SI 給食と合掌
富山県の中学校で、給食のとき「合掌」との号令で食事を始めることに、大阪から転校してきた生徒の父兄から異義がでて、中止になったという。朝日新聞の記事数点。
@1986年7月08日
給食時の「合掌」号令、中止か続行か 富山の公立小・中学校で論争
富山県内の公立小中学校で、子供たちが給食のときに「合掌」の号令とともに手を合わせ
ており、父母の−部から、特定の宗教を強制するものと中止を求める声が上がって、取りや
めた学校も出ている。県教委は「各学校の判断に任せている」として県内の三百十九校の実
態はつかんでいないが、県議会でも取り上げられるなど、「単なる慣習」かどうかをめぐり論
議が広がっている。
富山市内のある中学校は五月、合掌をやめた。きっかけは、入学式で給食を食べる前に合掌の号令をかけることが、日直の仕事として紹介されたことだった。驚いた父母の一人が「仏教の礼拝形式である合掌を公立学校で強制するのは違法だ」と学校に改善を求めた。合掌は、信教の自由をうたう憲法二○条と公立学校での特定の宗教活動の禁止を定める教育基本法九条違反だとしている。
この中学校では長く、給食に感謝する気持ちを合掌で表現してきた。指摘については職員
会議で賛否両論が出たが、全教職員が納得して中止した。校長は「感謝の気持ちの表現は−人ひとり違う。違いを認めることは人権尊重につながり、今後さまざまな宗教的信条をもつ生徒を受け入れるためにも、改善すべきだと判断した」と説明する。
室町時代の僧蓮如が北陸地方を布教したことなどから、富山県では仏教の中でも浄土真宗の影響が強いといわれる。大家族では、食事の前に「合掌」と声をかけるのが父母の役割ともされた。多くの学校でも合掌が慣習化していた。
この問題は県議会でも取り上げられた。六月議会の−般質問では、自民党の川島久一議員が「合掌は日本古来のすばらしい風習。中止するのは教育上好ましくない」と質問した。
これに対して楠顕秀・県教育委員長は「合掌を習俗とみるか、仏教儀礼とみるかは人によって異なる」としたうえで、「家庭でしつけとして子供に伝えるのが望ましく、学校で教えなくても、自然に感謝の気持ちを表現できるのが理想だ」と答えた。
子供たちの反応もいろいろ。中新川郡上市町の小学五年の女の子は「最近はやらされているようで、好きじやない。しょうがないなという気持ちでやっている」。首都圏から転校してきた富山市内の小学四年の女の子は「『合掌』というとみんな静かになるからいい」という。
クラス担任になってから中止させた小学教諭は「これはおかしいと、各教師は思っているはずだ。いちいち職員会譲で決めることではなく、私は自分で判由した」と、なお続けている学校があることに半ばあきれ顔だ。一方で、「自分の子供のころから家でもやっていることで、違和感がない」と話す先生もいる。
魚津市立住吉小では「宗教的なことなのでやめた」とし、中新川郡舟橋村立舟橋小は「不都合は感じていないので従来通り」という。
県教委指導課によると、保護者からの指摘でやめた学校も過去に幾つかある、という。こうした学校の動きに対して同課は「県教委がとやかく言う問題ではなく、学校の判断に任せる」とし、通達などは出さない方針だ。
A1996年07月14日
給食の「合掌」、宗教問題と別(声)
柏市 渡部善助(無職 68歳)
八日付本紙によると、富山県内の公立小中学校で、子供たちが給食のときに「合掌」の号
令とともに手をあわせるのは、特定の宗教を強制するものだと中止を求める声が上がったと
報じている。
学校の教師に仏教の信仰者がいたとしても、給食のときの「合掌」が仏教を強制するため
に行っているとは考えられないし、あまりに誇張した感覚ではないだろうか。当初は仏教的な
所作だったかも知れないが、今では宗教とは別に慣習化していると言う。こういうことまで気
にするならば団体行動を指示する号令は何も出来ない。テレビ等で見ると、他民族でも畏敬
(いけい)・敬虚(けいけん)さの表現は、合掌が一般的のようで仏教だけの行動形式ではな
い。
学校等で団体行動を律するのに号令は当然必要だが、給食を食べ始めさせる単なる命令
なのである。昔の軍隊のように「かかれ」では何とも味気がなく、せっかくの料理がまずくな
る。「食べ始めてください」とでも言わなければ号令の言いようがない。
ある会食の際に合掌する人の姿を見て、食事のパフォーマンスとしてこれは素晴らしいと
感じ入った次第であった。以来、いつでも、どこでも続けている。私は特定の宗教を信仰して
はいない。
(出典 朝日新聞 1996年7月)
【キーワード】 給食 食前 合掌 いただきます 宗教活動
参考
