国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)の施設内に来月1日、認可保育所「花さき保育園」が開所する。熊本県合志市の「菊池恵楓(けいふう)園」でも保育所は運営されているが、国の設置基準をクリアした認可保育所は初めて。かつて子孫を残せないよう断種や堕胎を患者に強要した療養所に、子供たちの元気な声が響く日が来る。
http://mainichi.jp/select/news/20120627k0000e040177000c.html
2011年2月25日 東京都知事選挙出馬記者会見当日の配布資料から抜粋
◇「人権の塔」構想の推進
東京都が主体となって推し進める。合わせて多磨全生園入所者がふるさとの地を「望郷」するために築いた望郷の丘(ぐるぐる山)の意味を永遠に後世に伝えるために、周辺の八国を見渡せる高さ「八国山ほど」の望郷の塔を全生園敷地内に構築し、人権侵害の地全生園を「世界人権遺産」として位置付けていく。
現全生園入所者や全国のハンセン病回復者の方々の意思を尊重し、子供たちが集う「にぎやかなエリア」として発展させていきたい。併設して、いじめや差別をなくすための啓蒙的役割も担っていく施設もつくっていきたい。
<終了>
筆者は、多磨全生園の現在の自治会長である佐川修氏から「物凄い話」を聞くことになりました。その話を要約すると以下の通りです。
◇佐川少年は、67年前の昭和20年3月10日の東京大空襲でやけどを負ったが助かった。
◇佐川少年は山積みされた死体を焼く作業を手伝った。
◇やけどを治療するため、医者に行ったところ、ハンセン病と診察され、草津の栗生楽泉園に入所した。
◇栗生楽泉園の監禁施設でも、死者(凍死者、病死者)の死体を焼くことになったが、佐川少年には「見慣れた光景」であったため、なんとも感じなかった。
◇その後、他の入所者同様に隔離され続け、1996年の「らい予防法」の廃止後も多磨全生園に住み続け、今日に至っている。
多磨全生園入居者自治会が発行している「正しく学ぼう!!ハンセン病Q&A」を読むと、厚生労働省が「私たちは悪くなかった。元患者が死に絶えれば、何もなかったことにできる」という空恐ろしい計画が読み取れます。
以下は、その内容の一部であす。
Q 何が間違っていたの?
A 国が行った強制隔離政策です。
放浪するらい患者(浮浪患者)の存在が、欧米人の目に触れることを国辱(国の恥)と考え、1907(明治40年)、法律「癩予防二関スル件」の制定によってその一掃を図りました。この法律の下では、実際に強制隔離されたのは患者全体の一割にも満たない浮浪患者だけでした。1931(昭和6)年制定の「癩予防法」では、「民族浄化無癩日本」を旗印に、すべての患者を根こそぎ、療養所に収容し、強制隔離して新たな患者を「終生隔離(一生、療養所に隔離すること)、患者撲滅政策(社会から患者をなくすこと)を展開していきました。各県の衛生担当者と警察は患者を探し出し、療養所に送り込みました(無らい県運動)。こうしてハンセン病患者は、危険人物というレッテルを貼られ、家族を含めて地域からはひどい差別にあいました。
1953(昭和28)年には、既にハンセン病の治療法も確立しつつあったことを国側は知りながら、強制隔離政策を永続・固定化する「らい予防法」を、患者の猛反対を押し切って制定しました。これらの法律には、退所(療養所を出る)の規定がないこともあり、病気が治ったとしても、社会(故郷)に戻れる人は、ほとんどいませんでした。
これにより、多くの患者は色々な人権侵害を受けてきました。
療養所長には懲戒検束権(大正5年に定められ、療養所長に、7日以内常養食、《いつも食べている食事の量》を2分の1まで減食、30日以内の監禁《閉じ込める》などの懲戒又は検束の権限が与えられていました)が与えられ、患者はそれにより、反抗的な態度をとる等、まったく些細なことで監房(悪いことをした人を入れる部屋)に入れられるなど、24時間体制で監視され、その中で労働などの作業を強制されました。中にはそれによって亡くなった人もいました。
逃亡防止(逃げないようにする)のための特別病棟(重監房)の設置や園内通用券(療養所では、入所者が逃亡を防止するため、お金の代わりにその療養所の中でしか使うことの出来ない金券)の発行も行われていました。特別病室(重監房)とは、国立ハンセン病療養所栗生楽泉園(群馬県)設置されたハンセン病患者のための監禁施設です。1938(昭和13)年から1947年の9年間にわたって運用されてきました。
