指先で雪が消えるたび(3/6)


 ――多分、奇跡ってあるんですよ、きっと。
 その謎めいた言葉と、懐かしそうな微笑みの意味が、何となくずっと気にはなっていた。都を落として以降、ふっと思い出しては、どういう意味だったのだろう、と考えることはあったが、結局、何のことかは分かってはいない。これもまた、謎のまま闇の中に消えていくのだろうか。……
「兄さんは、ひとりもんかい?」
 不意に、頭の上から声が聞こえて、物思いから引き戻された。
「え?」
 顔を上げると、男がにこにこと話しかけていた。
「奥方は、いねえのかい?」
「ああ……まあ……」
 何となく、言葉を濁した。勿論、咄嗟に頭を掠めたのはユキノだが、“奥方”である感じはしない――まだ。「まだ」と思ってしまう辺りに、そろそろ身を固めるべきかと自分自身の中で圧力がかかっている感じはするが……どうなのだろう。そもそも、ユキノは、どう思っているのだろうか。
「古代文明じゃ、今夜と明日の夜は大切な人と過ごすって決まってたらしくてね。この町の差配もそう煽ってる。だから、ほら、通行人にも、夫婦やら、恋人同士やらが多いだろう?」
「そういや、そうかな」
 肩越しに、通りを振り返った。そう言われて見れば、男女で歩いている人間が多いような気がする。
「兄さんも、いい人がいるんなら、明日の夜辺り、一緒に食いに来てくれよ」
 男は、笑顔で言った。
「こういう、キラキラした風景が、女ってヤツぁ結構好きらしいぜ。特に、町の上の方からこのキラキラを見下ろした景色は、宝石箱を引っ繰り返したみたいで、そりゃあ見事だ。連れてきて見せてやりゃ、あんたの株も上がるってもんさ」
 なるほど考えとくよ、と笑い返しながら、代金を払って、屋台を出た。
 大切な人と過ごす夜、か。
 今夜中に虹雅峡に戻れるかな、と考えながら、雪を踏む足を速めた。





 キラキラと光る繁華街を四半時ほど歩いて抜けて、更にしばらく歩くと、林の手前にその小屋は立っていた。これが、大橋キヨツグの作業場兼住居の小屋だろう。ちょうど、リキチの家くらいの大きさだ。
「大橋殿、夜分に申し訳ない」
 戸を叩いて、声をかけた。
「虹雅峡の谷山殿の紹介で伺ったんですが、ちょっと義手を見てもらえませんかね」
 すると、小屋の中から、今開ける、と声がした。
「元気にしとるのか、あいつは」
 戸が開いた途端、そう言ってきたのは、頭には一切毛がないが、白い長い髭が見事な、小柄な老人だった。分厚い眼鏡の向こうの小さな目が、優しそうで思慮深げで、何となく山羊を思わせる。
「ええ、元気にされてますさ」
 頷いて、谷山から受け取った紹介状を差し出し、左腕を上げて見せた。
「今日の昼、その谷山殿から、この腕は、師匠の大橋殿でないと直せないから、ここへ行けと教えてもらいまして」
「虹雅峡からか。そいつは疲れたろう」
 小さな目をちょっと丸くして、大橋は、身体を戸に寄せた。
「まあ、狭いところだが、上がりなさい。茶でも入れよう」
「かたじけない」
 中に入ると、部屋の中に所狭しと積み上げられた義手や義足や、その他の何か分からない大小様々な機械類が目に飛び込んだ。空いている空間と言えば、囲炉裏の周囲くらいのもので、マサムネの工房を髣髴とさせる風景だ。
「5年前なあ」
 入れてもらった茶を飲んでいる間に、谷山の書いた紹介状に目を通していた大橋は、髭を撫でながら、遠くを見る目をした。
「5年前に作った義手……さて、どれのことか……」
 首を傾げた大橋に、ちらりと不安になったが、
「見せてもらえるかね」
 そう手を差し出されて、とりあえず、肩から腕を取り外し、大橋に渡した。
 受け取った義手を、側に転がっていた工具で、さくさくと軽く開けて、中身を覗いた大橋は、すぐに、声を上げた。
「ああ、おうおう、これなあ、これかあ。思い出した。確かに、うちから、谷山に渡したな、この回路は」
 懐かしそうに微笑むと、こちらに目を上げてくる。
「で、うまく動かせんと?」
