よ」
 ピクリ、と彼の肩が震えた。
「罪を犯した私を、月は許してくれなかった。私は罪人として地上……ここへ落とされ、そして輝夜と名付けられた……そして、つい先日、私の元に使者が訪れた」
「あの人?」
「ええ、そうよ」
 話が通じ合っている二人を尻目に、彼は首を傾げた。どうやら、出かけている間に尋ねてきた客らしい。もっとも、今はそれは重要ではない。彼にはもっと、知らなければならないことがあったから。
「その使者は私に言ったわ。私は地上にいて、もう十分過ぎる程に罰を受けた。だから、月へ帰る許可が下りた、とね」
「そ、んな……そんな話がある!?」
 バン、と机を叩いて、妹紅は立ち上がった。烈火のごとく燃えあがった激情が、その瞳に浮かんでいた。
「輝夜! あんた、まさかその話を、はいそうですか、わかりましたって言ったんじゃないわよね!?」
「そんなこと、私が言うわけがないでしょ!」
 珍しく、本当に珍しく輝夜が声を張り上げた。滅多に見せない輝夜の怒声に、妹紅はピクンと肩を震わせた。
 その様子を見た輝夜は、あ、と声を漏らすと、申し訳なさそうに頭を下げた。それに合わせて、妹紅も一言謝った後、その場に腰を下ろした。
 気まずい沈黙が流れる。輝夜も妹紅も、どうしたらいいか分からない、そんな表情で、床を見つめている。
「脅されたのか?」
 ポツリと響いたその言葉に、二人は一斉に顔を上げた。見れば、今しがたまで黙って様子を伺っていた彼が、自身の湯呑に残っていた最後のお茶を飲み干しているところだった。
「……どうして、そう思ったのかしら?」
「月での日常を捨て、罪人になってまでこの星に来たんだ。ようやく最近は友達も出来て楽しく過ごせていたところを、はい分かりました、帰ります、とはいかんだろ、普通。せいぜい考えられるとしたら、ここ以上の何かが月で待っているか、あるいは月に帰らざるを得ない理由が出来たか……そのどちらかだろう?」
 彼と妹紅の瞳が輝夜へ向けられる。視線の先にいた少女は、はあ、と溜息を吐いて、頷いた。
「ええ、そうよ。脅されたの。大人しく月に帰らないと、お爺様や妹紅達を皆殺しにするって」
「――っ!! 帝に言おう!」
 堪えられない。そう言わんばかりに激情を胸に耐えた妹紅が、再度立ち上がった。
「無理よ」
 それに答えた輝夜は、反対にどこまでも冷めていた。まるで、こうなることが分かっていたかのように。事実、分かっていたのだろう。
「大丈夫よ。帝も輝夜のことを気に掛けているわ。貴方が命を狙われているとでも言えば、帝は喜んで軍を動かしてくれるわよ」
「そんなもの、何の意味もないわ」
 顔を上げた輝夜の瞳に、妹紅は目を見開いた。
「ねえ、妹紅。あなたには想像出来ないでしょう。五つ数える間に20人を殺せる武器を。千を超える弓矢を防ぐ盾を。万を滅ぼせる爆弾を、あなたは想像出来ないでしょう? 月の奴らは……その想像出来ないものを当たり前のように駆使してくるのよ。こちらが一人あいつらを倒す間に、こっちは500人ぐらい殺されるわ。いえ、まず間違いなく、手も足も出せないまま、全員なぶり殺しにされるでしょうね」
「――っ、そ、そんな馬鹿な話……帝直属の軍は、精鋭部隊。そんじゃそこらの山賊とは……」
「妹紅」
 たった一言が、妹紅を黙らせた。
「あなたの気持は嬉しいわ……でも、無理なのよ。どうにもならないことなの。どうにもできないことなの。もう、私が月に帰るのは決まったことで、これが一番丸く収まるのよ……お願い、分かって頂戴」
「……そ、そんな……そんなのって……」
 目に見えて妹紅の瞳から激情が消沈していく。
「妹紅……」
 潤みを含んだ、輝夜の呼びかけを最後に、再び、沈黙が流れた。
 静かに、静かに妹紅が輝夜の傍へ寄る。輝夜が両手を広げると、妹紅はそこへ自身を滑り込ませた。そして、静かに身体を震わせた。
 それに合わせるように、輝夜の瞳に涙が滲む。音も無く零れた涙が頬を伝って、妹紅のうなじに流れ落ちた。
 途端、輝夜の胸元から嗚咽がこぼれ始めた。
「ねえ、妹紅。あなたは怒るかもしれないけれど、私は今、幸せよ」
 返事は返ってこなかった。ただただ、胸を締めつけられるような鳴き声だけが室内に響いた。
「私は今、幸せを感じているわ。月にいた頃の日常では決して感じなかった、背筋が奮い立つような幸福が、私の全身を駆け廻っているのが分かるの」
「ねえ、妹紅。あなたは、私がいなくなることに泣いてくれているわね。私と離れ離れになることに涙を流してくれているわね」
「それが堪らなく嬉しいの。それがどうしようもなく嬉しいの。今すぐ外に飛び出して、この喜びを青空に叫びたいぐらいに」
「私は今まで全てがどうでもよかったわ。生きることも、死ぬことも、全てどうでもよかった。何時死んでも良かったし、何時月に、返っても良かった。どこ、に行っても良かったし、どこで暮らしても、よかった。日常なんて、唾棄すべきものだった」
「死を望んだこ、ともないけど、生きたいとも望んだ、こともない。ただただ、過ぎ去っていく、今日を、眺、めて、欠伸を、していた、わ」
 堪えていた涙腺が、決壊する。輝夜の瞳から滝のように涙が零れ落ちていき、妹紅の身体を濡らしていく。鼻の頭が赤くなり、噛みしめた唇は白くなっている。
「今頃になって!」
「ここまで来て!」
「貴方達と離れ離れになることを、悔んでる!」
「離れたくない!」
「ずっと一緒にいたい!」
「生きていたいって、思ってる!」
「いまさら……今頃になって……日常が、惜しいのよ……」
 その言葉を最後に、輝夜から嗚咽が漏れ始め、遂には子供のように激しく泣き出した。それにつられるように妹紅も鳴き声をあげ、二人の悲鳴が響いた。
 二人をジッと見つめていた彼は、音も無く立ち上がって、そっと部屋の外へ出た。そして、ふう、と一つ溜息を吐いて、首を鳴らした。
「………………」
 ふと横を見れば、翁夫妻が静かに彼を見つめていた。
「………………」
「………………」
 会話は無い。夫妻は静かに頭を下げると、彼の視界から姿を消した。
「…………ふう」
 もう一度、溜息が零れる。そのため息は、背後の鳴き声にかき消されるように溶けて消えた。
「……人生、ままならないもんだよな……そう思うだろ、永琳?」
 握りしめた拳の中で、彼は一つ、決意を固めた。

はいはい、テンプレテンプレ。といっても、私にとって、こういうテンプレなだけであって、万人がテンプレとは思わない展開なのかもしれない。
今回はオッパイ分はありません。この話はKENZENだから。
次回か、その次ぐらいには、あの人を出そうかな。


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