指先で雪が消えるたび
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 ――シチさん、奇跡って信じます?
 工具を使う手を止めて、唐突に、ヘイハチはそう言ったのだった。
 夜の砂漠の、冷え込む空気。降るような星空。
 明日が決戦とは信じられないほどの、静かで穏やかな―― 一緒に過ごした、最後の夜。
 ――何です、奇跡でも起こらなきゃ都にゃ勝てないって話ですかい?
 ――いえいえ、そうじゃなくて……。でも、多分、奇跡ってあるんですよ、きっと。
 そう言って、ヘイハチは、何やらひどく懐かしそうに微笑んで、こちらを見た。
 その謎めいた言葉と微笑みの意味が分からなくて、シチロージはずっと、気になっていたのだ。





 また、雪が舞い始めていた。
 運搬船の操縦席で、シチロージは少し、空を見上げた。どんよりと重く雲の覆った空から、白い雪が後から後から沈んでくる。何気なく左手を差し出すと、指先でひとひらの雪片が、ふわりと融けて消える。
 屋根のない運搬船で雪の中を飛び続けたら、びしょ濡れになってしまいそうだな、とちらりと考え、いやその心配はないのだった、と思い直した。この草原をもう四半時も飛べば、砂漠の広がる乾燥地帯に入る。そうしたら、雲は消えて、雪も止むだろう。もし虹雅峡のほうも大雪だったら、そこでびしょ濡れになってしまうかもしれないが。
 シチロージが、運搬船に乗ってカンナ村を出たのは、半時ほど前だ。左腕の義手の修理のため、虹雅峡に向かっている。
 義手は、どうやら都を落とす戦の中で、傷めたらしい。見た目上、凹んだり裂けたりというようなことはないのだが、何もかも済んで、気付いてみると、指が滑らかに動かなくなっていた。以前は、自分の身体と同じように、意識せずとも動いていたのだが、都を落として以降は、ちょっと力を入れないと――と言っても、実際には左腕はないから、力を入れるように意識しないと、が正しい――、動かない。
 ともあれ、戦はもう終わっていたし、日常生活は右腕だけで足りるから、放っておけばそのうち治るだろうとのんびり構えていた。しかし、それからひと月半、治る様子は一向にない。それどころか、段々と相当に力を入れないと動かなくなってきたし、昨日に至っては、動かないなあと思って思い切り力を入れたら、何と湯飲みを握り潰してしまった。このままでは、うっかり人と握手も出来ないし、何より、村の守りを固める仕事がままならない。これから忙しくなる村の年末年始の準備も手伝えない。
 そんなこんなで、カンベエの許可を貰って、虹雅峡にある、この義手を作ってくれた工房を訪ねることにしたのだった。カンナ村を出たのが昼過ぎだから、明日の昼過ぎには、虹雅峡につけるはずだ。
 考えてみれば、この義手を使い始めてもう5年になる。しかし、本格的な戦闘で使ったのは、これが初めてだった。5年目にしていきなりのこの酷使は、義手にはかなり応えたろう。戦の最中に壊れなかっただけ幸いかもしれない。
 もっとも、戦の最中に何か不具合があったら、ヘイハチが直してくれたに違いない。今だって、もしもヘイハチが生きていたなら、こんな遠出をしなくとも、ちらっと見て、ちょちょいと直してくれたはずなのだ。大きなものから小さなものまで、機械となれば何でもござれのあの御仁には、こんな義手など、何てことはないだろう。
 そこまで考えて、少し息をついたとき、ふっと、脳裏を過ぎる記憶があった。
 ――この戦が終わったら、その左腕を、ちょっと見せていただけますか。
 そう言えば、ヘイさんが、そんなことを言ったことがあったっけな。今の今まで、すっかり忘れていた。





