addictionの3つの層


初出:hirokiazuma.com

以下の原稿は、2000年11月12日に下條信輔・タナカノリユキ両氏のプロデュースで行われたイベント「ルネサンス ジェネレーション '00」で行った講演の草稿である。未完成の草稿であり、実際の内容とはかなり相違があるので注意されたい。講演の映像および図版はhirokiazuma.com cd-rom no.2 に収録されている。cd-romの購入方法については「 自主的なものたち」を参照されたい。


カント以来、大陸哲学では伝統的に「認識」と「知覚」、つまりは「悟性」と「感性」という二つのレベルを分けてきた。その伝統によれば、何かに美的に惹かれるとは悟性のレベルでの働きだとされる。しかし、addiction(ハマる)という現象は、むしろ悟性的認識より低い、あるいは前のレベルで、私たちの行動を規定している。したがってその研究には、「意識」「主体」を中心として作られた近代哲学よりも、むしろ神経生理学的、あるいは認知心理学的なアプローチが適切である。

この点については廣中先生と下條先生が専門家であり、素人の私にはこれ以上のことはいえない。ただし、私がここで付け加えることがあるとすれば、20世紀の大陸系哲学において、この前認識的なレベルの問題は、主に精神分析の「無意識」の概念と結びついて検討されてきたということである。フロイトの体系では、addicitonの問題はフェティシズムの問題として言い換えられるだろう。

フェティシズムとはフロイトの考えでは、性的な主体が成熟する過程でうまく統御できなかった、欲動の遺留物によって引き起こされる。その説明はかなり無理があるし、あまり科学的とも言えない。例えば、子どもが母親の性器をはじめて目にしたとき、そこにペニスがないことに驚くとする。その驚きを否認するために、その直前に見たものに異常に固着する、それがフェティシズムの原因だ、とフロイトは説く。足フェチや下着フェチが多いのがそのためだ。なぜそのような否認が必要かといえば、子どもにとって、ペニスとは全能性の象徴だからだ。むろん、そのような全能感は成熟の過程で捨てられねばならない。しかしその諦めの過程(去勢)がうまく働かないと、全能感への憧れが、フェティシズムとして残ることになる。ごく簡単に言えば、こんな説明が初期の精神分析の成果である。

このような杜撰な「理論」が20世紀の現代思想において大きな注目を集めてきたと言うと、みなさんは驚くかもしれない。しかしそれには理由がある。フロイトの精神分析理論はフランスでは、20世紀中葉、ジャック・ラカンという傑出した才能によって高度に洗練されることになった。彼はフロイトの経験に基づいた洞察を、ハイデガーを介して、カント以来の哲学の主流のなかに位置づけることに成功したと言われている。その結果、フェティシズムの理論は、大雑把に要約すればこんな感じになった。

「ひとは大人になるために、多様な欲望を制御して単一の『主体』を形成しなければならない。しかしその『主体』なるものは、かならず欠陥を持っている。言い換えれば、ある外傷を抱えている。その外傷を、カントは『物自体』と表現した。ひとはその傷そのものには絶対にたどり着けないが、永遠にそこに向かって駆動される。これは人間が人間であるために条件である。人間は、ある『思考不可能なもの』を核に形成されている。フロイトはこの核を『フェティシュ』と呼んだ。」

これだけではピンと来ないかもしれないが、この考え方はカトリックの神学と密接に結びついており、一時期のフランスでは大きな影響力をもった。そしてラカンの精神分析理論は、いまでも大陸哲学−現代思想系の論者にとっては大きな参照項になっている。つまりこちらでは、addicitonとは、「主体」が自らの限界に直面する契機として、もっと分かりやすく言えば、意識では捉えられないような「何か」が立ち上がる経験として捉えられてきたわけだ。


ラカン派の考えでは、というよりもカント以来の伝統的な考えでは、主体は世界を直接に認識することができない。その断絶をかろうじて橋渡ししているものが、「物自体」の概念だ、ということになっている。同じように、フロイト=ラカン的な考え方では、人間は世界と直接に関係することができない。人間は幻想で生きている。そこでは今度は、フェティシズムが、自分と世界とを繋ぐ接点となる。つまり、私たちが特定の(理性的に考えれば無意味な)ものにハマり、固執するのは、そのようなフックがないと私たちが世界から遊離してしまうからだ――そのように、精神分析では考えている。

