(2004/2/21)
麻原教祖、阿含宗管長桐山靖雄師を斬る!!
■口頭伝授 恐ろしき魔境 第八回 「嘘と貪りのカルマによる魔境」 麻原彰晃 (「マハーヤーナ・No.21」1989年4月号より)
人にはいろいろな生き方がある。正しい道を歩くのも一つの生き方であれば、嘘をつきながら目先の利益を得よう とするのも一つの生き方である。前者の場合、心を清めて魂を高い世界へと引き上げることができるので、真の幸 福があ約束されている。反対に、嘘をつきながら目先の利益を得ようとする後者の生き方は、一時的には楽しみを 得ることができるかもしれないが、心をけがしてしまうので、来世では三悪趣(地獄界・餓鬼界・動物界)に落ちてい く。
そして、私がここに取り上げようとしている阿含宗管長・桐山靖雄氏は、間違いなく後者の生き方をしている人間な のである。
既に桐山氏の言動については、何度となくマスコミ誌上をにぎわせているので、彼の狂言癖については皆さんもよ くご存じであろう。虚偽の学歴を吹聴したり、授かってもいない伝法灌頂を受けたりして阿闍梨(あじゃり)を名乗った りしたことは、有名な話である。
そして、桐山氏が、次から次へと積み重ねていく嘘が、阿含宗の教義にも重大な影響を及ぼしている。そのため に、信徒がその信仰と心のよりどころとしていて根本となるはずの教義が、数多くの矛盾を抱えてしまっているの だ。何しろ、本尊でさえ、桐山氏にとって都合が悪くなると、他のものにすり替えられてしまうのであるから、そのひど さといったらない。彼は大魔境に陥っていると言っても過言ではないであろう。
このような、嘘に揺らいでりる正しくない宗教を信じたりしたら、いったいどうなるであろうか?また、その教えを実 践したりしたら、どうなるであろうか?---身の行いをけがし、言葉をけがし、意識をけがして多大なる悪業を積んで しまうことは明白であろう。
実は、私は以前、拙著『超能力・秘密の開発法』(大和出版)の中で、この阿含宗の問題について、簡単に触れた ことがあった。このとき、私は阿含宗に大きな疑問を抱きながらも、ずいぶん遠慮がちに書いたのだった。なぜな ら、私もかつて阿含宗の前身である、観音慈恵会に入ったことがあったからである。
現世における苦しみから修行の道を志し、ようやく原始仏教に救いを見いだした私は、『阿含経』をもとにしている と誤解して、入会したのであった。経緯はともかくとして、やはり、一度足を踏み入れた以上、そう悪くは書けなかっ たのだ。
教義の矛盾は入会してすぐに知れた。それでも私は、挫折のカルマを作ることだけは避けたかった。そのため、約 三年間かかって、千座行といわれる修行をやり遂げたのである。
しかし、当時を振り返ってみても、良いことは一つもなかったといえよう。桐山氏が提唱していた観音慈恵会の修行 によって、私には真実が全く見えなくなってしまった。そして、煩悩ばかりがやたらと強くなってしまい、それが数々の 不幸を私にもたらしたのである。まさに、私は誤った修行によって、かえって苦難に没入してしまったのだった。
今にして思えば、私がこの宗教にだまされたのは、解脱してすべてのカルマを滅する以前の私自身に、嘘つきの カルマがあったためである。そして、そのカルマが消滅したとき、私は阿含宗(1978年に観音慈恵会は阿含宗に変 わっている)から離れることができ、初めて正しい修行の道を見いだしたのだった。
このように、阿含宗の修行をしたために、ひどい目に遭ったにもかかわらず、以前の私は阿含宗の問題点につい て、あまりはっきりと書きはしなかった。しかし、今回は違う。私が宗教家としての立場から、阿含宗を糾弾しなけれ ばならないと決心したのは、桐山氏の大魔境からくる言葉を信じたがため、迷妄の世界に引きずり込まれていって いる阿含宗の信徒が哀れでならなかったからだ。桐山氏自体は、もう悪業を積みすぎて救いがたい存在であるが、 信徒の方々の場合は、真実に気付きさえすれば、まだまだ救われる道は残されているのである。
