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どうも、初めまして。
『オフィスクロノス カウンセリングルーム』へようこそ。

この度は、数あるカウンセリングサイトの中から、私のサイトへお越し下さりまして誠に有り難う御座います。

私は当サイトでカウンセラーを務める谷本 雅人と申します。




文部科学省管轄(財)生涯学習開発財団 認定
内閣府特別機関 日本学術会議協力学術研究団 認定
メンタルケア学術学会 認定(特定非営利活動法人 医療福祉情報実務能力協会から移行)

メンタルケア 心理士
メンタルケアカウンセラー
メンタルケア学術学会 正会員

上記の資格を有した心理カウンセラーです。
少しでも多く、皆様の心のケアに貢献し、一助になる事が出来れば幸いです。



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■生い立ちなど

 幼少期から小児喘息などを患い、病弱で、更には1992年に治療法の確立していない消化器(厳密に言うと自己免疫疾患)の不治の難病を発症。

 小腸切除や大腸全域摘出、他、幾度に渡り手術を受ける。

 その持病による外因的(身体器質性)に由来した二次的なうつ病との診断を受けるも、これを寛解させ克服する。
この事と、後述する自閉症の弟の事を機に精神疾患分野に興味を抱く事となる。

 他にも前兆に閃輝暗点の起こる偏頭痛や、細かい物を含めると数多の合併症を抱える。 

 幼少期の父親の存在からAC(アダルトチルドレン)の可能性もある。
その理由は父親が、碌でもない人間だった事。飲む打つ買うで、取っ替え引っ替え愛人を作り、果ては愛人を家に連れ込みながら金を巻き上げに訪れ、更には母に暴力を振い、剰え最後には家に多額の借金を残し、家を去っていった。
このことから、私にとって父親は最大の反面教師である。

弟は、本当に優しい心の持ち主だった。
父親が暴れた時、幼い私は弟を連れてカーテンの後に隠れていた。
その後、幼い弟は涙を流す母に涙を拭えと台拭きを差し出した。

 母は女手一つで兄弟を養うため、常に必死に外で働き続けて、いつも家にはいなかった。
碌でなしで穀潰しの父と、不幸な目に遭わされ続けた母はついには20代半ばの頃に離婚し、まだまだやりたい事の多い年頃にも関わらず、死に物狂いで骨身を削り、自身の人生を私達兄弟を育てる事に費やした。

 そんな私達家族にとって最大の悲劇が起こった。
大切な兄弟が自殺で逝去した。(詳しくは後述「とある兄弟の話」で)
人知れず未明に河川敷の下、欄干で首を吊って自殺をした。

 弟が亡くなり、御通夜の日は、奇しくも母の日だった。
母の日にプレゼントを買いに行こうと約束したが、その約束は果たせなかった。

 何も喉を通らなかった母のために、私は葬儀場からコンビニへ買出しに行った。
コンビニのレジ横に、カーネーションの生花が一輪売っていた。
私はそれを買い、食べ物と一緒に渡した。
母はカーネーションをただじっと見つめていた。
これ程悲しい母の日は無いだろう。

 私は弟の発するサインに気付く事が出来ず、自分の力不足で救う事が出来なかったのだ。
私は残された者の絶大な悲しみを痛感した。一生自責の念に嘖まれこの重い十字架を背負い続けるだろうか。
そんな事も考える。しかしせめても、私は弟の死を無駄にはしたくない。そう強く思う。

 私自身は、今まで何度も死の淵から生還した。重病を患い、癌患者などに用いられる鎮痛剤の中ではかなり強力な部類のロピオンやペンタジンなども効かない程の苦痛の中、更に敗血症の懸念があり手術が行えない状態の中、死の淵を彷徨いながらも長期間耐え抜いて生還した。(衰弱して血が止まらないので術後の硬膜外麻酔が使えず代用したモルヒネも効かない程、地獄の苦しみだったのだが…。)

 また事故、喘息発作などで4度も死線から奇跡的に生還した。(もしかしたら、気付いていないだけで他にも死線から生還しているのかも知れないが…。)

  その結果、私は見えざる力に守られていると常々思う様になった。
前向きに弟の分まで精一杯生きようと思う。それがせめてもの弟への報いになると信じて。

 他にも妻の不妊や前期破水による息子の超早産でNICU治療、心房中隔欠損症等、今でも様々な苦悩は一向にに尽きない。
 更に、ここには納められない程、私の人生は常に波瀾万丈の人生だった。
今もその最中にあるのかも知れないが、私は全て克服している自負がある。

