「音楽活動をすればするほど、
自分もバンドマンもお客さんも不幸になっていく。
音楽って人を幸せにするものではなかったのか?
このままではみんなおかしくなってしまう。
そう気づいて、既存のビジュアル系音楽業界での活動をやめました」

そう語るのは約6年間、ビジュアル系バンドとして活動していた、金子友也さん(25歳)だ。
既存の音楽業界のビジネスモデルはすでに崩壊しているが、
一度できあがったシステムにがんじがらめになった業界は、
今もなお、バンドと客を食い物に生きながらえている。
その実態を実体験をもとに話を聞いた。
(取材日:2012年5月)
高校生の時に組んでいたバンドでは、
あるミュージックフェスティバルで奨励賞を受賞。
Zepp東京でライブをするなど、
音楽の力を評価された金子さんは、
「音楽で成功するぞ!」と目を輝かせ、
バンドメンバーとともに栃木から上京した。
はじめは無我夢中だった。
既存の音楽業界の成功手法を信じて、
自分たちも業界にのめりこんで突っ走ってきた。
しかし何かがおかしい。
ライブハウスの多くはライブをしたいバンドマンに、
ノルマを押し付け、バンドから金をとって儲けるので、
バンドをお客さんと思い、ライブを見に来る客を客と思わない。
一方、バンドや音楽事務所などはファンを食い物にし、
バンドを宗教の教祖のようにあがめさせ、
洗脳し、神格化することで、
一部の熱狂的かつ少し頭の弱いファンから、
お金を貢がせることばかりに熱心になっていた。
ファンの中にはバンドが貧乏であることを知って、
札束の入った封筒を手渡すような、
そんな行為も日常となっていた。
バンドはライブをするにも金がかかる。
CDを出すにも金がかかる。
音楽雑誌に取り上げてもらうにも金がかかる。
ツアーをするにも金がかかる。
いや、それでも昔はライブやCDに投資することで、
売れるかもしれないというリターンがあった。
でも今はもうそれがない。
「従来の音楽活動を続けたのではハイリスク・ノーリターン。
でも音楽業界は既存のビジネスモデルにしがみつき、
バンドマンもそれにしがみついて、
借金してまでCD出したりしている」と金子さんは言う。
それでもバンドが多少人気になってくれば、
事務所が全国ツアー代を持ってくれることもある。
でもバンドマンにとっては無報酬の営業活動に過ぎず、
実入りは少なく、時間もとられる。
結果、アルバイトをする時間もなく、生活は困窮していく。
それでも夢にすがりつくバンドマン。
そこにしがみつく一部の熱狂的ファン。
そうした音楽の夢をエサに、
崩壊したビジネスモデルの中で、
なんとか稼ごうとする音楽事務所。
こんな状態が続けば、バンドマンの生活は困窮し、
借金まみれになって夜逃げするとか、
生活がたちいかなくなって自殺するとか、
そんなことが起きるようになっていた。
金子さん自身も組んでいたバンドのメンバーが、
音楽活動のために借金まみれになり、
突如、窃盗で逮捕されるという事件を経験した。
メンバーがツアー中に失踪することもあった。
そんな状態でいい音楽を作れるわけがなく、
ひたすらライブでは派手なパフォーマンスに終始し、
熱狂的なファンをつなぎとめようと試みる。
ファンも次第におかしくなり、
ファンも貢ぐために借金抱えて風俗で働いたり、
自殺したりといったことも、
ビジュアル系音楽業界では結構あったという。
「僕自身もボロボロになるまでやっていた。
ライブ中にひたいをわって血を流すだとか、
観客のケータイ電話をぶん投げるとか、
今から考えればおかしな行動だけど、
常識外のパフォーマンスをすることが、
客を熱狂させる、唯一のの手段になっていた」
17歳から23歳までビジュアル系バンド活動に明け暮れた。
最後の方は自分自身の心も体もボロボロだった。
このままでは死んでしまう。
自分もメンバーもファンも誰一人幸せになっていない。
やればやるほどみんなが不幸になっていく。
「音楽って人を幸せにするためのものではないのか?」
金子さんは23歳で、
このおかしなビジュアル系バンド業界から離れる決意をした。
音楽の勉強をきちんとしようと、
バンド活動をしながら音大にも通っていたが、
学校で行う授業の意味のなさを感じていた。
あと1年通えば卒業できるのに大学をやめた。
「意味がないといいながら卒業するって自己矛盾じゃないですか。
意味がないならやめるべきだと思った」
戻ってきた1年分の授業料。
それを生活費に、今後の人生どうしたらよいのか、
音楽とどう向き合っていけばよいのか、
しばらく充電期間にしようと考えた。
そんな矢先に東日本大震災が起きた。
知り合いに誘われ、
4月上旬に被災地(宮城県石巻市)を訪れることになった。
バイト先も親も危険だからと被災地に行くことを反対した。
でもそこで3日間、ボランティアをして、
被災地を見て、被災者と出会うことで、
大きな気づきがあった。
「こんなにも大きな被害にあっているのに、
被災地で助け合うのが当たり前という光景を見て、
人と人との関わり方はこうあるべきだと気づきました」
長らく身を置いたビジュアル系バンド業界は、
事務所もライブハウスもバンドマンもファンも、
助け合いでともに成長していくのではなく、
限られたパイを奪い合って共倒れしていく、
すさんだ関係だった。
それが当たり前となっていた業界に見切りをつけ、
でもどうやって音楽と関わっていけばいいのか、
わからなくなった彼にとって、
被災地での助け合いの関係は、
あまりにもシンプルな人と人との関わり方だった。
「その時に“翼”という考えに思いが至ったんです。
お互いがお互いの翼になる。
自分が誰かを助けることで、他の人が飛べるようになる翼になる。
それと同時に、相乗効果で他の人が自分の翼にもなってくれる。
先行きのない業界で共倒れしていくような、
そんなところで懸命にお金と時間と労力を使うのではなく、
この先、広がりが感じられる方向に、
お金と時間と労力を使うべきではないかと思いました」
2011年4月に訪れた石巻の保育所の人とつながりを持つようになり、
2011年6月にも再び訪れ、お手伝いをした。
親しくなった保育所の先生に、
以前、音楽活動をしていたことを話したら、
「今度、子供たちのために音楽やってよ」と言われた。
それを機に思った。
また違った形で音楽をやりたいなと。
みんなが不幸になる音楽ではなく、
ともに助け合い、ともに互いの翼になれるような、
音楽活動をしていこうと。