実際、私と同じように、以前に阿含宗に入会していった人達が、おしなべて非常に悪い状態に陥ってしまって、何 人も私のオウム真理教に改宗してきているのだ。
初めにも述べたように、桐山氏の悪業については既に多くのジャーナリストが取り上げている。そこでここでは、主 に阿含宗の抱える教義に関する矛盾点を指摘しておきたい。それに対する判断は、本文章をお読みの皆さんに委 ねたいと考える次第である。
阿含宗ではその名の示すとおり、原始仏典である『阿含経』をもとに立宗されたことになっている。そして、桐山氏 自身、今年(1989年)2月26日の講話でも、こう言っている。
「仏陀釈迦牟尼以外のものを崇拝してはいけない。」
と。これは、釈迦牟尼の言葉が最もよく残されているといわれている『阿含経』をもとにしている宗教だから、当然で あると云えよう。
しかし、その一方で、彼はこうも言っている。
「私は求聞持法(ぐもんじほう)をやったから、知能指数が普通の人の2,3倍になっている。そして、この求聞持法 は、三宝の中の重要な法である。」
と。ところがである。仏陀釈迦牟尼の直説であるはずの、そして、阿含宗がよりどころとしているはずの『阿含経』の どこを探しても、求聞持法の「ぐ」の字も出てこないのである。しかも、仏教に精通している人は、すぐ気付くであろ う。求聞持法の本尊は、仏陀釈迦牟尼ではないじゃないか、と。
中村元著の『佛教語大辞典』では、こう説明されている。
<求聞持法>
「虚空蔵求聞持法の略。虚空蔵菩薩を本尊として修する行法で、頭脳を明快にし、記憶力を増大するものとされ、 空海が入唐前に勤操(ごんそう)から授かって修したことで著名である・・・。」つまり、桐山氏は、虚空蔵菩薩を本尊とする求聞持法を修めたと喧伝していながら、仏陀釈迦牟尼以外を崇拝し てはいけないと、矛盾したことを言っているわけである。
彼の教義における矛盾は、もちろんこれだけではない。以下、列挙してみることにしよう。
阿含宗の有名な年中行事に「阿含の星まつり・宝生解脱大柴燈護摩供(ほうしょうげだつだいさいとうごまく)」とい うものがある。これは、信徒から集めた数千万本ともいわれる護摩木を焚き上げて、現世利益を願うものであるが、 火を拝して現世的な願望成就を祈願してはいけないとする『阿含経』の教えに明らかに反している。
また、護摩法を司る神は、火の神アグニである。そして、阿含宗では、アグニのマントラ、
---オーム・バジラグニ・プラディープターヤ・スワハ---
(私は、マントラはもともとのヴァイブレーションが重要であると考えるので、インド式発音で表記した。)を唱えさせているが、これも仏陀釈迦牟尼以外を崇拝するなという言葉に反している。
護摩法について、もう少し詳しく説明しておこう。というのは、オウム真理教でも護摩法が行われているので、宗教 に興味のない人の目には、阿含宗の護摩法との違いがわからないのではないかと思われるからだ。
オウムにおける護摩法とは、インド・ヨーガと原始仏教の流れをくんでいるオウムが、その教義の中心としているタ ントラの儀式の一つである。ここでいうタントラとは世間一般で誤解されているセックス・タントラのことではなく、仏教 における三乗(小乗・大乗・真言秘密金剛乗)の一つであるタントラ・ヴァジラヤーナのことをいう。
そして、本来この護摩法とは、修行の手助けをしてくださる神々を純粋に供養するためのもので、自己の欲望や煩 悩を満足させたり、現世利益を考えてなされるものではない。
