2010-05-04 21:54:59

GW特別企画 日蓮正宗の消えない嫌な過去

テーマ:宗門関連

 五十六世の日応は自著の弁惑観心抄で「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」と言っている。その日応が、日清・日露戦争で「戦勝本尊」を書写・発行し、檀徒に授与しているのだ。


 明治29年に「為征清戦勝記念」と認められたものと、明治37年には「皇威宣揚征露戦勝」と認められたのがそれだ。集められた供養金を「軍費」として国家に献上もしているのである。ここまでくると、一切衆生の幸福という発露とは、程遠い無縁のものだというしかない。


 それだけではない。


「未来本尊」というものがあり、これは拝むためではなく、骨壷に入れて保管する本尊のことである。


 以下の画像をご覧いただきたい。



土方闘騎のブログ

 この画像の御本尊は「棟札(むなふだ)」といって、日顕書写のものだが、家を新築したときに天井裏の柱につけ、お守り同然として安置するもの。これはある学会員宅で発見されたものだが、私も実物を見させていただいたことがある。左には、授与書きが書かれてあるが、個人情報に触れるのでカットさせていただく。


 本来、信仰の対象となる御本尊を、日蓮正宗はいかにいい加減に扱ってきたかが、これで少しはわかるだろう。


 これで学会発行の御本尊は「ニセ本尊」だとはよく言えたものだ。



2010-05-04 03:52:47

GW特別企画 資料編:日蓮正宗発行「ニセ本尊百問百答」

テーマ:宗門関連

 これは学会破門以降に日蓮正宗が発行した「ニセ本尊百問百答」である。あまりにいいかげんででたらめばかりなので、いくつか指摘する。


【ニセ本尊百問百答】


51 A、御法主上人以外の人が御本尊を書写したという例はありますか。


Q 御本尊書写の権能は、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人お一人に限られるというのが、日蓮大聖人の教えです。


「本因妙抄」「血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり(877P)」と仰せられています。


 また、第五十六世日応上人は「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能(あた)はず」と仰せです。


 したがって宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。


 ただし御隠尊猊下が御当代上人の委託を受けて、御本尊を書写されることはあります。(次項参照)


【参考資料】


「尊師(日尊)自らも在世中一幅の本尊も書写し玉はざる、唯授一人の相伝なくして書写すべきものに非ざるが故なり、然るに其の末弟としてその禁誡を犯し、恣(ほしいまま)に血脈相承ありとして、本尊を書写せること、師敵対・僭聖上慢の悪比丘たるべし(研究教学書)」



以下より土方反駁


 まず、肉筆の御本尊についての記述がほとんどないことは、これまでも明らかにした通りである。本因妙抄のその文は、大聖人が書かれたものではなく、後世によって書き加えられた「後加文」であり、御書では小さな文字で書かれている。



土方闘騎のブログ


 上記の画像は、五十九世・堀上人の直筆資料だ。堀上人によれば「西山本門寺で書き加えられたもの」だと仰せられている。


 法主以外の僧侶が御本尊を書写されることはないというが、富士宗学要集第8巻・第三曼荼羅脇書等には、日興上人の本弟子である日華・日仙も本尊書写しているし、本弟子6人中少なくても4人が本尊書写している。これはどういうことか?


 また、大石寺に近い「妙蓮寺」でも、日華が書写した本尊が残されている。


 日尊が言ったことが正しいなら、かえって学会が御形木御本尊を発行することに問題がないことを証明する結果になる。なぜなら日尊は、書写しない代わり彫刻板本尊を造立している。しかも日尊は釈迦像まで作っている。



2010-05-04 03:11:02

GW特別企画 日蓮正宗対策網 最終章 最後に

テーマ:宗門関連

 GWの時間を利用して久々に宗門関係の資料を引っ張り出して、改めて勉強しなおした。現在の創価学会には、もうほとんど関係ないものではあるが、昔はよく研鑽していたのがなつかしく思える。


 しかし、学会に現存する破折資料をそのまま生兵法で活用するだけでは、もはや通用しないのも事実であり、それを痛感した私は、自分で考案した対策方法を公開し、後世までの学会厳護の一環としてアップさせていただいた。


 よく法華講から、学会の本尊には授与書きが削除された「変造」だ!との難癖を耳にする。


 あまり知られてはいないが、創価学会草創期時代では、宗門から信徒に授与書きを削除した日寛上人の御形木御本尊が授与されているのだ。


 それが以下の画像。



土方闘騎のブログ

 これは「享保三年」に日寛上人が書き表したものを、御形木御本尊にしたもの。○で囲んでいる箇所には授与書きが削除されている。


 御形木御本尊には開眼がしてあるのかどうかの問題について、青年僧侶改革同盟である松岡幹夫氏が、宗門への追及によって、御形木には開眼はなく、法主の許可だけで十分だと白状している。


 宗門では古来から、大聖人・歴代法主が書いた本尊を「本本尊」と呼び、御形木などは「仮本尊」と呼んできた。しかし、本か仮かどうかにも関わらず、あくまで受持する側の信心で決まることは、すでに創価学会が証明している。


 一般的な例えで言うならば、御本尊(法)は楽譜にあたり、「人」を演奏者に置き換えることができる。名目上はいくら何でも、同じ楽譜を持ち、同じ楽器を持ち、同じ曲を演奏しても、素人とプロとでは全然違うのは当然の道理だ。上手になるためには、大衆を感動させる演奏をするには、相当な熟練と心を鍛える修行が必要になる。


 この例えを借りて学会と宗門の関係を表すと、宗門はベートーベン直筆の楽譜をもっているからすごいのだと自慢し、学会が持っている楽譜は市販の物だが、楽譜の通りに上手に演奏できる。要するに、宗門はベートーベン直筆の楽譜を持っていても、その通りに弾きないようなものだ。


 最後は人で決まってしまうのである。

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