 あれは、カンナ村に攻め込んできた野伏せりを全滅させた、その翌日だ。
 戦の中で、脇腹に怪我をしたヘイハチは、しかし、丸一日も寝てはいなかった。次の日の朝、様子を見に行ったときには、既に布団を畳み始めていて、シチロージを驚愕させた。
「何やってんですか、あんた」
 戸を開けた途端に、思わず口から引っ繰り返った声が飛び出た。しかし、ヘイハチは、いつもながらのへらりとした笑顔を寄越した。
「あ、おはようございます」
「おはようじゃありませんや。何やってるんです」
「何って、布団を畳んで」
「そんなこた見りゃ分かります」
「見りゃ分かることを何で聞くんです?」
「そうじゃなくて!」
 きょとんと子供のような顔をしたヘイハチに、少々苛々して――時折ヘイハチは、こういう捻くれた惚け方をすると段々分かってきた――、足音高く部屋に上がりこみ、寝巻きのままのヘイハチを見下ろした。全く、巨大弾道弾を作っていたときの不眠不休といい、今回といい、ちょっと目を放すとすぐ無茶をする。実に油断ならない男だ。
「そんな怪我で、もう起き上がるつもりかって聞いてるんでさ」
「そんな怪我、というほどの大怪我じゃありませんよ。これだけ休ませていただければ、もう十分です」
 畳んだ布団の隣りでこちらを見上げ、ヘイハチはへらへら笑う。
「熱も大分と下がりましたし、痛み止めの薬も飲みましたから、もう働けます」
「何言ってるんです。あれだけ出血してたじゃないですかい。あと1日くらいは、大人しくしていたほうがいい」
「いやいや、そんな寝てばっかりでただ飯食らうのは申し訳ないですから」
 軽く頭を振りながら、ヘイハチは立ち上がって――途端に、ぐらりとよろめいた。
「おっと」
「ほら、いわんこっちゃない!」
 咄嗟に左腕で、傾いた身体を受け止めた。
 互いの服越しに腕に伝わってくるヘイハチの体温は――義手にも普通にそれくらいの感覚はある――、確かに昨日に比べれば、随分と下がってはいるものの、それでも平熱とは言い難い熱さだったし、腕にかかる体重も、軽くよろめいた、という域を超える重みだった。頭ひとつ分低いヘイハチの後頭部に、叱る声を浴びせた。
「見なさい、まだぐらぐらじゃないですか。きっと血が足りないんでさ。寝てた方がいいでげすよ」
「すみません。でも、今私に足りないのは、血というよりは米で……」
 そこまで言って、ヘイハチは、ふっと口をつぐんだ。腕にしがみ付いた格好のまま、何故か、ぴたりと動かなくなった。
「ヘイさん?」
 気分でも悪くなったかと顔を覗き込みかけたが、それよりも先に、ヘイハチが肩越しに顔を上げてきた。
 何やら、ちょっと奇妙な、これまたひどくきょとんとした表情だった。まるで、今初めてそこに人がいると気付いたときのような。そんな不可解な表情のまま、ヘイハチは、しばらく、まじまじとこちらを眺めた。珍しく、笑っていない目だった。
「……何です」
 至近距離で、あんまりじいっと見られるので、居心地悪く聞き返した。
 ヘイハチは、我に返ったようにひとつ瞬きをすると――不意に、にこりと笑った。腕を、ぽん、と軽く押しやって、へらへらと言う。
「いや、すみません。あんまりお腹が空いて、足元がよろめきました。きちんと朝食をいただけば、大丈夫ですよ」
「本当ですかい」
 多分に疑わしく、睨みつけたが、ヘイハチは、部屋の隅に畳んで置かれていた服に歩み寄りながら、ひらひらと手を振ってくる。
「本当ですよ。大丈夫」
 服の側で、さっさと寝巻きの紐を解き始めるヘイハチを眺めて、腕を組んだ。まあ、言い始めたら後に引かない人だというのは分かっている。溜め息と一緒に言葉を吐き出した。
「いいでげしょ。その代わり、ちょっとでも調子悪そうなら、当て身食わしてでも布団に戻ってもらいますぜ」
「怖いですねえ」
 寝巻きから片腕抜いた格好で、ヘイハチは苦笑を寄越す。
 顔の前で、大きく手を振って見せた。
「効率の問題ですさ。怪我人を気遣いながら作業するより、きちんともう1日寝てもらって健康になってから働いてもらったほうが、ずっと捗る」
「分かってます。詳しいことの分からない相手に喧嘩を売っている今、村の守り固めは急務だ。たらたらやるつもりはありませんよ」
 怪我のことを口うるさく言うのは、何も心配だからばかりではない、ということは、承知だったらしい。いつもの工兵服の上衣をかぶったヘイハチは、微笑んで頷いた。
「大丈夫です、きちんと働けます」
「無理してぶっ倒れたりせんで下さいよ」
「勿論です。……ところで、全然別件なんですが」
 意外と軽い動作で下衣をはいてから、ヘイハチはふいとこちらを振り返った。
「この戦が終わったら、その左腕を、ちょっと見せていただけますか」
「へ?」
 唐突な言葉に、間抜けな声が出た。
「左って……この義手ですかい? 別に、取り外せますから、今でもいいですぜ?」
 上着に手をかけると、ヘイハチは、慌てたように手を振ってきた。
「いえ、今はいいですよ。その、見せて欲しいと言うのは、中身の話で……つまりは、分解させて欲しいって意味でして」
「分解?」
 ちょっとぎょっとした。
 この義手は、ユキノの伝手で、虹雅峡でも指折りの義肢職人に依頼して作ってもらったものだ。しかも、その中身の一部には、その義肢職人の注文で、また別の町に住む、特級の腕を持つという老技師の技が使われているという話だった。要するに、見た目は何処にでもあるような義手だが、中身は結構な高級品なのだ。そんな腕を分解?
 こちらの狼狽を知ってか知らずか、ヘイハチは、にこにことした。
「ええ、だから、戦も何もかも終わった後で。大丈夫、壊したりしません。きちんと元通りにしてお返ししますから」
「はあ……元通りにしていただけるなら、構いませんが」
 まあ、ヘイハチの機械弄りの腕は一品だ。分解されても間違いはないだろうと考えて頷くと、ヘイハチは、ありがとうございます、と頭を下げた。
 それにしても、何故急に、分解したいなどと言い出したのだろう。
「この腕に何か、気になることでもあるんですかい?」
 首を傾げると、ベストを着て刀を背負ったヘイハチは、こちらを振り返り、何やら含みのある、悪戯っ子めいた笑みを浮かべたのだった。
「ええ、まあ……ちょっとね」


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