オウムで行われている護摩法も、私のためではなく、すべて他人のため、真理の流布のために実施されるのだ。 護摩木に願望を書いて火にくべるなど、はなはだしい無智といえよう。それは、カルマの法則をきちんと理解してい れば容易にわかることだ。火を自己の欲望を満たすために利用すれば、必ずや火によって苦しむときがやってくる のである。
次に、行法について述べよう。以前、桐山氏は因縁切りの「準てい尊千座行」で解脱できると説いていたが、各方 面から、「仏陀釈迦牟尼は、そんな教えを説いていない」 「『阿含経』には、そんな修行法など出ていない」 「だれも 解脱できなかった」 などと指摘された。そのため、1986年、スリランカより真正仏舎利をもらい受けたのをいい機 会に、「千座行」をなくしてしまった。そして、もっともらしくこじつけて、「仏舎利尊・解脱宝生行」という修行法にすり替 えてしまったのである。
その理由というのが、またおかしい。つまり、桐山氏によれば、それまでの「千座行」というのは観音慈恵会当時の 行法であるから、阿含宗となったからには、おのずと行法も変えなければならないというのだ。しかし、阿含宗がそ の名を変えたのは78年である。彼の理論からいえば、当然そのとき変えてしかるべきである。にもかかわらず、そ の後何年もしてから、「仏様(?)のご霊示」が下ったから行法を変えるというのだ。お得意の嘘の延長線上に、メイ ンとなる修行法のすり替えがあったのだ。
まだある。仏陀釈迦牟尼は、輪廻転生を説いているのに、阿含宗では先祖供養や水子供養などを行っている。こ んなことをやっていたら、仏陀釈迦牟尼の教えを全く信じていないと公言しているも同じではないか?
なぜなら、仏陀釈迦牟尼の教えでは、魂はすべて死後、次の世界へと転生してしまっているからである。自分の先 祖であった人の魂もである。つまり、実体のないものに対して行っているのが先祖供養や水子供養であるということ になるのだ。にもかかわらず、阿含宗では、「阿含宗は釈尊の本当の成仏法により、どんな不成仏霊でも成仏させ、 霊障を解く成仏力を持っている。」 と臆面まなく言い切っているのである。とても求聞持法を修めたといわれるほど の人がやるとは思えない愚行といえよう。
しかも、「千座行」をやれば、あらゆる悪因縁を断ち切れるとしながら、普通の不成仏霊ではない、強い霊障を生じ た不成仏霊や水子を供養するためには、「不成仏霊解脱供養」「水子霊解脱供養」を受けるように勧め、一体十万 円の供養料を得ている。
そもそも、仏陀釈迦牟尼がどこで霊障や水子を説いたというのであろうか。これも、阿含宗の特色といえば特色で ある。
「千座行」について、もう一つはなはなだしい矛盾を指摘しておこう。桐山氏はこの「千座行」は、「釈尊の成仏法、 七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうぼん)にのっとって、修行法と梵行から成り立っている」と言っていたのだ が、実はその「千座行」で使われる経典の中には、約七年間、『阿含経』がどこにも含まれていなかったのである。
それについて桐山氏は、1985年9月の例祭法話で、観音慈恵会からの聖典を改定するのは大変だから、しばら くの間は『阿含経』は自分一人が信徒を代表して行じ、何か機会があったらそのとき考えよう、としてきたと述べてい る。そして、ようやく「仏様のご霊示」が下ったとして、85年11月、それまでの経典に『雑阿含経』と『増一阿含経』の 一部を抜粋した「仏説阿含経」を追加した『阿含宗千座行聖典』を新しい経典とさせたのである。
