陸軍史あちらこちら(152)『特別版・上越高田駐屯地』 荒木肇先生
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陸軍史あちらこちら(152)
荒木肇
『特別版・上越高田駐屯地』
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□はじめに
先週の末、開花が遅れていた新潟県上越市の陸上自衛隊高田駐屯地の創立記念日にお招きを受けて出かけてきました。現在は、第12旅団(司令部は群馬県相馬原駐屯地)の隷下にある第2普通科連隊と第1施設団(同茨城県古河)の隷下部隊第5施設群が主力となって駐屯しています。
高田の街は江戸時代初期から始まる穏やかな城下町です。駐屯地は城外にありますが、昔の野砲兵聯隊の跡地であり、陸自はその砲廠をそのまま使っています。もっとも老朽化のため、目的はまったく違っていますが。衛門の位置もそのままで、妙高山を見はらすことができるいい場所です。
今回は特別に高田と軍隊について思いついたままに書いてみます。
▼師団番号と特科隊の番号
帝国陸軍から始まって、今の自衛隊でも師団に属する「特科隊」は師団番号と変わらないのがふつうである。この特科隊という言い方も解説が要るだろう。帝国陸軍では歩兵が「主兵」だったから、騎兵や砲兵、輜重兵、工兵などの部隊を、わざわざ「特科隊」といったのだ。この特科隊の番号は、まず、師団番号と同じになる。たとえば、名古屋に司令部をおいた第3師団の騎兵隊は第3騎兵聯隊であり、野砲兵も第3聯隊、工兵も輜重兵も同じである。
この事情は、いまの陸自も変わっていない。首都東京の第1師団の特科隊は第1だし(ただし駐屯地は北富士)、後方支援連隊(同練馬)も施設大隊(同朝霞)も通信大隊(同練馬)、偵察隊(同前)、戦車大隊(同駒門)もみんな第1がついている。
ところが、その原則が守られていない部隊があった。新潟県上越市に司令部があった第13師団の野砲兵聯隊のナンバーは第19であり、騎兵は第17になっている。工兵と輜重兵は第13である。この理由がすっきりと説明できたら、かなりの歴史通というより陸軍史マニア(笑)になるだろう。
▼鎮台から師団へ
わが国の陸軍は明治維新からしばらくは「鎮台(ちんだい)」といわれる単位が基礎になっていた。西南戦争では熊本鎮台が主力になって籠城戦を戦った。それが師団に改編されたのが1888(明治21)年のこと。第1から第6までの6個師団と近衛師団という7個の師団で1894(明治27)年、翌年の日清戦争を戦った。もっとも、近衛だけは経費の関係から3年遅れて1891(明治24)年まで待つことになった。当時は、海軍の整備が優先されていたからだ。
歴史家の多くは、この師団改編を『外征型』といい、『大陸侵略のため』と決めつける言い方をするが、よく考えてみるといい。専守防衛だとすれば国内が戦場になる。着上陸地点を選べるのは敵側である。長い海岸線をもち、離島が多いのがわが国の特徴。攻める側が主導権をもつことになる。語弊を恐れずにいえば、鎮台制度とは現在主張されてきた『動的防衛力』のことともいえる。平時には防衛上の空白地点があってもいい、そこに旅団が駈けつければいい・・・というのが当初の考え方である。
『大陸への侵略』という言葉がふさわしいか知らないが、当時の清国が攻めてきたらどう対応すればよかったのか。そういう力や意思が清国にあったかどうかの検証は後知恵である。軍隊の存在意義が抑止力、手を出すのはやめておこうかなと思わせるものでもあるから、当事者たちの思いは真剣なものだっただろう。師団への改編は、当時のわが国の為政者たちの精一杯の意思表示でもあった。
国内戦ができるかどうか。当時のわが国の状況では、それは圧倒的に不利である。まず、細長い島国だから海岸線が長い。人の住む離島も多く、海軍力が清国より劣っている。相手は恫喝外交が大好きだから、大きな軍艦をもってきて示威行動をとった(1891年)。有名なのが清国艦隊の乗組員が長崎の街を荒らし回って、わが国の警察官までが殺傷された事件である。『坂の上の雲』の中にも旗艦の中でバクチをしたり、不規律な態度をとったりしていた清国海軍の様子が描かれているが、当時、日本中を恐怖させた「長崎事件」は描かれていない。
細長い島国だから着上陸を阻止できなかったら、陣地に頼って戦うしかないが奥行きは当然狭くなる。薄っぺらい防禦線しか築けないのだ。民間人が多く住んでいるから大混乱である。専守防衛というのは、そうした事実を知った上での主張なら、たいへん勇気のある決断だろう。