この理論には直観的な説得力がある。しかしいくつかの問題も抱えている。その最大のものは、言うまでもなく、そこに神経生理学的な説明がごっそりと抜け落ちていることである。ラカンの理論は、「象徴界」「想像界」「欲望」「シニフィアン」といった独特の概念の組み合わせでできており、それらがどのような物質的・生理的な機構に基づいているのか、ほとんど検討されていない。これはカント以来の思弁的な哲学を受け継いだためであると同時に、またきわめて20世紀的な特徴でもある。ラカンはいわば、脳というハードウェアの問題を棚上げにして、純粋にソフトウェアの構造としてだけ「心」を探究しようとした思想家である。このような思想家が現れたことは、私たちの時代の世界観・人間観のある部分をよく象徴している。しかしそれについては、また別の機会で論じることにしよう。

さて、その神経生理学的な説明の欠如も大きな問題なのだが、私がここで指摘したいのはまた別のことである。私の考えでは、フロイト=ラカン的なフェティシズムの説明は、もうひとつの、より内在的な欠陥を抱えている。それは彼らが、フェティシズムの対象の選択を、あくまでも偶然で、しかも固定的だと考えていたことに宿っている。

フロイト=ラカン的な考え方では、主体は不可避的に不完全である。したがって、その欠陥を埋めるために何らかの対象が到来する。このプロセスは不可避だが、その対象が具体的に何であるか、例えば靴なのか下着なのか、それとも死体や幼女なのかは、あくまでも二次的である。さきほど紹介した、フロイトの説明を思い起こしてほしい。母親の性器が見える直前に何が見えたのか、それに応じてフェティシズムの対象は決まる。この決定は偶然だが、一度決まってしまえば、それはもう一生変わることがない必然となる。人間はその外傷から逃れることができない。

しかし私は最近、まさにこの前提に疑いを抱いている。フェティシズム、あるいはこのシンポジウムの表現で言えばaddictionだが、その対象ははたしてそれほど固定的なものだろうか? 私たちにとってむしろ、addictし、ハマる過程というのは、一種の訓練のようなものではないだろうか? ある対象へのフェティシズムというのは、幼児期の外傷体験によって決定されていることではなく、むしろ、徐々に時間をかけて獲得されていくものではないだろうか? そしてその訓練の過程では、最初にまったくハマらなかったものが、あるときに突然ハマるようになる、そういう感覚の変化も頻繁に起こっているのではないだろうか?


唐突に思われるかもしれないが、私はここで、日本のオタク系文化を参照してみたい。それは私の考えでは、1990年代の日本において、ハウス/テクノ系のクラブ・カルチャーと並び、「addiction」「ハマる」という表現が相応しい集団的な高揚状態を組織し続けてきた大きなサブカルチャーである。クラブ・カルチャーと異なり、オタク系文化は実際のドラッグとは深い関係をもたない(とはいえ、この先入観もオウム真理教事件以降は怪しくなってもいる)。しかし私は、だからこそ、そこで「オタク」たちを駆動している欲望のメカニズムについて考えることは、現代のaddictionを検討するうえで不可欠だと思う。

フェティシズムが訓練の成果として獲得されることは、オタク系文化ではきわめてありふれた現象である。例えばこの絵[図版]を見ていただきたい。頭に猫耳をつけ、メイド服を着たこの女の子は、「デ・ジ・キャラット」といって、昨年から今年にかけてのオタク系市場で圧倒的な支持を集めているキャラクターである。しかし、会場の多くのみなさんが同意してくれるのではないかと思うが、このキャラクター・デザインはとても癖が強く、普通に見て美しいものでは決してない。むしろこのデザインを支えているのは、「猫耳」「メイド」「しっぽ」「大きな手足」「緑色の髪」といったいかにもオタク的なデザインの特徴を集め、サンプリングしリミックスする感覚である。ここでは詳しい話は省くが、そのような観点で見ると、確かに「デ・ジ・キャラット」の図像には、きわめてコンパクトにそれら諸特徴が配置されている。

この例に限らず、オタク的な制作物の多くは、先行作品のパロディやリミックスで作られていることがきわめて多い。それは具体的には巨大な同人誌市場(コミケ)との連動で支えられているが、そういう流れそのものが、大きくは「ポストモダン」と呼ばれる社会一般の変化と連動している。ポストモダンにおいては、文化産業は、オリジナルの作品を作ることよりも、既成作品のコピーやシミュラークルを作ることを好む。美術や音楽にも現れたこの傾向が、日本のサブカルチャーでは、オタク系文化を強く規定し続けてきた。したがって、「デ・ジ・キャラット」のような作品は、この流れのひとつの極限として生まれてきたものだと、そう理解することができる。