釈迦牟尼を崇拝するとしながら、信徒が行をなすための最も基本となり、信仰のよりどころとなるはずの経典に 『阿含経』を載せず、自分一人が代表して行じてきたというのだ。こんなおかしな話はあるまい。
ちなみに、桐山氏が七科三十七道品をいつ、どのようにして修めたのかも定かではない。これも不思議なことであ る。
さて、次は酒の問題である。『阿含経』における在家の戒では、酒を厳しく戒めているというのに、阿含宗では酒を 公認している。阿含宗名物の「星まつり」の打ち上げなどでは、盛大に樽酒が振る舞われるという。それも、桐山氏 自ら音頭を取って乾杯し、阿含宗の発展を祝うというのだから、ひどい体たらくである。それだけではなく、献酒とし ても在家信者に酒を使わせているのだ。そんなことをして仏陀釈迦牟尼が喜ぶとでも思っているのだろうか。
次に阿含宗のマントラにまつわる問題を採り上げてみよう。
阿含宗ではよく唱えられているマントラに、---オン・サラバ・タータギャータ・ハンナ・マンナノウ・キャロミ---という ものがある。これはインドの正確な発音をもって記すならば、オーム・サルバ・タターガタ・パーダ・バンダナム・カロミ ---であり、その意味は、(オーム。すべての如来のお御足を、私はいただきます) ということである。
つまり、すべての如来を礼拝するということだ。ここでも、「仏陀釈迦牟尼以外を崇拝してはいけない」という、桐山 氏の言葉とは裏腹なことを日常的に唱えているということになる。嘘に嘘を積み重ねていくと、何が本当だったの か、自分でもわからなくなってしまうのだろう。
---オン・ソワハンバ・シュダ・サラバ・ダラマ・ソワハンバ・シュドカン---というマントラが、また面白い。この意味は、 (オーム。すべてのものの本性は清らかなり。我の本性も清らかなり) というもので、これは密教の教えに属するも のなのである。『阿含経』であったなら、当然八正道の中の正念で、四念処が説かれているので、<我が身、これ不 浄なり>とならねばならないところだ。『阿含経』に代表される原始仏教と密教が、まるでごった煮風に共存している ところも、阿含宗の教義のいいかげんさの象徴であろう。
いろいろと挙げてみたが、これらはまだほんの一部である。もっと知りたいという人がいれば、もちろん他にもたく さんの矛盾点を挙げることができる。
これらすべてをとおして、何よりも私がひどいと思うのは、前にもちょっと触れた本尊のことである。仮にも宗教組 織であるなら、本尊は最も重要なものであるはず。にもかかわらず、阿含宗の本尊は、準てい観音(準てい如来)か ら、仏舎利にすり替えられてしまったのである。この仏舎利は、86年4月、桐山氏が130名の教団関係者を引き連 れてスリランカを訪れ、持ち帰ったというものだ。桐山氏は、釈迦牟尼の遺骨を収めたといわれる仏舎利を本尊とし た方が、宣伝効果があるとでも思ったのだろうか?(それが事実遺骨を収めているかは疑問である。)それとも、自 分自身が仏舎利を手に入れたということに感激したからであろうか? いずれにしろ、本尊がすり替えられたという 事実には、唖然とするばかりである。
もし、これをオウムに当てはめてみるならば、それまで、「グルとシヴァ神に帰依し奉ります」と唱えていたものを、 ある日突然、「天照大神に帰依します」とする替えるようなものなのだ。
長年ひたすら励んできた行が、結局は駄目だから、今度はこれをやりなさいと言われたり、一心にその信仰の対 象としていた本尊が、こちらの方が霊験あらたかなので、取り替えますと言われてしまったら、苦悩からの解放を願 って一途になしてきた今までの修行はいったい何だったのだろう、と普通ならば思うところである。信徒の方々は、こ れを知ったとき、どのように自分を納得させたのであろうか?
