たとえば、入間市木蓮寺にある桂川神社の由緒には、「入間市大字木蓮寺字元狭山八百七十八番地と明記されています。これは、歴史上この地が元狭山村の支配下にあったことを示しますが、埼玉県も入間市もそんな史実はなかったことにしています。
もう一つ、高麗神社脇にある高句麗からの渡来人の王である若光の墓があるとされる聖天院(しょうでんいん)には、なんと弘法大師の像が・・・
このことについて、本当の歴史を中学生でも分かるように簡単に記します。
ときは、666年。朝鮮半島北部から現在の中国北西部を支配してきた高句麗は、たびたび唐の侵略を受けたが、青野作戦(人々の暮らす野を空にして山の上に蓄えたてこもり、侵攻してきた敵に米一粒も与えないで消耗させる頭脳的作戦)をもって敵を打倒してきたが、山に火をつけられ苦境に陥った。
高句麗が滅亡することを恐れた国王は、若き王子一行を日本に送った。日本には弥生時代から、「中国(シルクロード)を経由して逃げてきた渡来人」や「百済人のように敵に滅ぼされてやってきた朝鮮系渡来人」がたくさんおり、当時は、和(算数の「和」、民族+民族=「和」)をもって貴しとす、という外国人受け入れの思想が行きわたっていた。
668年高句麗は唐により滅ぼされた。この間に高句麗から日本に渡来した朝鮮民族は相当数であった。
日本国の朝廷(時の最高権力者)は、渡来人を厚遇し「東の国」に生活の地をあたえた。現在の狛江市などはその時の地名が残っていると考えるべきである。
694年、大和(現在の奈良)の朝廷は、藤原京という権力の本陣を築いた。これをみた高句麗からの渡来人は「甘い、中国の大軍が攻めてきたら防ぎきれない。背後にがけのような山がある狭い野に本陣を構えないと平安はない。
」と進言。
アメリカ合衆国同様に、もともと、日本は渡来人の「和」であることを心得ている大和朝廷はこのアイデアを即座に受け入れ、藤原京から北方の狭い野に平城京を建設し再遷都した。それは710年のことであった。
この時に活躍したのが、高句麗から渡って来た渡来人だ。彼らは位置的に日本より早く大陸の文明を知る地域に住んでいた。馬の扱いや製鉄、木造建築などの分野で平城京づくりに大きく貢献したのである。
「東の国」に住む高句麗人も、日本に助けてもらった恩義もあり、平城京遷都の仕事に加わった。持てる知恵、力を出し切ったのである。
この時に、奈良平野の西の野に居を構えた高句麗人は「西野」の姓を北の野に居を構えた高句麗人には「北野」の姓が与えられている。(このことは、当時からの家系を有する西野和弘氏から教えていただいた)
大和朝廷は喜び、東の国に散っている高句麗人に「高麗郷」という地を与えた。その地が現在の高麗神社がある日高市周辺なのである。
この背後に山が迫る「狭い野」に政権の本陣を構えるという知恵は、平安京、鎌倉幕府へと継承されていくことになる。
710年に平城京遷都がなされ、2010年に1300周年記念のイベントが行われたが、遷都6年後の716に高麗郷が誕生した。つまり、平城京遷都を見届けた高句麗人は6年かけて奥武蔵の地に結集したのである。高麗神社では2016年に1300年記念のイベントが催される。
http://www.komajinja.or.jp/1300year.html
話はこれだけでは終わらない。
平安の内に野を開拓し、高麗郷の地に信仰の神社を築いてきた若光を中心とする高句麗人は、728年にある知らせを受け取る。
それは、以前に高句麗が支配していた領域の朝鮮半島を除いた部分(朝鮮半島は「新羅」という国が支配していた)を高句麗民族や周辺の騎馬民族が「唐」から取り戻し、「渤海」という国を築いているという願ってもいなかった朗報であった。
渤海 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
高句麗人は、人知れずに仲間たちが待つ新天地渤海へと帰っていったのである。
渤海に帰った彼らは、今度は日本からの渡来を歓迎した。新羅は敵国であるから、若狭湾(福井県)と渤海を結ぶ交流がなされたのであろう。遣唐使も何回も渤海経由で長安(西安)に入っている。
弘法大師、空海が渤海経由で長安に入ったかどうかの記録はないが、高句麗の地、旧高麗郷に弘法大師の像が建てられていることから類推すると、弘法大師が四国につくった満濃池という溜池は長安ではなくて、渤海から学んだ可能性も否定できない。だから、旧高麗郷に弘法大師の像がある、そう考えたほうが納得がいくのである。
満濃池
http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_kakuti/46_manno/index.html
666年に日本に渡来した高句麗人一行は、六十数年後に静かに帰っていった。今、旧高麗郷の地を訪れても高句麗文化は何一つ残されていない。
それでも、彼らは「白髭神社」と「赤」を残した。
「すとりーてらぁ」小林サヤ佳さんに教えていただいた「彼らが残した赤」
命の赤
絆の赤
情熱の赤
太陽の赤
思い出の赤
そして・・・マンジュシャゲの赤
ウィキペディアより
高松塚古墳
壁画について、発掘当初から、高句麗古墳群(世界遺産)と比較する研究がなされている[3]。四神はそもそも高句麗様式の古墳に特徴的なモチーフであるが、高松塚古墳およびキトラ古墳では高句麗の画風とは異なった日本独自の画風で四神図が描かれていることが指摘されている一方で、天空図に関しては、高句麗から伝来した原図を用いた可能性が指摘されている[4]。また、女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と相似することが指摘されている[5]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
高松塚古墳が大野安麻呂の墓、つまり高句麗人以外の墓としている歴史家がほとんどだが、歴史を日本人優位説で解釈しても何のメリットもない。北朝鮮も含めた朝鮮民族との友好を深めるためには、正しい歴史認識とお互いが助け合ってきた史実を尊重し、互いに敬意を持ってこれからの歴史をつくっていくという前向きな姿勢が必要なのである。