「ええ、ひと月半ほど前、ちっとその腕を使って暴れまして。気付いたら、力を入れないと、指がうまく動かなくなってたんでさ。そのうち治るかと思ってたんですが、段々、ひどくなって、一昨日あたりには、湯飲みを握り潰してしまいましてね」
「ふんふん、なるほど」
 大橋は、機嫌よく頷くと、大きな拡大鏡と明かりを手元に引き寄せて、その回路の辺りを覗き込む。しばらく、螺子回しやら、千枚通しやらでつついていたが、その姿勢のまま、声を寄越した。
「よし、これなら大丈夫、直る」
「助かります」
 一旦、そう頭を下げてから、少し気になっていたことを聞いてみた。
「で、お代はいかほどになります」
 何せ、谷山に直せないほどの手の込んだ回路だ。修理代も高くなって当然だと思われた。余り高いようなら、折角ここまで来たが、諦めなければならないと考えていた。
「うん、そうだな……まあ、3000てとこか」
「それだけでいいんですかい?」
 3000なら何とか手持ちで払えるが、意外と安い値段に少し驚いた。
「何、小さい部品だから、材料費はそんなにかからない。3000で十分だ。ただ、時間が1時ほどかかるが、待って貰ってもいいかね」
「ええ、お願いします」
 頷くと、大橋は、よし、と言って、立ち上がった。背後のうず高く積まれた書類の山から、何かを探し始める。
「その回路は、5年前の冬に作ったもんだな。その年に作ったものの中で、一番凝ったものだったし、ちっとばかし、思い出深いものなんで、よーく覚えとるよ」
「思い出深い?」
 聞き返すと、書類の山から、1枚の図面と思しき紙を取り出しながら、大橋は言った。
「実は……今だから話せる話だが、その回路の設計、図面を半分ほど引いたところで、ひどい風邪を引いて、高熱で引っ繰り返ってなあ」
 図面を手に、囲炉裏端に戻ってきた大橋は、苦笑する。
「その回路の納品が4日後に迫っていたのに、全く、だらしのない話だ。技師の風上にも置けん」
「いやいや、それでも、間に合わせたんでげしょ。えらいもんですさ」
 腕は、確かに約束の日に受け取ったと記憶している。高熱でうんうんと唸りながら図面を引く大橋が目に浮かんで、それが何となく、巨大弾道弾を何日も寝ずに作っていたヘイハチの姿と重なった。素直に、何としても納期を守ろうとする技術者の矜持というのは偉いもんだ、と思った。
 しかし大橋は、図面を義手の横に広げ、苦笑しながら首を振って寄越した。
「いや、その回路の設計が間に合ったのは、ひとりの若者のお陰でな」
「若者?」
 聞き返すと、大橋は、うん、と頷くと、懐かしそうに背中を丸めて義手の回路を覗き込みながら、ゆったりと語り始めた。
「あれは5年前の――そうだな、ちょうど、今頃のことだったな……」





 5年前のその夜は、雪が降っていた。
 町の工房に、義足を一本届けた帰り、大橋は、家まであと3間、というところまで来て、ばったりと道端の雪溜まりに倒れたのだった。
 朝から、確かに調子は良くなかったのだが、工房への往復半時の間に、熱が急速に上がったらしかった。頭がぼんやりとして、身体にも力が入らない。雪が身体に痛いほど冷たく、このままだと程なく凍え死んでしまう、ということは分かっていたが、どうにも身体は動かなかった。町外れのこの辺りは、人通りも少ない。助けを呼ぼうにも人はいない。連れ合いはもう20年も前に死んだし、息子と娘は別の町に住んでいて、家には誰もいない。これはもしかしたら本当に死ぬかもしれない。雪の中で、ぼんやりとそんなことを考えていたとき、声がかかった。
「どうされたんです? 大丈夫ですか」
 見上げると、ひとりの若者が、覗き込んでいた。若者――だろうと思う。視界がぼやけて、よく見えない。それでも、懸命に声を絞り出した。
「……家、に……」
 重い手を上げて、目の前の家を指差した。
「分かりました。運びます」
 穏やかな、しっかりとした声音で言って、若者は、ぐいと大橋の身体を担ぎ上げた。
 そのまま、家の中に運び込むと、明かりをつけ、雪に濡れた外套を脱がせて、敷きっ放しになっていた布団に寝かせてくれた。
「少し熱がありますね」
 囲炉裏に火を入れて、若者はがたがたと震えているこちらを見下ろしてくる。