ところで、最近の講話(89年、2月19日・於関西総本部)で、桐山氏がオウム真理教を中傷していたということを、 私は信徒の一人から聞いた。彼は阿含宗から改宗したという人で、阿含宗時代の友人から教えられたのだという。
彼が阿含宗が貸し出していた問題の講話ビデオをダビングして送ってくれたので、私も見てみたが、その内容は 信徒の言葉どおりひどいものであった。まさに、ビデオが彼の嘘を記録していた、という感じである。一部をご紹介し よう。
-------------------------------
阿含宗の信者は、そういうもの(オウム真理教のチラシ)をいくら渡されてもね、迷っていく人なんていうのはほとん どないですよ。2,3人くらい、あんまり頭の良くない人が行ったようですけどね。で、何をやっているかっていうと、教 祖の血を飲まされているんですよ。このくらいのコップに一杯五万円だそうです。うちの特別祈願護摩札と同じです ね・・・・(意味不明)・・・・・。私は五百万円もらったって自分の血を人に飲ませようなんて思いませんよ。気味が悪 い、そんな。人の血も飲みたくないし、自分の血も飲ませたくない。ところが、その血を飲むとね、その教祖の持って いる神通力が得られるっていうんで、一杯五万で飲ませるっちゅうんですよ。しかし、それを私は見破っているの。彼 の本当の血じゃないのよ。輸血用のね、血漿(?)の血を買ってきて、そのアンプルを切って、それを飲ませている。 だから、それ、私聞いたんだ。それを目の前で、血管切って、血を採ってね、飲ませるのかって。そうじゃなくて、奥 から持ってくる。冷蔵庫かどっかから持ってくるんでしょ。輸血用の血漿液ですよ、そんなものは。輸血用の血液を飲 ませて、五万円で買わせて、飲まされて。駄目なんだ、私はね、求聞持法やっているから、からくりがすぐわかっちゃ う。
--------------------------------- 彼は、自分の教義に密教を取り入れているというのに、密教については、はなはだ無知であることが容易に理解 できる。彼がここで取り上げた「血のイニシエーション」について説明しておこう。
イニシエーションとは、そもそも宗教的な指導者から弟子への秘儀伝授のことをいうのだが、この「血のイニシエー ション」とはチベット密教の古い経典『ンガリン』にも記述が見られる伝統的な儀式で、チベット密教ゲールク派にお いてはタントラ・イニシエーションの中の第二イニシエーションとされている由緒あるものなのである。一般にはワイン のようなものが使われるが、指導者と弟子が共に高度なレベルである場合には本物が使われることがあるのだ。
こういったイニシエーションには、現代の感覚からいえば違和感を覚えるものもあるかもしれない。しかし、仏教の 世界においてもそのような例は伝わっている。仏陀釈迦牟尼が入浴した水が、<奇跡の水(ミラクル・ポンド)>とし て多くの人々に愛飲されたと言うことを知れば、皆さんも納得されるのではあるまいか。
オウム真理教で、この「血のイニシエーション」が行われたのは、過去に一回だけある。それは、このイニシエーシ ョンがオウム真理教の数あるイニシエーションの中でも最高峰に属するもので、決して「血を売る」ようなものではな いこと、そして私の肉体的な負担が非常に大きいことといった背景があるからだ。そして、今後おこなう予定は今の ところない。それほど高度なイニシエーションなのである。桐山氏の中傷は、まさに彼の密教に対する無知から生じ ているといえよう。
そして、彼は忘れている。1980年に、「阿含宗はチベット密教と全く同じである」と自ら発言したことを----。このと きは、チベット密教のダライ・ラマ法王との関係を成立させたりしていたので、虎の威を借りる狐のごとく、法王の名 を利用したのかもしれない。が、こういう発言をする以上、密教のイニシエーション等、教義に関することはよく勉強 しておいていただきたいと思う。まあ、もとを正せば、『阿含経』と密教をごっちゃにしている彼の教義にこそ問題があ るのであるが。