特別病室には全国から患者が送られ、冬はマイナス16〜17度という環境の下、電灯も暖房もない暗い部屋で、一日梅干し一個と飯、布団2枚という状況で、医師による医療行為も行われなかったため、多数の人たちが亡くなって行きました。「特別病室収容簿抜き書き」によると、その9年間の内に、全国から93名のハンセン病患者が収監され、このうち、監房内で死亡した者(獄死者)が14名、監禁中に衰弱して出所後に死亡した者(出所後死亡者)が8名に達しました。また、監禁日数は長期に及び、全収監者の平均で131日。500日以上という例もありました。
このように施設の性格は「病室」ではなく「監禁・懲罰」目的に作られた施設であることは明確でした。
また、園内で結婚する場合は、療養所内において断種(子どもができなくなる手術)や、堕胎(お腹の子どもを殺してしまうこと)を行うことが条件とされました。(断種手術は1992年(平成4年)迄行われていました)
ハンセン病の原因である“らい菌”の感染力は弱く、かつ、仮に感染しても発病することは極めてまれな病気です。
しかし、ハンセン病は、恐ろしい伝染病であるという誤解から、ハンセン病にかかった人々は、このように長い間、人権を侵害されてきたのです。
<終了>
筆者は、佐川さんや、全療協で働く知人に対して尋ねました。「1983年に開業した東京ディズニーランドを訪問する計画や、ミッキー、ミニーたちの慰問は一度もなかったのですか」と。
答えは「一度も考えませんでした」
東京ディズニーランドは、オープン以来一貫して「障害をお持ちのゲストも健常者も、まったく同じゲストであり、料金割引などの差別対応をすることはない」というポリシーを維持し続けてきました。最初の数年は「なぜ、割引をしない」と主張するグループと、「どんな障がい者にも、暖かく接する東京ディズニーランドが好き」というグループに分かれましたが、次第に「東京ディズニーランドは、別世界」という評判により、日本中で現在でも行われている「障がい者への差別」は東京ディズニーランドでは通用しない、という風潮になっていったのです。
筆者は、多磨全生園のある東村山市に1986年から住んでいました。ハンセン病問題の深刻さを知ったのは、筆者が同様に、人権侵害を被った後の2009年秋のことです。筆者は、自身の無知と無関心さを痛く恥じました。
もし、1986年にハンセン病の問題に気付いていれば、筆者は間違いなく多磨全生園を訪れ、東京ディズニーランドへの来園を促したでしょう。実情を知った東京ディズニーランドは、つまり筆者たちパーク運営の責任者たちは、出来ることを惜しみなくして差し上げたことでしょう。
東京ディズニーランドには、「難病の子の夢を叶える」などと宣伝しながら、売名慈善団体が特別対応を求めて連絡してきますが、特別対応はおこないません。しかしながら、ハンセン病患者の集団という「世間から白い目でみられている」特別な団体に関しては、「これがディズニーだ」というほどに親切に対応します。
悔しくてなりません。当時の厚生省の謀略、人目にさらさない政策を逆手にとり、「東京ディズニーランドはハンセン病患者を喜んで受け入れている」というメッセージを日本中に発信できていれば、東京ディズニーランド開業とともに、ハンセン病患者差別問題はなくなっていたはずです。
知りませんでした。知っていれば世界中のディズニーの仲間たちとともに、ハンセン病差別問題と戦いました。そして、勝利を得ることができたものと確信します。
そうすれば、1992年まで続いた断種手術など、まさに「アウシュビッツ」以上の虐待は行われなくなっていたはずです。
確か2003年頃でした。熊本県の黒髪温泉を訪れた元ハンセン病患者一行が、宿泊を断られた事件がありました。結局、ホテルは閉館することになりましたが、テレビで元患者たちが激しく抗議する姿をみた市民から、「ハンセン病患者は何様だと思っている。国からカネをもらっていきているのだから大きな顔をするな、宿泊拒否は当然だ」というような誹謗中傷の手紙が、元ハンセン病患者のもとに多数届きました。その手紙集は、多磨全生園の国立ハンセン病資料館内の図書室に、隠すように置かれていますが、恐らくそれを目にする人は、一年に数十人だと勘案されます。
その国立ハンセン病資料館は、1996年に菅直人厚生大臣が訪問した時の資料館ではなくなり、まさに「日本にはハンセン病に関する失政は存在しなかった」という展示内容に変わってしまっています。詳しくは、ハンセン病市民学会の年報の特集記事「リニューアル資料館を考える(シンポジウム記録)」に厚生労働省の「悪だくみ」が書かれています。
