修羅場
寝起きというものは、えてして、思考を停止している場合が多い。まあ、中には違う人もいるだろう。起床と同時に数式の世界に入る数学者だとか、軍人んだとか、はたまたそういう癖を持っている人とか、寝坊した場合とか、色々あるだろう。
けれども大抵の場合、寝起き直後は、ただただ襲いかかる眠気と特有の気だるさに脳の機能を謀殺され、ほとんど機能していないのではないだろうか。
朝起きてトイレに行く、飲み物を飲む、テレビを点ける。これらの行動は、全て頭で考えているだろうと思われる人も多いが、少し待ってほしい。生理現象などの肉体的欲求は、往々にして無意識に人を働かせる。いちいち物を食べる時に、これはどのように噛もうか、どのように舌を動かせばよいか、どのように口を動かせばよいかを考えないのと一緒で、長年の習慣(あるいは本能)から、思考をせずに行えるのである。
……閑話休題。冒頭から、良く分からない話を長々と行ったが、それには深いようで、あまり深くない訳がある。このような言い回しなのも、主体的な目線から見れば、非常に深い内容で、客観的な目線から見れば、どうでもよい内容だからである。
つまり、どういうことかと言うと……。
「……なあ、紫」
「いや」
恐る恐る問いかけた彼の言葉は、否定の一言で切り捨てられた。問いかけられた紫はと言えば、彼の右腕を恵まれた谷間に挟んで、ぷう、と頬を膨らませていた。ほんのり赤くなった耳たぶと、どこか不貞腐れているように見えるその表情は、妖絶な見た目とは裏腹の可愛らしさを彼に感じさせる。
どうしたものか、と彼は悩む。しかし、紫は彼を尻目に抱きしめた腕に絡めた両腕に力を込める。無言の抗議。そのおかげで、抱えた逞しさに心臓を高鳴らせつつ、紫は頬をほんのり赤く染めた。その姿に思わず彼も胸を高鳴らせたが、下手に何か行動すればどうなるかは想像すらしたくないので、平常心で耐える。
…………はあ、仕方が無いが、いったい、何が紫をここまで怒らせているのだろうか。
それが分からない彼は、とりあえず右腕に感じるとてつもなく魅力的な感触と甘い匂いから文字通り首を背ける。反対側の腕を掴んでいる少女、ナズーリンを見つめた。
ナズーリンは、抱きしめた腕に頬ずりしていた。身長の関係から自然と見下ろす形になったおかげで、赤く染まった肌が胸元からうかがえる。ふと、旋毛から、何とも言えない、涼しげな香りが漂ってくる。香の匂いとは違う……なんというか、夏の風を思わせる、清涼な香りだ。
ふと、彼の視線に気づいたのか、ナズーリンは顔を上げた。陶酔しているような、それとも泥酔しているような、どこかうろんげな瞳が、彼を覗いていた。
「…………なあ、ナズーリン」
「ナズと呼んでください。私はもう、あなたのものです」
声を掛けた瞬間、後悔した。なぜならば、ナズーリンとは反対の腕が、きつく抱きしめられたからだ。それだけなら良かったが、かすかに聞こえた歯ぎしりが、腕に感じる柔らかな体温を恐怖に変えた。
体温とは、時に狂気になる。なんだか、後世に語り継がれそうな名言が浮かんだような気がしたが、彼にはそんな冗談を考える気力もなければ、話す元気は無い。とにかく、降って湧いたこの修羅場をどうにかせねば、という一念それだけであった。
まず、紫からどうにかしよう。
「なあ、紫」
「なによ」
半眼になった瞳が向けられる。お世辞にも機嫌が良いようには見えない。凄まじい勢いですり減っていく精神力に気合を込める。
「どうしてさっきから抱きついているんだ?」
「貴方の右腕が寂しいって私に泣きついてきたからよ。寒いよ~、あったかい谷間で温めてよ~って、あんまり私に嘆いてくるから、仕方なくこうして温めてあげているのよ。感謝しなさい」
いつから俺の右腕は発声器官になったんだ?
