http://daibutsuda.blog26.fc2.com/blog-entry-669.html【統合医療】統合医療への道は遠い
NATROM氏と話をして、やはり統合医療への道は遠いのだな、と感じざるを得ませんでした。
「幸せなお産」の件に関しては、予想通りと言うべきか問題の「出産後死亡」の件で帝王切開の方が良かった、その医学的根拠などと言ったリプライをいただきました。
その点に関して私が異論を持っていないと言うことについても、Twitterをごらんになった方ならご存じの通りです。
8人に1人が死産というのは、私が千分率を百分率と間違えてしまったために起きたミスであって、本当は80人に1人です(ここ数年の平均で行けば、です)。元々私は「死産や出産後死亡」が普通にある、と言っていたのですから、死産と出産後死亡を混ぜています。そして、この数字は十分「普通にある」と言って差し支えないレベルでしょう。
もちろん、私はこの手の統計数字を扱うのには慣れていません、山川という人から根拠を出せと執拗に迫られたので、やむを得ず出しただけですし、間違っているなら訂正してくれればいい話なのです。
というか、医師ならその程度の数字は最初から出すのが筋でしょう。でなければ、横レスなどしなければいいことです。
考えても見てください。80人に一人が死産と言うことは、今新生児は1分に2人生まれているんでしたっけ?(ちゃんと調べてないのでつっこまないでください)つまり30秒に1人生まれているわけですから、80x30=2400秒=40分に1人は死産という計算になります。日本のどこかの「近代医療」の病院で、一日あたり何十例と「死産」があるわけで、これは「普通」でしょう。
さて、その「普通」にある「近代医療」の病院における死産を、ことさらセンセーショナルに、「近代医療の暗部」とか言ってスクープすることも、それほど難しいことではないでしょうし、実際にそういう話も過去にニュースになったことがあります。
これを持って近代医療がどうこうとかマスコミがどうこうといったしょうもないインネンをつける気はなくて、NATROM氏の記事はそういうものに対する一種の「復讐」なんじゃないかと思うわけですね。つまり、本人はいたって論理的・科学的な批判と思っているようですが、実際には感情的なのではないかと思うわけです。
感情的な批判を私は否定するものではありませんが、論理的・科学的な論調で痛烈な批判を行うNATROM氏と、それに諸手を挙げて賛同する「信者」の方々に、私はNATROM氏が吉村医院に感じたであろうと同種の「気持ち悪さ」を感じてしまうのです。
そこには「なぜ代替医療がポジティブに報道されるのか」といったことに対する考察が、そっくり欠落しているのです。
しかし、どうやらあのやりとりで、近代医療と代替医療の間の溝は、私が思っているよりもずっと深くて暗いのだと言うことを思い知らされました。
私が一度世話になった整体師の方にも「連中とは絶対に関わるな」と言われていたのです。
実直な整体師の過去に何があったのか、私には知るよしもありません。しかし、今回のやりとりで何となく分かった気もします。
しかし、私はへそ曲がりですし、自分で確かめないとよく分からないという性分もあり、一度試してみることにしました。彼らが「自分自身の無意識的無謬性」を知る努力を、どれだけしているかと言うことをです。
結果としては、たぶん全くしていないと言うことが分かりました。
「無意識的な無謬性」に対して「それは間違い」と言いきるNATROM氏。しかし「吉村医院より近代医療の方がいい」。こういうのを無意識の無謬性というのであって、この文脈そのものが私から見れば矛盾しています。
しかし、それは無意識になるものですから、自覚するのはまだまだ難しいかもしれません。
やはり、統合医療への道のりはかなり長いのだと思わずにはいられませんでした。
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論理のすり替えではなく、まさしくだいぶつさんの詭弁の中心を指摘しております。すなわち、代替医療に親和的である気持から問題のある医療行為を擁護するあまり、医療ミスですら擁護できるような論理を持ち出しているという詭弁です。『「仕方ない」以外に言う言葉はありません』とは、つまり、