それから、一杯五万円で血を飲ませるだとか、輸血用の血液だとか、事実に反することが、どこから出てきたのだ ろうか? これでは、求聞持法を修したという頭脳に、妄想が詰まっているのだとしか考えられない。普段から嘘を つくことに慣れているから、講話においても口から出まかせが出てしまうのだ。
私には、この尊いイニシエーションを売るようなまねはできないし、してもいない。また、輸血用の血液など使いもし ない。実際には、私に専門医と正看護婦それぞれ一名が付き、厳重な衛生的管理のもとで採血されたのである。し かも、イニシエーションを受ける人々の眼前で−−。
イニシエーションはすべて秘儀に属する霊的エネルギーの移入であるから、ここで詳しくその内容を書くことはでき ない。が、桐山氏の嘘を証明する必要があるならば、専門医と看護婦、イニシエーションを受けた三十名の信徒、そ して付き添っていた大師達が証人となってくれよう。
そして、念のために言っておくならば、阿含宗を見限ってオウム真理教に改宗した人は多いのである。しかもそれ は、彼が言うような「頭の良くない人が、2,3人」なんてものではない。長年阿含宗の幹部を務めあげてきた方々を 含め、その数はどんどん増えているのだ。そして、オウム真理教の修行で順調にステージを上げ、クンダリニー・ヨ ーガの成就によって、大師となった人でさえ8人もいるのである。ペンを置くにあたって、私は、阿含宗管長・桐山靖 雄氏が早く自己のなしている悪業を反省し、人々を惑わすのをやめることを願いたい。また、仮にも一宗を率いる教 祖なのであるから、根も葉もないことを言ってオウム真理教を誹謗・中傷するまえに、もっと仏教や密教の教義を勉 強していただきたいと思う。
そして、私は阿含宗の信徒の方々に心から訴えたい。真の宗教とは何なのか、真にあなた方を幸福にする教えと は何なのかをもう一度よく考えてほしい、ということを。真理ではないものに帰依し、修行に励んでも、あなた方が本 当に心の底から望んでいる幸せは得られない。そればかりか、知らず知らずのうちに悪業を積み重ねてしまうことに もなるのだ。
私はここで一つの目安を示したいと思う。その宗教団体が真理であるか否かを見極めるには、以下の四つの条件 を考慮すればよい。
1.きちんとした矛盾のない教義が存在していること
2.様々な修行法、瞑想法、イニシエーションを含めた、その教義にのっとった修行体系を整えていること
3.その修行体系にのっとって修行をした結果がきちんと出ており、それを証明できる者が存在していること
4.修行者を目的地に導いてくれる信頼できる指導者が存在していること
そして、この四つの条件を正確に満たしている宗教的な組織といったら、現在オウム真理教しか存在していないの だ。
阿含宗からオウム真理教に入る人はいても、オウム真理教から阿含宗に入る人はいない。もし、これまで私が述 べてきたことに、まだ疑問を感じる阿含宗の信徒の方々がいるならば、既にオウム真理教の修行を実践するように なった、かつての仲間に聞いてみればよい。必ずやあなたの疑問を解いてくれることだろう。
そして、一日も早く真理に目覚め、本当の幸福をつかんでもらいたい。今のままでは、幸せどころか、かつての私 のように、いずれ本当の魔境に陥ってしまうのは間違いないのだから。
オーム・マハー・シヴァ・ハム・サティアン
(「マハーヤーナ・NO.21」より転載)
ロバートサーマン教授のダライラマ法王論(タイム誌)
元サマナ(ナーギタ師)の個人的見解(オウム教義批判)
元オウムサマナ、メロン氏、オウムを語る--(1)--
リフトン教授オウムを語るNo1
ロバート・J・リフトン教授ロサンゼルス世界問題評議会における講演 「終末と救済の幻想」--オウム真理教とは何か--
元プンナ・マンターニプッタこと大内利裕被告の陳述
オウム真理教をホーリスティックに捉える
元サマナてんまさんと、現役サマナ神秘さんとの真理闘論(1)
ホームページ