B 1996年 12月10日 朝日新聞夕刊
合掌の風土作法通じて人生教える(宗教と教育 授業の課題:13)
連載「宗教と教育」では、特異な宗教や信条を信じる人たち、その子ども、そして学校現場
の緊張した関係を報告してきた。その問題とはしばらく離れ、今回からは身近な宗教と教育
の関係を取り上げる。人生を考える授業や試みを紹介しつつ、憲法や道徳教育の問題も考える。
「いただきます」の意味問う
金沢市からJR七尾線、のと鉄道と乗り継いで約三時間。能登半島の先にある石川県珠洲市に着く。駅前からタクシーで約二十分走ると、雪景色の山と林に囲まれた市立上黒丸小・中学校がある。小学一年から中学三年まで、全部で五十一人が勉強する併設校だ。
給食の時間。料理が並ぶと、「合掌」と日直が号令をかける。全員が手を合わせ、「いただきま−す」。にぎやかな食事が終わると」また「合掌」の合図があって「ごちそうさま」となる。北陸の多くの学校で行われている作法だ。
この七月、中学二年の学級を受け持つ砂山信一教諭(四七)は、道徳の授業で「なぜ合掌し、『いただきます』というのか」との課題を与えた。十人の生徒は、こんな答えを書いてきた。
《時間をかけて生きてきた動植物の命を奪うのだから、その感謝の気持ちとして》《食べられ
るものにあやまる》《給食を作った人に感謝する》《料理を作った人への感謝もあるが、やはり
野菜や肉など、自然の恵みへの感謝が中心です》
理科が専門の砂山教諭だが、学生のころ、さまざま悩んだ末に親鷲と出会った経験がある。「日々の生業(なりわい)の中にあっても、立ち止まっては生活のすみずみを見つめる、そんな姿勢を教えたかったのです」という。
今年の授業計画では「食事の意味を考える」を目標に掲げた。たとえば、金子みすゞの詩
「大漁」を取り上げ、《浜は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何万の/鮭(いわし)のとむ
らひ/するだらう》という−節を考えさせた。
食肉処理場の仕事を紹介するビデオを見せ、現場職員の「だれかが殺さにや、肉は食べらへん」といっ言葉も聞かせた。苦行を続けていたブッダが、一少女に乳がゆを与えられ、体力を回復した逸話も話している。
C1996年 12月10日 朝日新聞夕刊
○隣県では「憲法違反」の声も
同じころ、富山県議会では合掌の是非が論議になっていた。ある中学生の父母が「仏教の礼拝形式であり、憲法違反ではないか」と学校を批判したからだ。その経緯は改めて紹介するが、砂山教諭は「なぜ問題なのか」と不思議がった。
「人間として、教師として、たしかに仏教を基本に生きてきた。といって、宗派に偏ったことは敢えていない。本来、合掌は仏教だけの作法ではない。クリスチャンも食事の前には手を合
わせる。宗教の違いを超えた、感謝の表現のはずです。ブッダの伝記を教えることも、憲法が禁止する宗教教育とは思いません」
昨年は、中学三年生にオウム事件についての感想を書かせた。いのちの大切さは日ごろから教えており、カルト集団への批判力もある、と考えたのだ。
人口約二万の珠洲市には、真宗大谷派四十二、曹洞宗十二、その他六つの仏教寺院がある。「真宗王国」といわれる北陸地方でも、特に信心深い土地柄だ。市教育長も、上黒丸小・中学校の貞広深宙校長も、真宗大谷派に僧籍がある。同校の卒業生という中年のタクシー運転手は「月々の命日には、ほとんどの家が仏壇にご飯を供えます」と話した。
この二十数年、原子力発電所の建設をめぐって揺れてきた土地でもある。個人としての砂山さんは、珠洲原発反対連絡協議会事務局長の肩書を持つ。「子どもに『いのちを大切に』と敢えてし†る人間として、当然の帰結です」と説明した。建設推進派からは陰口もたたかれるが、真宗大谷派の一任職はこう応援する。
「北陸地方の仏教には、権威に弱い体質がある。学校の多くは合掌を慣習としか考えず、口先だけで『いのちは大切』と教えてきた。しかし、合掌の本来の意味を学ぶなら、人間や自然をどう守るか、という問題に行き着くはずだ。弓垂制はともかくとして、単なる知識教育を超え
た、豊かな人格をはぐくむ機会になる」
「原発反対も畏れの心から」
能登を訪ねると、信仰を持たない人は肩身が狭くなるかもしれない。羽咋郡富来町立西浦
小学校の板橋潔教諭(五九)も、教室での合掌をこう認めている。
「単なる形式なら怖い気もするが、合掌の意味、『生かされている』との思いを学ぶことは大
切です。唯物論者の友人が『教育によって完全な人間ができる』と話したことがあるが、『不
完全な人間が教えている以上、そんなことは不可能だ』と教師の私自身が知っている。いま