・「病院で治ると信じていた以上は、医療ミスで病気の子が死んでも問題ない」と、だいぶつさんはお考えなのですね。
私は医療ミスは無いほうがいいし、医療ミスをなくすための努力を怠るべきではないし、医療ミスを犯した医療者は批判されてしかるべきだと考えます。人間である以上ミスを犯すことはありますが、少なくともミスを犯したら医療者は反省すべきです。「たった一例で医療ミスだと批判するのはどうかと思う」などと言い始めたらヤブ医者は大喜びです。
>見聞したことでしかありませんが、健康診断は受けるとそれだけで寿命が縮むそうです(EBMによる結果だそうです)。前立腺がん検診なんかもそうです。検診を受けた郡の方が有意に寿命が縮むそうです。
祈祷と検診を比較した試験があったので?あるいは、「健康診断は受けるとそれだけで寿命が縮む」というのは初耳ですが、よしんばそういうタイプの健康診断があったとして、だいぶつさんの論理だと「健康診断を受けると長生きできると信じた以上は実際にその健康診断で寿命が縮もうと問題ないですね」ということになりますね。私は、「健康診断は受けるとそれだけで寿命が縮む」ことが明らかになった時点で、そのような健康診断は中止すべきだと考えます。別に寿命が縮まなくても、RCTで有効性が示されていない検診はルーチンで推奨されるべきではないと私は考えています。
>批判しては「ならない」とは考えていません。ただ批判の依拠とするところが「悪意」であれば、批判するのはおかしいと言うことになります。批判の依拠が「家族を失った悲しみの怒りのぶつけ先」と言うのであれば、別にかまいません。なとろむ先生の依拠は「エビデンスがある」と言うところですね。
それで、吉村医院を批判するのはOKなんですか?それともNGなんですか?まさか、遺族でなければ医療ミスを批判してはならないなんてことはないですよね。
>虚偽と言うのは、意図的にそれが間違っているという前提と考えていますが、たとえば無知や勘違いが原因であっても、ダメですか?エビデンスも、解釈によってとらえ方が変わると言うことは、無いでしょうか?
あのですね、意図的に騙していることを批判しているんじゃないんです。悪意の有無も関係ないです。純粋に患者を助けたいという善意が無知によって患者を殺すことがあるんです。「無知や勘違い」も程度問題で、一握りの専門家以外は知らないようなことなら仕方ないと言えますが、水準の知識は医師は持っているべきでしょう。「違った血液型を輸血したらいけないなんて知りませんでした。でも患者を助けたい一心で輸血しました。病気ではなく人を診ていたのです」と医師が心の底から思っていたら輸血ミスが免責されるんですか?私は、怠慢で輸血ミスをやらかすより、血液型についての知識が無くせに人を診れる気でいる医師のほうがヤバいと思いますが。
「エビデンスも、解釈によってとらえ方が変わる」というのはあります。しかし、これも程度問題です。たとえば、健康成人のインフルエンザにタミフルを投与すべきかどうかは専門家によって意見が変わります。40歳代の乳がん検診をルーチンで行うかも専門家の間で意見の相違があります。けれども、吉村医院のケースは、専門家の間で意見の相違はありません。100人が100人、「これはダメだろう」というレベルです。輸血ミスを犯しておいて「エビデンスも解釈によってとらえ方が変わる」などと言い訳する医師がいたとしたら、許されると思いますか。
>エビデンスがすべての医療を決定づけるなら、医師は無用と言うことですか?
意味がよくわかりません。「医療にエビデンスなんて関係ないなら、医師は無用」なら、だいぶつさんの主張と整合性がとれます。患者さんを診察し、問題点を見つけだし、情報を収集し、その情報を患者にどこまで適応できるのかどうかを判断し、医療を行い、結果を評価するという過程に専門家(すなわち医師)は必要に決まっているでしょう。
単に患者さんに共感して祈るだけなら専門知識は要りません。自然に任せてやばくなったら丸投げするのにも専門知識は要りません。吉村医師からして「医者なんて要らない」と言っています。ツイッターでのやり取りでも思ったんですが、だいぶつさんは「EBMはマニュアル医療である」と誤解していませんか?