「医者を呼びましょうか」
「いや……ただの、風邪だ。医者より、熱さましを……」
 首を振って起き上がろうとしたが、やはり、身体に力が入らない。若者が、軽く身体を押さえてくる。
「熱さましですね。何処にあります? 用意しますよ」
「すまん。右手の棚の一番下に――」
 数々の義肢や部品に埋もれた棚を指差すと、若者は、にこりと頷いた。
「承知しました」
 それから、若者は、随分と甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 熱さましを煎じて飲ませてくれたし、粥を作って食べさせてくれたり、額の手拭いをせっせと替えてくれた。朦朧としていたので、記憶は断片的にしかないが、夜中、ずっと寝ずに、側についてくれていたようだった。寝ているのか起きているのか、自分でも良く分からない頭で、ただの通りすがりにしてはえらく親切な若者だな、と何度か考えたが、とにかく、酷く頭がぼんやりとして、礼を言うことも、寝てくれと気使いすることも、出来なかった。
 ようよう口が聞けるようになったのは、翌朝だ。
 額の手拭いを替える気配に目を開くと、若者が覗き込んできた。熱が少し下がったようで、昨夜よりは視界がはっきりとしている。朝の光で明るいのもあって、若者の顔が、今度はちゃんと見えた。
 穏やかな声音から推し量っていたよりも、若い顔だ。二十歳そこそこというところか。明るい赤の髪、濃い褐色の瞳。その目を、穏やかに笑んだ形にして、若者はそっと声をかけてきた。
「おはようございます。少しは楽になりましたか?」
 その落ち着いた表情と物言いに、やや推定年齢を修正した。小柄なのと童顔なのとで若く見えるが、実際は二十代半ばくらいだと思われた。
「世話になって……申し訳ない」
 昨夜よりは楽に声が出る。熱さましが効いたらしい。起き上がって改めて頭を下げようと思ったが、若者は肩を押さえてきた。
「どうぞ、そのままで。昨夜よりは下がりましたが、まだ熱が高い。しばらくは寝ていたほうがいいです。やることがあれば、私がやりますから」
「しかし、すっかり足止めしてしまって、これ以上は」
 恐縮すると、若者は、おっとりと首を振った。
「いえ、どうせ暇にしているんです。ご迷惑でなければ、良くなられるまで、お世話させていただきますよ。……と、いや、これは、少々私に都合のいい言い方ですね」
 不意に、若者は、人好きのする苦笑を浮かべ、ばつが悪そうに指で頬を掻いた。
「実は私、無一文でぶらぶらしてる、甲斐性なしでして。ここひと月ほどは、町の工房で、住み込みのお手伝いをさせていただいてたんですが、それも昨日で終わったんです。次の仕事と住む場所をちょうど探していたところだったので……もしここで色々お世話をさせていただきながら、2、3日泊めていただけると、正直、私が助かるんです。どうでしょう、見たところ、ご主人、義肢を作ってらっしゃるんですよね。私、機械弄りは得意ですから、少しはお手伝いできると思いますよ。良かったら、少しだけ、置いてもらえませんか」
 そう言われて改めて見返してみれば、確かに若者は、落ち着いた臙脂色の着物を着ていた。星視ヶ峰で一番大きな工房・ツバメ工房の、設計者の作業着だ。恐らく、賃金代わりに貰ってきたのだろうが、あそこで設計者がひと月も務まるのなら、腕は確かなのだろうと思われた。
「そりゃあ、いてもらえれば、こっちも助かるが」
 昨夜よりは熱は引いたと思えたが、まだ頭はぐらぐらとするし、身体も重い。こんな状態でひとり不安に寝ているよりは、この親切な若者に側にいてもらったほうが心強い。そうは思ったが、少々躊躇った。
「色々手伝ってもらっても、見ての通り、小さな商売だ。十分な賃金は払えないが」
「それは、お気遣いなく」
 若者はにこりと笑った。
「賃金は、不要です。ただ、少しの食事と、寝る場所さえいただければ、私には十分ですから」


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