田口八重子さん 拉致から34年6月29日 5時31分
田口八重子さんが幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致されてから、今月下旬で34年がたちました。北朝鮮の指導部が新しい体制に移行したあとも、拉致問題に依然、進展が見られないなか、家族は、解決に向けた政府の全力の取り組みを求めています。
田口八重子さん(当時22)は34年前の昭和53年6月下旬、1歳と2歳の幼い子ども2人を残したまま北朝鮮に拉致されました。八重子さんの消息を巡っては、一時期、大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚の日本語教育係をさせられていたことが分かっていますが、北朝鮮が「死亡した」と説明している時期よりもあとに現地で韓国人と結婚した可能性があることや、2000年に入って以降の生存情報が政府に寄せられていることが明らかになっています。
その一方で、キム・ジョンイル総書記が死亡し指導部が新しい体制に移行したあとも、北朝鮮は事実上のミサイルの発射などで国際的な孤立を深めており、日本と北朝鮮の公式協議も、4年前を最後に開かれていません。
この間、八重子さんも56歳になり、帰国に結びつく進展もないまま34年が経過したことに家族は危機感を募らせています。
八重子さんの兄の飯塚繁雄さんは「34年の月日はあまりにも長く重い。政府は全力でやっているというが、私たちが欲しいのは結果であり、帰国につながる具体的な成果が出る取り組みを政府には求めたい」と話しています。
田口さんの北朝鮮での消息は
田口八重子さんの北朝鮮での消息は、帰国した拉致被害者や大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚の証言などから、その一部が明らかになっています。八重子さんは拉致されてから1年あまりの間、帰国した拉致被害者の地村富貴恵さんと一緒に北朝鮮の「招待所」と呼ばれる施設で暮らしていました。
その後、北朝鮮当局の指示で、1981年から83年にかけて、大韓航空機爆破事件の実行犯、キム・ヒョンヒ元死刑囚に日本語や日本の風習を教えていました。
1984年には「チュンリョンリ」と呼ばれるピョンヤン市南東の山あいの地区に移され、厳しい監視のもと、拉致被害者の横田めぐみさんと共に、キム元死刑囚の同期生だった「スクヒ」という名前の女性工作員に日本語を教えていました。
八重子さんはその後、北朝鮮が「死亡した」と説明している時期よりもあとの1986年夏以降、「敵工部」と呼ばれる軍の拠点に連れて行かれ、韓国人の拉致被害者と結婚した可能性があることが、帰国した拉致被害者の証言などから明らかになっています。
また、おととしには、当時の中井拉致問題担当大臣が、2000年に入って以降も八重子さんが元気でいるという情報が寄せられたことを明らかにしており、北朝鮮の説明の信ぴょう性には多くの疑問が持たれています。
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