しかし私が今日強調したいのは、また少し違った話である。オタク系の作品はリミックスで作られている。これは1980年代の前半から顕著になる傾向だが、それは当初は、サンプリングの対象となった先行作品を知っている、一部の「通」で「内輪」の観客に宛てられたメッセージとしての性格が強かった。そしてそれを受容する鑑賞者も、また、作品から一歩引いて、そこに張り巡らされた参照の束を解読することに喜びを見出していたのである。つまり、当時のオタクたちは、コミックやアニメや特撮の世界に必ずしも埋没していなかった。彼らは作品そのものからは距離を取り、むしろその裏側の、制作過程やコンテクストを解読することを好んでいた。ここから、初期のオタクを特徴づける独特のシニシズムが生じる。

初期のオタクたちは、B級の作品をB級であるがゆえに愛し、またその作品をめぐって無数の解釈の戯れを紡いでいた。例えばこれ[図版]は、岡田斗司夫氏の著作『オタク学入門』の一部だが、このようにオタクたちは、ひとつのアニメ作品のなかでの作画監督の違いを敏感にかぎつけ、その差異をことさらに強調することで作品の読解方法をまったく変えてしまう。ちなみに付け加えれば、このような「超読解」の作法は、とくに日本でだけ発達したものではない。スチュアート・ホールというイギリスの社会学者が、すでに1970年代に、テレビドラマの受容をめぐって同様のことを指摘している。

さて、このシニシズム/超読解の態度は、実は、さきほど説明したようなフロイト=ラカン的なフェティシズムの理論でかなりうまく説明することができる。情報化されポストモダン化されたこの高度消費社会においては、ひとびとは、虚構と現実の境界を見失いがちである。言い換えれば、幻想のなかで浮遊しがちである。そこで現実を現実として捉えるために、つまりは現実にもういちどリアリティを宿らせるために、何らかのフックが必要となる。オタクがB級作品に固執し、それに過剰な読解を宿らせていくのは、そのためである。つまりはオタクたちは、一見、非社会的な趣味の世界に埋没しているのだが、そのような埋没によって逆説的に現実との関係を回復している、ということになる。このような方向でのオタク的行動の研究は、すでにいくつか行われている。そのうち最も包括的なものが、今年出版された、斎藤環氏による『戦闘美少女の精神分析』である。

私は斎藤氏のその著作に大きな刺激を受けたが、1990年代後半のオタク系文化を近くからウォッチしてきたものとして、いささか違和感を覚えたことも告白しなければならない。というのも、そのフロイト=ラカン=斎藤的な枠組みは、1980年代までのオタクの行動をきわめてよく説明している一方、ここ数年の動きにはうまく当てはまらないように思われたからだ。そのひとつの例が、さきほど挙げた「デ・ジ・キャラット」のブームである。


ここには樋口氏のような実作者もいるので私が指摘するのも恥ずかしいが、1990年代のオタク系文化は、キャラクター文化の隆盛に特徴づけられると言われている。そこでは作品よりむしろキャラクターが吸引力をもつようになった。極端に言えば、作品がダメダメでも、キャラクターが魅力的ならばそれでオッケー、という消費行動がとても強くなったのだ。そのような行動は「キャラ萌え」とも言われる。昨今のフィギュア・ブームなどはこの流れで支えられている。

そしてこの「キャラ萌え」的な行動様式は、さきほど述べたようなシニシズムとは大きく異なる。というのも、そこではすでに、かつてオタクたちが誇りに思っていた「B級作品を意図的に読み替える能動性」がすっかり失われているからである。むしろ現在のオタクたちは、より素直かつ受動的に、デザインの良し悪しのみでキャラクターの魅力を判断しているように思われる。そしてデ・ジ・キャラットとは、まさにこの「キャラ萌え」の代表的な存在である。

つまり、肝心な点はこういうことである。さきほども説明したように、デ・ジ・キャラット(以下、慣用に合わせて「でじこ」と略することにしよう)のデザインそのものは、きわめてハイ・コンテクスチュアルであり、多くの参照項に支えられている。しかし現在のでじこのブームを見るかぎり、消費者の多くがその参照項を能動的に読み解き、「ぜんぜんダメダメなデザインだけど、そこがいいんだよね」的なシニシズムをもって受け入れているとは考えがたい。むしろ彼らは端的に、でじこのデザインを「優れている」と判断しているように思われる。その瞬時の美的判断に無批判に没入してしまう、それが「キャラ萌え」の特徴である。しかし、さきほども投影したあのデザインを「優れている」と捉えるためには、やはりコンテクストの感覚が必要なはずだ。では、そこの部分の判断はどうなったのか?

