| 第16回 | 僕の理想の死に方 |
| 第17回 | イタコは『組合が違う』とつぶやいた |
| 第18回 | 僕のゾンビがモー娘。で |
| 第19回 | 殺る時は一突きで殺れ! |
| 第20回 | 筋肉少女帯のボーカリストが代わります!! |
| 第21回 | ゾンビとモー娘。と放送禁止歌手の生涯 |
14歳から17歳までの少女ばかりが突如として大量狂死を始め、それどころか肉を食らうゾンビとなってこの世を徘徊し、ステーシーと呼ばれる彼女らの体を165分割して再び闇に帰すための部隊と、血で血を洗う戦いがくり広げられるという、持ってくとこに持ってったらすかさずアウト!宣告を受けるであろうエグい内容の拙著「ステーシーズ 少女再殺全談」が、こともあろうにモーニング娘。さんでミュージカル化が決定。
「ステーシーズ 少女再殺歌劇」として舞台化。
連日満員御礼ですでに千秋楽を迎えた。
この企画が通ったと聞いた時、思わず脳内に「〽通すの通さないのどーするの?通す!!」との懐かしき野坂昭如先生の歌声が響き渡ったものだ。
集団アイドルグループの老舗ブランドはサブカル対応もモーマンタイ!底力ということか。
ゲネプロと千秋楽を観に行った。
素晴らしかった。
何よりまずモーニング娘。各自のポテンシャルの高さである。
原作の通りに、死ぬ直前には狂笑を始め、死んだ後は肉を求める餓鬼としてよみがえり、マシンガンやチェーンソーによって肉体を切り刻まれていく地獄絵図であるというのに、つねに舞台上の彼女たちが美しく、かつ品があるのである。
僕はC級アイドルさんや地下アイドルちゃんとか全く否定しないしむしろ大好きだけれど、あの特別な「品」というやつだけは天賦の才を持って生まれたスターにしか出せないきらめきだってのは否定できない事実であるし、それは表現している時のその人の指先に残酷なくらい有無がハッキリ出るものなのだなと感じる人もいるかもしれない。
とはいえ、いかにスター集団とはいえ少女たちである。
若い娘の顔と名前がまるで覚えられない一致しないという、ステーシー化現象よりも恐ろしいオヤジ化現象の加速している原作者先生のミーとしては、ハロプロのホムペとか連日見て「えっと、モモ役は鞘師里保ちゃんでニックネームがりほりほね…あ、このコ、ん?あ、違う!このコはえりえりだっ!」
猛勉強の日々である。
田中れいなさんはテレビなどでたまに観ていたので知っていたのだが、モー娘。は最近9期生10期生が入って大幅なメンバー入れ替わりがあった上に、新メンバーが12歳とか14歳の幼さなんである。
おっちゃんの目には誰がりほりほでもえりえりでもズッキでもくどぅでもまーちゃんでもだーいしでもフクちゃんでも「かわいらしいなあ、いいコたちだなあ」で統一認識均一化してしまうのである。
それでも公演直前までに覚え(公演直前に会場近場のドトールで最終勉強有り)、終演後にうかがった楽屋で、礼儀正しくあいさつをしてくれる彼女らに思いっ切りのドヤ顔で成果を試してみたものである。
「今日はありがとうございましたっ!」
「いやこちらこそ素晴らしい舞台化をありがとうね…で、君は…○○ちゃんだね(どや!?)」
「はい(ですが、なんでしょう?といった表情)」
「○○ちゃんだろっ(どや!?おっちゃん知っとるんやでえ、といった決め顔)」
「はい(ですからそうですが、なんでしょう?といった笑顔)」
「そう、○○ちゃんさ(『ワイルドだろう?』とさえ言いかねないキープした決め顔)」
「…はい(やや不審気となる)」
「………おつかれさん(ドヤ顔のまま会話続かず去っていく)」
少女たちにとってはオヤジ化現象の恐怖などというものは知るよしもない遠い異国の物語であるからして、そりゃそういう反応になるのが当たり前ってもんである。
しかも「はるなん」がニックネームであるメンバー(17歳)を「はるぽん」(安易に(ぽん)を付けてしまうところが我ながらアラフィフ感覚丸出しである)と呼び間違えた上、逆に突然すごい勢いで彼女から「ジョジョの奇妙な冒険」について矢継ぎ早に質問を受け、ドヤ顔どころか「え?ん?何?レッドホットチリペッパー?んぁ?ほぇ?」たじたじとなって場から逃げるという体たらく。
後でわかったのだが、はるなんちゃんは漫画が大好きで、ジョジョに登場するレッド・ホット・チリペッパーこと音石明というキャラが、若かりし頃の僕によく似ていることの真相を尋ねてくれていたようだ。
真相は多分、その昔に荒木飛呂彦さんと対談した際、まんま音石明なメイク・ルックスであった当時の僕を見た荒木さんが面白がってくれて、キャラクターデザインの参考にしくださったのではないかなぁ…と。
だとしたら実に光栄なことです。
そういえば「ステーシーズ」劇中、唱歌「今日の日はさようなら」に乗せてムゴいシーンが起こる場面が有り、「お、映画版の『エヴァ』みたい」と思ったのだけど、よくよく考えたら「ステーシーズ」の方が先でした。
忘れてた。
原作者先生どこまでも老化激しい。
もしも拙著を参考にしてくれてたならこちらも実に光栄なこと。
逆に告白すれば、くどぅちゃん演じるドリューという「ステーシーズ」のキャラが登場するなり「バーカ!」と言うのだけれど、あれはそもそも惣流・アスカ・ラングレーのがらっぱちな口調にちょっとインスパイアされて言わせた台詞である(と思う多分、そんな記憶が今)。
これらはパクリとかそんなんじゃなくて、80年代からのサブカルチャーでは、リスペクトある他作品からの引用、オマージュのコラージュが創作の手法として重要であったということである。
…生命の輝に満ち溢れたアイドルたちのステージを観た後、帰宅、深夜「放送禁止歌手 山平和彦の生涯」和久井光司著を読んだ。
70年代フォークブームで一時期は頭角を現すも、1stアルバムが放送不適切とされ回収になってしまったシンガーソングライター・山平和彦。
やがて歌うことを断念するが、50代でもう一度歌おうと決意。
しかしその矢先、ひき逃げによって命を落とした山平さんについて、その軌跡をたどった本である。
僕は、人が何かを成し遂げ、輝くために必要なのは才能と運と継続力の三つであると思っている。
ジャンケンのようにその三つはつねに人間の内外で勝ったり負けたり足の引っぱり合いをしている。
アイドルも70年代フォーク歌手も大槻ケンヂも読者の皆さんもそのトライアングルの中で日々戦っている。
しかし旬のアイドルという時期にある人々だけは、このトライアングルが見事に正確な三角形を型作っている奇跡の一瞬にあるのだろうなぁ、そりゃ輝きもするわな、と「放送禁止歌手 山平和彦の生涯」なんてタイトルの本だというのにまったく奇妙な午前3時の読後感。