新興宗教の魅力

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はじめに

新興宗教と詐欺

変身願望

なぜやめないのか
生きがい

悩みごとからの入信

孤独からの入信


神秘体験



  はじめに

いろいろ批判されているにもかかわらず、統一協会やオウム真理教といったインチキ宗教に入信する人が相変わらず後を絶ちません。なぜでしょう。あるいは、安物の壺を百万円で売りつける。農薬だらけの野菜を無農薬、有機栽培だと嘘をつく。こんなことが平気でできるのは、洗脳されたからでしょうか。また、家庭をほったらかしにし子供を連れて宗教の勧誘に歩く人、教団の出版物を大量に買っては人に配る人。こういう人たちは少し頭がおかしいのでしょうか。
私はそうは思えません。誰でもがそうなる可能性はあります。

神慈秀明会では、ノルマを果たすため「
借金してでも献金させて頂きなさい」と言い、それでサラ金などから600万円も借金して献金する人もいたそうです。そうして150億円の神殿、500億円の美術館ができました。さすがに批判が出て、新体制に変わったそうです。そのことに対する信者の反応は次のようなものです。

,サラ金から借金までして献金する人がいたとは信じられない
,教団は必要に迫られて仕方なかったんだろう、教主は知らされていなかったんだろう
,そういうやり方はおかしいと言っても受け入れてもらえなかったが、現在は新体制になったから問題ない

大川隆法は「○○の霊言」という本をやたらと出しましたが、現在では、それらは方便だった、と言っています。
立正佼成会でも教団初期の教えは方便なんだそうです。
方便と言えば聞こえはいいですが、つまりは嘘をついていたと言うことです。今から何年か経ったら、あれは方便だった、とまた言うかもしれません。いい加減なもんだと思いますが、信者の人たちはそういうことには目をつむり、善意に解釈し、教主やその教えを信じているのです。オーム真理教や法の華三法行ばかりが特別なのではありません。

もちろん信じている宗教、所属している教団を弁護して守りたいのは人情ですし、問題があるからといって簡単にやめられないのも分かります。しかし、誰が見てもおかしい教団に入信し、無茶苦茶な要求や命令にも従順であり、第三者の言うことには耳を傾けようとしないのは不思議ですね。

なぜそうなるかというと、そうした教団では詐欺と洗脳のテクニックを使っているからです。そして信者の側としては@不満、A不安、B孤独があるからです。

@
不満とは、今の状態、今の自分を受け入れることができない、ということです。ですから変身願望を持ちますし、神秘体験にあこがれます。
A
不安とは、何かよくないことがおこるのでは、ということですし、よくないことがあれば何とか解決したい、ということです。
B
孤独とは、人間はひとりでは生きていけない、ということです。

また新興宗教の教えは親しみやすく、わかりやすいのです。決して目新しいことは言っていません。だから抵抗感がないのかもしれません。どういう教えかというと、
@信心すればご利益があるというご利益信仰
A死者の霊魂をお祀りすればいいことがあるという霊信仰、先祖崇拝
B現在は過去(前世も含む)の因縁によって決定しているということ
Cこの人は絶対だという生き仏、生き神信仰
といったところでしょうか。

そしてよくないことが起こるのは、
@
霊魂や神のせい
A
過去(先祖や前世を含む)のよくない行為のせい
だと説明します。
といったところでしょうか。

こうしたテクニックを使い、人の弱みにつけ込み、もっともらしい教えを作り上げるのですから、誰でもひっかかるわけです。

こういうことを言うと、真宗の教えが正しくて、他の宗教は間違っていると主張していると思われるかもしれません。そうではありません。
善知識だのみ、秘事法門、本願ぼこり、施物だのみ、など真宗における異義がたくさんあります。これらの異義は新興宗教が説く教えと共通する部分が多くあります。そうした異義を信じるのは他の人ではなく私自身です。また教団の内紛、分裂は新興宗教ばかりの専売ではありません。本願寺でもおなじみです。ですから新興宗教について学んでいくことは大切だと思います。


  生きがい

麻原彰晃になぜ多くの人が惹かれたのか。その理由の一つは、麻原が人々に生きがいを与えたことだと思います。

信者になった人の多くは真面目で純粋です。そして世間の常識、価値観に違和感を持っています。安定した生活、ありきたりの人生、そうしたものが幸せなんだとは思っていません。
なぜ自分は生まれたのか、生きるということはどういうことかを問い、世の中の不正、不平等に怒り、世のため人のために自分は何ができるんだろうかと悩み、自分を高めるために努力します。
しかし周りにいる多くの人はそんなことに関心がありませんから、心を開いて話し合うことができません。

ところがオウム真理教はそうした悩みに答えを与え、何をすべきかを教えてくれました。
まず自分自身が修行して解脱する。そして解脱する人が一人でも増えれば世の中は変わっていく。人々を救済できる。

これを聞いて、自分でも何かできるんだ、有意義に生きることができるんだ、人生を全うできるんだ、と感激したわけです。生まれてきた目的、生きていく道を初めて見いだせたのですから。

そして入会してみると、みんな解脱、悟りという一つの目標を目指している仲間です。その人たちはごく普通の人なんですが、生き生きと輝き、自信に満ちています。お互いに心を開いて何でも話し合うことができます。今まで人に話せなかった悩みを包み隠さずあけっぴろげに話し合えるのです。