はキリスト教会を離れた立場ですが、教育にせよ、原発反対にせよ、大宇宙や神への畏(お
そ)れがあってこそ本物、と思ってます」(菅原伸郎)
D1996年 12月17日 朝日新聞夕刊
こころ
父親の手紙(宗教と教育 授業の課題:14)
四月、富山市立の中学校に進んだ子どもに配られた「入学のしおり」を読み、父親のAさん
は疑問を感じた。「日直の仕事」の項に《給食の時間には、合掌の号令をかける》とあったか
らだ。考えた末に、校長あてに「合掌は仏教の礼拝形式であり、憲法や教育基本法に違反し
ている」と改善を求める手紙を書いた。
中学校側は、二回の職員会議で話し合った。「宗教ではなく、単なる慣習。続けるべきだ」という教師もいたが、結論は号令中止となった。「価値観が多様化している時代だ。異論が出た以上、やめた方がいい」との判断だった。いまは、頭を下げたり、合掌したり、生徒それぞれの形で食べ始めているそうだ。
六月の県議会で、自民党の川島久一議員は「大いなるものへの感謝を表す普遍性ある慣習。しつけとしても大事で、やめる必要はなかった」と批判した。県教委は「学校に任せるべき問題」と答えつつ、中学校の措置を認めた。春までは小ヰ学校の半分が号令をかけていたが、問題が報道されてからはやめる学校がふえている、と指導課はいっている。
真宗大谷派門徒の川島議員は、十二月の本会議でも「存続を求める声は県内外に多い」と発言した。答弁に立った楠顕秀・県教委委員長は高岡市にある浄土真宗本願寺派寺院の住職。「合掌の号令はやめたとしても、感謝の心は育ててもらいたい」と複雑な胸中をのぞかせた。
争点を六つに絞ってみた。
まず「合掌は仏教の礼拝形式」という点だ。魚津市のカトリック教会を訪ね、竹内正美神父
の話を聞いてみた。付属の明星幼稚園では、オルガンの合図で、園児たちが両手をぴったり
合わせて朝のお祈りをしていた=写真。
「祈りに決まった型はありません。指を組む人も、指を伸ばして合わせる人もいる。だから、
合掌に違和感はありません。宗教心のあつい北陸の風土は貴重であり、中止の学校がふえていることは残念です。−部の声に流されることなく、学校は『声なき声』にも耳を傾けてほしい」
プロテスタントでも、ぴったり手を合わせて祈る人はいる。富山県護国神社の栂野守雄宮
司も「社殿で日々手を合わせています。宗教の違いを超えた感謝の表現でしょう」と話した。
『岩波仏教辞典』などにも、ブッダ誕生以前から行われてきたインド古来の敬礼法とあり、合
掌の形自体は仏教だけとはいえないようだ。しかし、富山市で会ったAさんのように、神仏を認めない、宗教を持たない、という立場もある。その思想信条の自由が侵されてはいないだろうか。これが第二の争点だが、土地柄のせいか、富山県ではあまり話題になっていなかった。
残る四つの問題については、次回に報告する。
(菅原伸郎)
E1997年 6月13日 朝日新聞
いただきます 佐藤国雄(食の風景:1)/新潟
「飽食の時代」と言われている。戦中から戦後にかけて、食糧が極度に不足する「飢餓」の時代があった。それに引き換えいまは、お金を出しさえすれば何でも好きなものが食べられる。
が、ものを食べることの喜び、ありがたさ、掛け替えのなさへの実感は薄らいできた。「食は
文化」「思い出を食べる」とも言われるが、むしろ、貧相な時代になったのではないか。
最近の食品・食材は技術革新による商品化が進み、「食」の根本の姿が見えなくなりつつある。我々は動植物、つまり人間以外の魚や鳥獣、草木など、「生きもの」の生命をちょうだいして生きてきた。だからこそ、食べる前に合掌して「いただきます」と唱えた。「お命ちょうだいします」という祈りであった。ところが、近代技術で食品が加エされて姿を変え、店頭に並ぷ。勢い、「いのち」に対する考えも遠のく。
学校給食は、戦後の食糧事情が悪い状況下で始まった。「勉強だけではなく、自立と生活力を育てる体験学習に役立つ」という父母の声がある一方で、「食事づくりは親の責任。弁当で」と、給食を廃止する学校も出てきた。
給食のとき、「いただきます」の合掌をやめた中学校がある。「合掌は、仏教の礼拝形式。公立学校で強制するのは、信教の自由を認めた憲法に反するのでは」と、父母の一部が申し入れたからだという。
その学校では、作り育て、調理してくれた人たちへの感謝の気持ちからであったが、いまは
「いただきます」の合掌の代わりに「給食の時間です」「食事のあいさつをしましょう」と呼びかけ、あとは生徒の自由に任せている。
食べものに、旬も、ふるさともなくなった。本来は秋のものであるキノコは年中無休のエ場
で生産され、海がない山国でヒラメが養殖されている。