 ここまで生きてこれれたのは、女手一つで懸命に育ててくれた母の愛情、看護師である妻によるハンデだらけの私への献身的な愛、天真爛漫な息子の無邪気さ。
それらに、日々助けられて生きてきた感謝を噛みしめて、その恩恵に報いるために懸命に生きなければ行けないと、そう強く思う。

 私が多大な感謝を寄せているのは家族だけではない。医療従事者や社会福祉を含め、色んな人に生かして頂いている事に心から感謝し、筆舌に尽くせない程、恩を感じて今日に至る。
主治医が「絶対に君の命を救う」と真剣な眼差しで私を励ましてくれた言葉は一生忘れないだろう。

 私は思う。自身の不遇さに卑屈になり、嘆くばかりでは無く、また自分を責めるのではなく、その気持ちを他者への感謝へ昇華される事により、自らの心を豊かにする事が有意義であると。
辛い時は支え合い、助け合い、励まし合うのが人ではないだろうか。

 人生、一寸先は何が訪れるか判らない。
数分後の思いがけない絶望も予測できない。
明日、何もかもが急に終わってしまうかも知れない。
だからこそ、今一瞬の幸せだけを、こぼれ落ちない様にしっかり握りしめる事を日々努めたい。

 これらの経緯で、身体は傷だらけでツギハギだらけのボロボロだが、弟の非業の死、私しか身寄りのない母、それらがあって、私はどんな事があろうと死ぬ気で血のにじむ程歯を食いしばり、家族の為に懸命に生きるしか選択肢は無いのだ。

 私は根性論が嫌いだ。根性じゃどうにもならない事は沢山あるし、病める人に根性論を持ち掛けるなんて以っての外だ。
しかし、少なくとも私は、幾度となく難病や受難を様々な思考と思想で乗り切ってきた自負がある。
私はこの身引き裂かれようと不屈の精神で乗り越えなければならない。
私の境遇はそう信じて乗り越えるしかないのだ。
少なくとも、私は病を克服する術を人生に於いて必然的に身に付けたのだろう。
その経験を生かし、病める人に貢献したいと心より感ずる。

 私には是が非でも過去の心の傷や病魔を克服して、苦難を乗り越えるしか道は無いという事。
そして、それは叶ったという事。

また、人生の中の些細な幸せに目を凝らし噛みしめ、それを心からで実感して、今までの受難が報われると信ずる事。
それらを、踏まえて、暗鬱とした病める人々を励まし、救いの言葉をかけたいと言う事。

それらが私の信念の根底にある。

 余談だが、驚く事に私の生命線は一直線に手首まで伸びている。
これは、私がしぶとく生きる事を示唆しているのかも知れない。
私は占いや迷信を信じない性格だが、これを前向きに捉えようと思う。

 声を大にして言おう「私はとても幸せ者です! 

皆が、そう言える様な世の中になる事を心より切に願う。
そして、数々の苦難を乗り越えて得てきた知見を活かし、悩める人の一助になれれば、これ以上に幸いな事はないと強く思う。



■とある兄弟の話

私の父は碌でなしだ。
父が家に帰る時は、大体が金をせびりに来る時。
愛人を母の在宅中に家に連れ込む。セカンドバッグで母を殴る。
そんな父と離婚して、父の借金を背負わされて朝も夜も殆ど家にいなかった母。
そして、私には弟がいた。

 幼い頃の弟は、私の頭にいきなり単一電池を頭に投げつける、背中にいきなり画鋲を刺す、重度自閉症だった。
私の育った環境は端からみたら普通の家庭環境ではない、機能不全家庭なのかも知れない。
しかし、私自身は、今まで一度も自分の家庭が崩壊しているとは感じなかった。
自分が育った環境のお陰で自分がAC(アダルトチルドレン)になった自覚もない。むしろ、父を反面教師に真っ当な道を歩んできた自負さえある。
だから、私はそんな家庭環境でも、幸せな家庭だと感じている。
今現在も、思い返しても、素晴らしい家族だと思える。何がそう思わせているのか。
それは、母と弟と祖母の存在、家族の存在だろう。

