2012年06月30日

方言が教えてくれる鎌倉時代の庶民生活@


埼玉県と東京都にまたがる旧元狭山村は、鎌倉幕府にとって特別な場所でした。まず位置関係を頭に入れてください。

瑞穂町地図 001.JPG


幕府が最初にやったこと、それは「宿」づくりと産業づくりの拠点づくりに違いありません。そのために鎌倉街道(後世の日光街道も東海道も鎌倉時代には「鎌倉街道」です)を鎌倉から北へ伸ばしていきました。

その、交通と製茶産業の要所が元狭山村という小さな村でした。

瑞穂町発行「瑞穂町元狭山村合併誌」より
<引用開始>
地図でみると、瑞穂町は、少しイビツな三角形を逆さに立てたような形をしている。(筆者註:赤線で囲った部分から黄色で示した元狭山村を差し引いた地域)
東は北多摩郡村山町、昭島市と境を接し、南と西を福生町、羽村市、青梅市に囲まれて、北方を底辺にして逆立ちした三角形は、その重さのために底辺の一部が陥落して、その部分が頂点付近に押し出されたという格好である。そして、その上に、これはまた底辺の突出した、ひとまわり小型の三角形が、すっぽりとはまりこんで乗っている。それが元狭山村である。
この底辺と底辺の接触点が描く曲線が、二つの町村の境界線であると同時に、東京都と埼玉県の境界でもあるが、元狭山村の、底辺を除いた他の二辺は武蔵町に囲まれているので、もし境界線を意識に置かなければ、それはちょうど、瑞穂町が武蔵町に打ち込んだクサビのように見える。
実は、と開き直るまでもないが、このクサビがクサビでなくなったのは、(両町村が、この境界で東京都埼玉県に分かれたのは)もちろん明治に入ってからである。それ以前、つまり江戸時代には、この二つの町村は“天領”(幕府直轄地)という一つの地域社会の中で、一緒に生活していた間柄なのである。当時周辺一帯は川越藩の領地であったから、元狭山村は、川越領に打ち込まれた、天領のクサビでもあった。
身分制度の厳然と確立した封建社会では、同じ農民であっても、一般諸大名の領地に住む者と天領のそれとでは、はたのみる目も農民自身の気質にも大きな違いがあった。天領地の農民は、“天領の民”としての誇りを失わなかったし、またどことなくそれらしい応揚さもあった。公方様直々の御領地であるということが、どれだけ誇り高きものであったかは、いまさら直参旗本大久保彦左衛門や白柄組に例を引くまでもなく、容易に想像できることである。従って彼らは、諸大名治下の農民とは別の、一種独特の地域社会をつくり、その社会環境の中で生活していたのである。
昭和の今日、百年もそれ以上も昔のことを持ちだすことは、アナクロニズムという批判を受けるかもしれないが、それは当たらない。農民の心の中には、百年前の考え方や慣習が、まだ生きている。農村の悲劇の多くは、これを無視しようとしたり、変革しようとしたりすることからもおこるのである。
瑞穂町と元狭山村は、反射炉で有名な伊豆韮山の代官江川家代々の支配に属し、ともに天領として、いわば兄弟同様に、一つ家で育った幼馴染であったのである。時代の流れは、この幼馴染を別れ別れにしてしまったが、それから一世紀を経た昭和29年、また一緒に暮らそうではないかという気持ちを、双方で持つようになった。そのきっかけをつくったのが、町村合併促進法であった。