修行は厳しいですが充実感があります。何のために生きているのか、という問いに答えを与えられ、その実現に向かっていると信じているのですから。すべてを断ち切り、自らの解脱と人々の救済のために自分を捧げる正しい道を歩んでいるわけです。
その修行はきちんと体系づけられており、その意味について疑問があれば説明してもらえます。
そして何よりも修行をすれば目にみえる効果が出てきます。タバコや酒がほしくなくなる、腰痛が治るというような。そして神秘体験が経験できます。この経験は強烈ですから、経験した人はオウム真理教の教えが正しいことを確信するようになります。
壁にぶつかった時にも、自分は神秘体験を経験したんだ、だからこれで間違っていないんだと思うことができます。神秘体験は支えにもなるわけです。
麻原彰晃「生死を超える」に信者の体験談が載っていますが、全員とも神秘体験に言及しています。

麻原個人の魅力もあります。君子然としているわけではありません。ごく普通のおじさんのようです。だから、「あなたの苦しみはよくわかる、自分も同じことを苦しんだんだ」という言葉に現実感があります。また怒ったりほめたりすることの使い分けが上手です。器の大きさを感じさせる怒り方、つぼを押さえたほめ方をします。

このように生きがいを与えてくれ、充実した日々をおくることができる道を示してくれた麻原彰晃に、絶対的な信頼を持つようになったわけです。
サリン事件などにオウム真理教が関与していると明らかになった後も、なぜ教団を脱会しないのかという理由も生きがいということです。私の生きる道だと信じていたものを捨てて、どのように生きたらいいのかわからない元の状態に戻らなければいけないわけです。これはつらいことです。


  
悩みごとからの入信

新興宗教に熱心な人は何でもないことにも取り越し苦労する人が多いように思います。こうでなければならないという思い込みが強く、何か問題が生じると悪い方に考え、原因は何だろうか、何とか解決しなければと悩みます。真面目すぎるのかもしれません。

もちろん誰でも天災、病気、事故など突然の災難にあった時、何でこんな目に遭うんだろうかと嘆きます。私たちはいわれない苦悩を考えることはできません。なぜそんなことになったのか、その原因、理由を知ることで納得しようとします。苦悩の原因が発見されないかぎり不安や怒りは治まりません。名前がよくないとかエーテルがどうのといった馬鹿げたことが原因だと言われても、わからないよりましですから、つい信じてしまうのでしょう。

そして第三者から見てあまりにも安易でお手軽な解決法に飛びつきます。たとえば、健康食品を常用すれば病気にならない、お守りを一日中つけていれば災いを避けることができる、吉相のハンコを買えば運命が好転する、など。

このように新興宗教はすべての問題の原因と解決法を教えてくれるのです。たとえば、恵まれた人とそうでない人がいるのはなぜか、なぜ人間は平等ではないのか、という問には、それは前世の業(カルマ)による、だから功徳を積むことで業を清めなさい、というように、答と改善策がきちんと与えられます(これはオウム真理教の答ですが、もちろんこの答が正しいかどうかは別です。不幸の原因は先祖の因縁か前世での悪業の結果だと思っている人は結構多いんじゃないでしょうか。真宗ではこういうことは言いません)。
新興宗教が教えてくれる問題の原因は単純でわかりやすく、解決法は安易で簡単そうなものです。また我々はその解決法として自分が元々考えていた方向、願っていた方向での解決法を無意識に選んでしまいます。

たとえば、子供が難病にかかっているとします。この病気は現在の医学では治すことができないから、病気が治ることはあきらめる、というのも一つの解決です。しかしその事実を認めたら、今度は子供の死をどう受け入れるかという問題が生じます。それでは苦悩が続きます。それよりも、こうしたらあなたの子供の病気は治りますよ、と言ってもらいたいのです(たとえば、悪竜のたたりだから降伏すれば大丈夫)。それならばすぐに飛びつくでしょう。その言葉が正しいと思うからというよりも、本当であってほしいから正しいと思い込むのです。おかしいと思っても、ひょっとしたらと賭けてみたくなります。人間の弱さであり、迷いです。

しかしこうした話がいかに魅力的であろうと、あるいはどれほど慰めになろうとも、それが真実であるかどうかということとは全く別の問題です。こんなことで長年わずらった病気が簡単に治れば誰も苦労はしません。あくまでも夢を与えているだけなのですが、現実の厳しさよりも、とりあえずは夢の方がいいので、そんな話を信じます。しかし真の解決ではありませんから、問題は解決されずに残ったままです。

問題が解決しない時の常套句(言い訳)は、
@
もっとひどくなっていたはずだが、この程度ですんでいるんだ。
A
信心や行が足りない(つまりお金をもっとよこせということ)。
B(霊などが)
手ごわいのでどうしても時間がかかる。ここでやめたら今までしてきたことがみんな無駄になるし、もっとひどくなる。

あるいはどっちに転んでもいいような論理を使います。ある新興宗教(手かざしで病気が治ると言っている宗教です)では、
・妊婦が手かざしを受けて安産なら「
お浄めのおかげ
・流産なら「
災いをもたらすような子なので、神様の愛で流産させた
・手かざしを受けずに流産したら「
その家の家系を絶やそうとする霊の仕業
と言うそうです。

こんな具合にまるめこまれると、最初はちょっと試してみるだけと思っていても、いつの間にかずるずると底なし沼にはまりこんでしまい、抜け出ることが難しくなります。楽しい夢がいつの間にか悪夢になってしまうのです。
健康食品や民間療法をいくら試みて効果がなくても、なかなか止められないのもこうしたことのためでしょう。自分は騙されている、間違っていると気づき認めることは難しいものです。