<引用開始>
国のお金をつかって国の過ちを認めて資料館をつくることは、日本の国においては画期的な出来事あって、ハンセン病だからというよりは、この国が過去の反省をするということに、私は注目していました。どんな資料館になるか楽しみにしていました。去年、新館に足を運んでみて、驚きました。何を言いたいのか分からない
資料館になってしまって、悪夢を見ているような腹立たしい気持ちになりました。何がいけないのか。なんでこんな気持ちにならなければいけないのか。私なりに整理してみました。
まず最初に「古くから差別されてきたハンセン病とはこんな病気です」とものすごく大きな字で、最初のパネルにでてきます。これは番組でいうと、タイトルみたいなもので、人に印象を与えるパネルです。
<終了>藪本雅子 元日本テレビアナウンサー談
さすがに「伝える側の技術」である記号論を習得しているパネラーらしく、かなり良い所に着眼しています。
筆者は何十回もこの資料館を訪れています。そして、類推して「誰が何の目的でリニューアルしたのか」という命題の結論を得ました。
結論は、
「私たち厚生労働省は、世界に類を見ないほどの人間虐待行為をつい最近まで行ってきました。どうか、私たちの犯した犯罪を罰して下さい。私たちは過去を悔い改め、薬害エイズ事件後に生まれ変わった厚生労働省として、新しい厚生労働行政を行っていくことを約束し、実行に移します。」
これをひっくり返しに読むと、「誰が何のためにリニューアルしたのか」が分かります。
「私たち厚生労働省は、世界に類を見ないほどの人間虐待行為をつい最近まで行ってきませんでした。どうか、私たちの犯していない犯罪を罰しないで下さい。私たちは過去を悔い改めません。薬害エイズ事件後に生まれ変わらなかった厚生労働省として、明治以来の連続性を維持する厚生労働行政を行っていくことを約束し、実行に移します。」
「厚生労働省は当事者ではない、第三者であり間違ったことをしない」という「神話」つまり作り話を推理しながら、館内の展示物を見て回ると楽しくて仕方ありません。なぜなら、元ハンセン病患者の方々のために、厚生労働省をやっつけることができる、と思えてくるからです。
展示物はすべて「記号」です。記号とは、脳の情報処理を強制コントロールする「アイコン」のようなものです。見える形になったコンピュータ上で単純化された「アイコン」には、それをクリック、つまり選択して受け入れると、必ず同じに作動する仕掛けがかくされています。「アイコン」がなかった、ビフォア・ウインドウズ時代には、コンピュータにいちいち「呪文」を打ち込まなくてはなりませんでした。(複雑でしたが、他者にはできないという達成感があって面白い時代でした)
このように、「記号」には、隠された「呪文」という、命令が自動的に含まれます。藪本氏が指摘した「人に印象をあたえるパネル」というのは、パネルという「記号」を受け取ったものは、「記号」を発信した人間、つまりパネルを作った人間の言いなりになりなさい、と脳に対して命令してくるのです。
日本人は、「厚生労働省がつくったパネルだから」「有名人の発言だから」と、目や耳から受け取る「記号」を、何も疑うこともなく、そのまま丸飲みするようにつくり上げられています。まさに「神話」の世界に生きているのです。
ハンセン病資料館は、厚生労働省に都合がいい「記号」で溢れかえり、都合が悪い「展示物」は、「すべて削除」と言っても過言ではありません。
特にひどいのは、「外国人キリスト教徒の貢献隠し」ですが、長くなりますので後日に記します。
佐川さんや入居者の方々には、子どもたちの元気な声が聞こえるという錯覚を与える報道ぶりにはあきれます。多磨全生園内を歩いても、人の姿は見かけられません。来月開園する保育園も南東の角地にあり、自動車による騒音が一番ひどい所です。
そもそもです。多磨全生園内にはもともと保育園がありました。入口を入り、すぐ右に曲がってすぐのところです。認証保育園ではありませんが、もちろん入居者との交流もありません。
この度できた保育所は東村山市の社会福祉法人が経営しているそうですが、長い目で見ていかないと「厚生労働省」の思い通りになり、入居者との交流などすぐに打ち切られる可能性もあります。まさに「シメシメ」の世界です。
ハンセン病の問題に関しても「クリスチャンの私でなくてはできないこと」があります。決して追求の手を緩めません。