<引用終了>


子どものころ聞いたことば 話したことば 関谷 和著
<引用開始>
瑞穂町との合併
昭和33年に瑞穂町との合併があった。これは埼玉県から都への越境合併と云うことで政治問題化して二本木のほぼ4分の3が埼玉に残る分村合併となってしまい、後々まで問題が残った。母校元狭山小は瑞穂合併地区にあり、そのまま瑞穂三小となった。当時中学校は宮寺村との組合立の狭山中学校で、それは残県地区の狭山台にあった。瑞穂合併地区の小学生はそのまま瑞穂三小へ、狭山中に在学中の中学生は瑞穂中へ転校した。そして、残県地区の親たちもそのまま瑞穂三小へ、中学生も瑞穂中へ転校させるという手段をとった。これは「分村合併」という自治省の最終採決への抗議の意味もあった。この年度、狭山中から瑞穂町への転校はおよそ150名で、その内埼玉残留地区の子女は40名であった。これら全ての転校生を瑞穂町は歓迎し、都もこれを承認した。都教委は「都立高校受験要項」に「瑞穂中條項」と云うのを加え、その40名にも埼玉県在住にもかかわらず、都立試験への受験資格を認めた。この条項はつい先年まで存続されていた。
元狭山と瑞穂町は歴史的にも地理的にもつながりが強かった。八高線箱根ヶ崎駅が村の中心部から一番近かったので、通勤通学のためにこの駅を利用する人は多かった。また、買い物、医療、郵便等瑞穂町で用を済ませることが多いという実態は戦後とくに強くなっていった。昭和18年にも合併を求める動きが起こったが、昭和28年の「町村合併法」でその機運は一気に加速される。元狭山村民の多くがそれを望み瑞穂町も大歓迎だったので、いとも簡単に実現すると思われたこの合併もさまざまな政治的問題がからみもつれにもつれてくる。当時埼玉県南部地区には都編入を望むかなりの市町村があった。元狭山村の越境合併はそれらの地区に多大の影響を与える恐れがあった。また埼玉県にはすでに豊岡町中心に他数ヶ村を加えた“武蔵町”という構想もあり、元狭山村4000人の行方はその成否にかなりの影響を与えるなどの理由があった。また元狭山を含む地区の県会議員の定数の問題もからむという話もあった。
<引用終了>

元狭山村は明治22年4月1日に発足しました。初代村長は筆者の曽祖父です。以前に記した【中村家】のシステムはこの時までは維持できていたのです。

関谷氏の本によれば、昭和10年代、元狭山村のお盆は13日から、箱根ヶ崎より先は16日からと元狭山村が特別の地であったことを知らせてくれます。

そして、この元狭山村で話されていたことばは、今から800年前の鎌倉時代からつづく公家ことばと伊豆韮山県(北条政子の出身地と思われる)のことば、同じお茶の産地駿河のことば、さらに、甲州街道を経由して入って来た甲斐の国の武士ことばが入り交じっているのです。

印象的なのは、父はアゲハチョウを「カマクラ」と呼んでいたことです。ことばでは表現できない程の優美さからなのでしょうか。

「ざまーみろ」も「座間を見なさい」です。

「ごちそうさま」に対して「おかるうございました」という返事ことばは、この地域では当たり前のように使われていますが、なんと気品が高いことばでしょう。どうぞ、あがらっしぇーなどのことばも同じです。

「あじをひく」とは、腐った食べ物からねばねばした糸状のものが出ることをいいました。納豆のあじ(味?)から来ているものと考えられますが、元狭山村の二本木には公家や武家のための臨済宗禅寺が二つあります。江戸時代までは、そこに集い、禅と茶と納豆などで気品ある禅信仰をしていたことは容易に想像できます。

方言ではないかもしれませんが、子どものころ「最初の勝ちはくそっ勝ち」と言っていたことはっきりと覚えています。源氏は鎌倉幕府ができる前に闘いで敗れ、源頼朝は流刑を受けていることから、「(平家の)最初の勝ちはくそっ勝ち」という言葉を広めた、と筆者は解釈しています。

私たち日本人は、自分の周りから全体を見るミクロの視点になりがちです。近々記しますが、東京の西多摩地区や埼玉県入間市などは、韮山県つまり箱根や小田原を中心とした地域、現在の神奈川県に江戸時代まで属していたのです。
明治以降の廃藩置県や市町村法などから歴史を見ても何も見えてきません。自分が住んでいる地が過去にどんな歴史的役割を果たしてきたのかを考えるマクロの視点で物事を考える必要があるのです。
posted by M.NAKAMURA at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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