 母は休む間もなく病弱な私と自閉症の弟を育てる為に身を粉にして働いた。
時には、私をおぶさりながら眠った事もあるという。
食うも寝るもままならず、過労でやせ細っていた。そんな母に私は心から感謝して止まない。

母方の祖母は、私にどこまでも深い愛情を注いでくれた。まさに溺愛だった。私には菩薩様の様な存在だった。

 前述した様に、弟は最重度の自閉症と診断された。
幼少期は、それはそれは手の付けようのない程の重度だった。
そんな弟と私は家や外で常に遊んでいた。

 弟は独特の感性をを持っていて、いつも変わった物に興味を示すのだ。
 まずはマンホール。
弟を自転車の後に乗せて、果てしなく遠くまで様々なマンホールを見に行った。成る程これが中々面白い。様々な模様があるのだ。

 次にエレベーターのステッカー。
手を挟まない様に注意を促すあれである。
これもまた、様々なデザインがあって面白い。
マンホールの時と同じく、建物を見つけると次々と見に行った。
夢中になっていると、家から果てしなく遠くまで行き着いた事もしばしば。

 他にも電車や鉄塔など、様々な物に興味を持ち、彼の好奇心を満たすために、弟を荷台に乗せて自転車を果てしなく漕ぎ続けた。
仕事で家に母親はほとんどいない、どんなに遅く帰って平気だ。

 弟は自閉症の為、奇声を発する、ビルの屋上からコンクリブロックを落とす、他人を突き飛ばす、意味不明の言葉を話す。
私は、それら一つ一つ、全てに「なんで?」と問う。
それに対して、弟は「面白いから」と答える。
再び私は、「どういう所が面白いのか?」と問う。

 こうやって「それは何?」「こうだったら、どう思う?」「なんで、そんな事をするのか」と、私は弟に常に問い続けた。

 そんな私と常に家でも外でも殆ど一緒にいた弟。
その弟自身が次第に、言動の前に〝考える〟様になった。
その内、問題行動も次第に減っていったのだ。
彼は、考える事によって、自分の言動に自覚を持つ様になったのではないだろうか。
弟は小学校高学年の頃にはすっかりまともなコミュニケーションをとれる様になった。
その頃から、二人で遊ぶ事より、私の友達の輪に交ざって遊ぶ事が以前より増えた。
基本、弟は、私にぴったりくっついて行動するので、私の友達の輪に加わるのは必然だったのだが。

 私の友人も弟を可愛がってくれた。
弟が同級生にちょっかいを出されると、私同様に腹を立ててくれた。弟は、私だけの弟ではないも同然に思えた。

 そして、弟は3歳年上の私の友人、十数名の中に毎日の様に常に加わっていた事もあってか、すっかり成長して、中学に上がる時には病院から健常者で構わないという診断を受けた。

 弟は、幼少期は山中にある障害児用の特別施設に。
小学校は特別学級に。
中学から普通学級になった。
そして、弟は中学から普通学級に上がり、普通高校に進学し、障害者施設ではなく一般雇用の職業に就いた。

 この事から、私は障害を特別視する事は当事者にとって最も良くない事だと学んだ。
私は弟を、障害者だと捉えた事は無い。
私の唯一無二の弟は、単なる弟であってそれ以上でもそれ以下でもない。
兄弟喧嘩もすれば一緒に風呂に入る。

 障害者を特別扱いしていては、いつまでたっても特別な存在のままだ。
私自身も身体障害者になった今、更に思う。私は別に特別でも特異でもない。

 多種多様な趣味を持っていた弟は、大人になっても鉄道の趣味だけは熱心に継続していた。

 そして突然、大惨事は起こった。弟が、不幸にもこの世を去った。

 今、弟は線路を挟んだ墓所で毎日電車を眺めて安らかに眠っている。

いつか、弟が乗るのが夢だと語っていたトワイライトエキスプレスに私が代わりに乗って、墓前で乗った感想を伝えたいと思う。

 私は弟と過ごした日々は生涯忘れる事のない掛け替えのない宝だ。弟は、私に多くの事を学ばせてくれた。

 そんな一生の宝を与えてくれた弟に、感謝の気持ちが溢れんばかりだ。

 弟よ、頼りない兄でゴメン。そして、私の弟として生まれてきてくれて本当に有難う。

 どうか、天国で大好きな鉄道を毎日眺めて過ごして欲しい。


最後までお読み頂き誠に感謝致します。

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