私はこの点についてつぎのような仮説をもっている。「オタク的シニシズム」と「キャラ萌え」の差異、あえて世代で分けるとすれば、80年代的なオタクと90年代的なオタクの行動様式の差異(しかし、こういう区別は絶対的なものではない)は、コンテクストを処理する場所の違いによるのではないだろうか。

シニカルなオタクは、コンテクストを意識的かつ能動的に読み解き、その作業によって世界との関係を回復する。したがって彼らは、でじこのデザインを前にして斜に構え、独特の高い口調で、そのデザインのどこがダメで出典はどこなのかについて、蕩々と語ってくれるだろう。そのような行動において、オタクたちが拘っているのは、実はでじこそのものではない。フェティシズムの対象は何でもよい。それについて蕩々と語り、超読解を繰り広げて見せること、それこそが彼らにとって重要なことなのだ。彼らはでじこがダメなことは十分知っている。にもかかわらずそれは絶対に手放せない。この葛藤は確かに、すぐれて精神分析的なプロセスである。

しかし他方、キャラ萌えに駆動されたオタクたちは、コンテクストをそれほど意識していない。しかしそれは彼らが、前述したようなオタク的リミックスの作業、「猫耳」「メイド」「しっぽ」「大きな手足」「緑色の髪」といった特徴の混合を知らないことを意味しない。その点に無知であれば、でじこを評価できるわけがない。むしろ彼らは、そのコンテクストを知っているのだがそれを意識しない、と考えたほうがよい。でじこに「萌えている」オタクたちは、そのデザインに隠された無数のコンテクストを、無意識的、あるいは下意識的に読解している。しかしそれはあくまでも意識されない処理であり、したがって、その読解が主体のシニシズム(こんなダメダメなものを愛している自分こそが愛おしい、というナルシシズム)に結びつくこともない。そしてこの処理の能力は、単純に、訓練と経験によって身につくものである。


したがって私はここで、二つのフェティシズムを区別しておく必要があるように思う。ひとつはいわば、「自己投射型」のフェティシズムである。この欲望は、主体の直中に空いた穴(これはラカン派がよく好むメタファーである)を埋めるため、何でもいいから適当な対象に注がれるものである。オタクたちはそこでアニメや特撮を好んできたが、実際には前述のように、対象が何であるかは二次的なことであり、対象への愛よりも自己愛のほうが勝っている。

そしてもうひとつが、「知覚訓練型」のフェティシズムである。こちらの欲望は今度は、精神分析的な「主体」の問題とはあまり関係していない。それはむしろ、知覚の訓練に関係している。でじこのデザインを見た瞬間に、どれほど多くのコンテクストや要素をそこに知覚することができるのか、またその組み合わせの妙を先行作品の組み合わせに対してどのように位置づけるのか、その認知的な能力を高めることに彼らの欲望は向かっている。このオタクたちは、オタク的に奇形化したデザインを追求し、またその独特のロジックのなかで形態を複雑化していくことに固執しているのであり、そこではもはや、作品のメタレベルに立とうとする初期のオタク的なシニシズムは見られない。

ここで注目すべきなのは、知覚訓練型のフェティシズムがこの数年、支持者を増やしてきたばかりでなく、また、その要素も増殖させてきたことである。でじこのデザインは、おそらく80年代前半にはこれほど支持されなかっただろう。というのも当時はまだ、猫耳やメイドがオタク的要素として十分に定着していなかったからである。言い換えれば90年代のオタクたちは、猫耳やメイドに対する独特の感覚を育て、その結果ようやくでじこのデザインの複雑さを「知覚」できるようになったわけだ。ここには、マーケティングの進歩という以上に、感覚の独特の進化が伺える。つまり、知覚訓練型のフェティシズムは、変化するフェティシズムでもあるのだ。

私のこのような仮説は、デ・ジ・キャラットのみを参照して作られたものではない。今日は時間の関係上それほど多くの例を出すことができないが、そもそも私の考えでは、『エヴァンゲリオン』のヒット以降、これといって大きな作品が現れていない90年代の後半において、オタク系文化は、新しいフェティシズムの「要素」をつぎつぎと発見することで生き残ってきた。簡単に二つの例を挙げておこう。

