そもそも論として、馬が断崖を駈け下れるのかという論議が置き去りにされている。駈け下ることができるのなら、その後の戦でも作戦として使われただろうし、スポーツとして現代まで継承されていたことだろう。
筆者は以前に、高句麗人の清野作戦(人々の暮らす野を空にして山の上に蓄え、侵攻してきた敵に米一粒も与えないで消耗させる頭脳的作戦)について書いた。
高句麗からの渡来人は人知れずに母国に帰っていった
http://dream333.seesaa.net/article/276868717.html
義経一団は一の谷の背後にせまる山に集結したのだろう。崖の下の軍団は青野作戦が取れなくなり、それだけで狼狽して「降参」した可能性もある。
この事件から類推すると、兄の源頼朝が義経を追いやったのも、いつか義経軍が、鎌倉の地の背後の山に集結する可能性を考慮したからと判断できるのである。
NHKや歴史本といった「スクリーニング(都合のいい物だけを通過させる)」以前の原理・原則から歴史をひも解くと真実が見えてくるのである。