▼日露戦中につくられた第13師団
その昔、7個師団だったころには新潟県には歩兵聯隊は1個しかなかった。下越の新発田(しばた)にあった歩兵第16聯隊である。この聯隊は歩兵第3旅団(第2師団)で仙台の歩兵第4聯隊とペアを組んでいた。日露戦争に備えての師団増設が行われたが、近衛、第1から第12までの合計13個師団態勢で日露戦は始まった(1904年)。この時には、歩兵聯隊が増設されて、新発田には歩兵第15旅団司令部が置かれて、膝元には歩兵第16聯隊があり、歩30は新津に移駐していた。
そして、日露の大激戦。もっと現役師団をと工夫され、高田に司令部をおく第13師団が1905(明治38)年3月31日に「動員」が下令され、4月11日に完結する。その人・モノの集め方がたいへんなものだ。なにぶん、奉天会戦が終わって、補充に苦労していたころである。高田に集められた野砲兵第19聯隊本部は野砲兵第8聯隊(青森県弘前)の補充隊から(以下すべて補充隊から)、第1大隊は近衛と第1聯隊(以上東京)と第2、第3から人を引き抜いた。第2大隊はやはり弘前と金沢(第9聯隊)から集められていた。第1大隊は31年式速射野砲4個中隊(24門)、第2大隊は同じく山砲(2個中隊・12門)である。
では、なぜ、第13という名称ではなく、第19だったのか? それは1899(明治32)年に、第1砲兵旅団が編成され、その隷下に第13〜15聯隊がつくられたからである。同じく第16から第18の3個聯隊は第2砲兵旅団になっていた。これらの部隊は多くが1922(大正11)年の軍縮で廃止されている。
▼城下町高田
もともと高田城は60万石を得た松平忠輝が築いた。平野の真ん中にある平城である。外堀は自然の川の流路を変えてつくった。だから今も穏やかな流れが市内にいく筋もある。興味深いのは石垣がない。天守閣もない。おそらくこれはわずか4カ月で造られた突貫工事だったせいらしい。石垣がなく、堀ぎわに造られた土塁の上に復元された三重櫓(やぐら)のみがあった。
高田の第13師団は大正軍縮で廃止の憂き目をみた。歩兵第15旅団(新発田)の歩16(新発田)、歩30(村松)、高田に司令部があった歩兵第26旅団の歩58(高田)、歩50(長野県松本)、騎兵第17(高田)、野砲兵第19(高田)、輜重兵第13、騎兵第17も解散された。
高田に砲兵のヒズメの音がなくなったわけではない。陸軍は地域に冷たくはしない。1925(大正14)年5月に独立山砲兵第1聯隊が野砲兵聯隊跡地に進駐した。そして、この聯隊は1937(昭和12)年には新鋭の94式山砲を装備し北支那に前進し、第20師団の隷下に入って奮戦する。
▼陸軍史上のみどころ
駐屯地のすぐそばに「師団長官舎」が移築、保存されている。施設群の幹部に聞くと、市によって移築されて、若いころは自衛隊のBOQに使われていたそうだ。BOQとは臨時に宿泊する隊員や、部隊の若手幹部の宿舎のことである。「新隊員のころはここで作業としてペンキ塗りなんかもしました」と話してくれた。第2普通科連隊の若い幹部だった前陸上幕僚長のH陸将も、ここで寝起きしたのかと感慨があった。
有名な師団長としては、第3代の長岡外史(ながおか・がいし)中将と、第4代の秋山好古(よしふる)大将だろう。長岡はどうしてか大将になりそこねたけれど、陸大1期卒業である。有名なプロペラヒゲを立てていた。航空軍備を推進したり、下士官の待遇改善を主張したりと先覚者である。もっと功績をあげれば、オーストリア帝国のレルヒ少佐を招いて、わが国初の欧州式スキー技術の導入をしたことだろう。
▼大震災への派遣で活躍した2個部隊
第5施設群も第2普通科連隊も、どちらも昨年の派遣では現地に出動した。その活躍の様子は拙著『東日本大震災と自衛隊』を参照されたい。
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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
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2012-04-28 00:45
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