「腕が話すわけ無いだろうが」
「話すわよ」
「そんなわけ」
「話すのよ」
涙目でそう言われれば、男は黙って首を縦に振るしか出来ない。もちろん、彼も例外ではなく、溢れんばかりに涙を溜めこんだ瞳で見つめられれば、不本意でも同意するしか選択肢は無い。
ギュッと、ただでさえ密着していた肌がさらに密着する。回された腕に力が籠り、湯気すら立ちそうなくらいに熱い。見れば、僅かに見える腕と谷間の境目が、汗で滑っていた。この分では、内部は彼と紫の汗でベタベタだろう。
触れている部分がほとんど動かない為、不快感等の感覚はないが、敏感な部分に触れている分、紫ははっきりそのことを知覚しているはず。なのに、紫はもっと濡れろと言わんばかりに僅かに身体を揺り動かし、腕に汗を塗り付け始める始末。その何とも言えない感触と女体の香りに、彼の腰奥がにわかに熱を持ち始める。
ああ、気持ちいい。そう思った瞬間、彼は腹部に走った鋭くも柔らかな快感に、思わず声をあげた。
「……失礼します」
見れば、先ほどまで蕩けていたナズーリンが、見た目相応の小さな左手を彼の衣服の中に差し入れていた。もぞもぞとズボンの中を探っていたかと思うと、彼の敏感な男をキュッと握りしめた。これには、彼もさすがに息を呑み、ナズーリンを制した。
「し、失礼しますじゃな、いだ、ろうが」
その言葉に、ナズーリンは顔をあげた。目に見えて興奮に満ちた瞳が、彼へ向けられる。
小さな彼女の唇が、ゆるやかに弧を描く。唾液で濡れた舌が、唇を静かに舐めた。見た目とは裏腹の、淫らさが見え隠れする女性の仕種。あまりの色気に、彼は思わず息を呑む。
そんな彼を尻目に、この騒動の原因でもある少女は、静かに瞼を閉じた。そして、分かっているでしょ、と言わんばかりに顎をあげて、唇を突き出した。
どこからどう見ても、それは接吻を求める女だった。唾液で濡れそぼった桃色の唇が少しずつ大きくなっていく。
吸い寄せられるように背筋が丸まり、少女もそれに合わせて背筋を伸ばす。ゆっくり、ゆっくり、音も無くお互いの唇が距離を縮めていく。
いかん、危ない危ない危ない。
普段、輝夜や妹紅と一緒にお風呂に入ったりしていて、結構素肌のスキンシップみたいなことはしているが、彼にはそういった性癖は無い。どちらかといえば、彼は年上が好みなタイプであり、多少ドキッと動悸を速めてしまうことはあるものの、それだけだ。
間違っても、この女を抱きたいと感じたことはないし、考えたことも無い。その為、彼は苦笑しつつ、ナズーリンから離れようとして……。
首にかけられたダウジングロッドによって、その動きを封じられていることに気付いた。
……あれ?
それは、ひどく巧妙なものだった。強すぎず、弱すぎず、本人が自ら背中を丸めていると錯覚させてしまうくらいの絶妙な力加減で、彼の首を引っ張っていたのである。
もちろん、引っ張る方向は下方。目的は……お互いの唇。そのことに思い至った彼と、彼に気付かれたことを悟ったナズーリン。動くのは、ナズーリンの方が早かった。
「あ」
短い驚愕の声。グイッとダウジングロッドが下へ引っ張られる。紅潮した頬がより鮮明に視界へ映る。見る間に広がる肌色に、ナズーリンは至福を予感し、彼はこれから起こる騒動に血の気を引いて、その瞬間を待った。
時間にすれば、まさに一瞬。瞬きしてしまえば、見逃してしまいそうな、わずかな時間。これから起こるであろう接触は、アリですら想像出来たであろう。
それは、彼も、ナズーリンも、同じ。
「駄目」
ただ、それは起こらなかった。
位置がずれた?
彼が避けた?
ナズーリンが躊躇った?
全て違う。真実は、彼の隣に居た女性が、白魚のように細くしなやかな白い掌を、間に差し込んだというものだった。
二人の唇が、チュッと音を立てて止まる。突然の事態に目を白黒させる彼を尻目に、ナズーリンはゆっくりと瞼を開いて……彼を戦慄させた。
「……おやおや。何をするかと思えば……」
先ほどまで頬を紅潮させて蕩けていた少女が発したものとは思えない、低くおどろおどろしい声。ゆるやかに自身の口元を覆う紫の掌に寒気を覚えつつ、彼はそっと振り返って……後悔した。
「…………」
そこには夜叉がいた。
これは一種の拷問ではないだろうか。そう思った彼を、誰が責められよう。
「……あの……そろそろ、話を……」
すっかり忘れ去られていた、そもそもの原因であり、妖怪に成り果てた僧……聖と名乗った女は、居心地悪そうに口を開いた。
もちろん、返事は返ってこなかった。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。