ひとつはこの少女[図版]で、これは、97年から98年にかけてカルト的な人気を誇ったあるゲームのキャラクターである。この頭のところに飛び出ている、触覚のような髪の毛に注意されたい。この特徴はこの作品以降、オタク系デザインの随所で見かけるようになった。「触覚のようにピンと撥ねている髪の毛」が、新たなフェティシズムの対象として発見されたわけである。またもうひとつは、この少女[図版]で、ここでは目に注目されたい。後藤圭二というイラストレイターが書くこの完全に円形の瞳は、彼以前のデザインにはなかったものである。しかしこれも、現在ではかなり一般的になっている。「円形の瞳」が、新しい要素として登録されたわけだ。

私の考えでは、「キャラ萌え」に駆動されているオタクたちの欲望は、シニカルなオタクたちと異なり、ほとんどスポーツ選手の訓練への欲望に近い。彼らのフェティシズムはあえていえば、認知の水準を上げること、より複雑にすることに向けられている。

このレベルはおそらく、精神分析の「無意識」という概念よりも(この概念は逆にシニシズムの構造にふさわしい)、むしろ認知心理学の「下意識」という言葉で呼ぶほうが適切なように思われる。というのも、私はここで、専門家の前で恐縮だが、チャーチランドのある書物で紹介されていた、顔を認知するためのニューラル・ネットの訓練実験(コットレルのもの)を思い起こすからである。顔の認識は適切な変数の組み合わせによって行われ、「顔そのもの」についての存在論的な議論などは抜きにして、十分な数の演算ユニットがあれば、顔を認識する装置はあるていど作ることができる。この類比で言えば、90年代のオタクたちの欲望は、自らのニューラル・ネットを訓練し、ときには演算ユニットを増やし、できるだけ多くの変数をもつオタク的なデザインを認知すること、そのことそのものに向けられているように思われる。

「認知への欲望」という概念は、おそらく精神分析的には、語義矛盾で無意味なものということになるだろう。しかし私は、比較的長期間にわたりオタク系文化を観察してきたものとして(また、私自身そのなかに捕らわれているものとして)、そういう言葉でしか表現できないものの存在を感じる。さきほど私は暫定的に80年代のオタクと90年代のオタクを対比させたが、実際には、そのような欲望(シニシズムとは区別される、オタク的な認知の欲望)は、オタク系文化の黎明期から現れている。したがって私は、オタク系の制作者たちがしばしば自分たちの美意識を「オタクの遺伝子がある」「生まれながらにオタク」といった言葉で表現することは、実はある真実を伝えていると考えている。オタク系文化とは私の考えでは、単にポストモダンの典型的なサブカルチャーとして社会学的に特徴づけられるだけではなく、図像のレベルにおいて、「認知の訓練」という特殊な欲望にドライブされ続けてきた文化である。そしてこの点で、オタク系文化は、いかにその見かけが異なっていようとも、最初に述べたように、ハウス/テクノ系のクラブ・カルチャーと近い重要性をもっている。


以上のとりとめもない発表に、何らかの結論を加えるのはきわめて難しい。また私は、この講演の内容が、今回の全体のテーマからもいささかずれてしまったのではないかと恐れている。しかしそれでも簡単に話を纏めるとすれば、私がここで言いたかったのは、つぎのようなことである。

addiction、ハマること、あるいはフェティシズムの問題を考える場合、私たちはいくつかの層を区別する必要があるだろう。廣中先生は、神経生理学的なレベルでのaddictionについて語られた。それに加えて私がここで提示したのは、その上(あるいは下?)にさらに、認知心理学的な「ハマること」と、精神分析的なフェティシズムの層があり、実際の文化世界においてはそれら三層がおたがいに混在しあっている、ということである。そして私見では、クラブ・カルチャーが神経生理学的なレベル(ドラッグ)と認知心理学的なレベル(トランス)の組み合わせで支持者を集めてきたのに対し、オタク系文化は、認知心理学的なレベル(デザイン)と精神分析的なレベル(フェティシズム)の組み合わせで支持者を集めてきたように思われる。この両輪がある点で私には、90年代の日本社会はaddictionの社会的編成のきわめてよい症例になっていたと思うのだが、これはまだ粗雑な思いつきにすぎないので、のちのシンポジウムでみなさんの意見を伺えたらと思う。

2000.10.15公開。10.22修正、2001.11.21ディレクトリ移動




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