「慰安婦=性奴隷」を広めた戸塚悦朗の「大罪」
実はその問題の判決が出されるにあたり、日本人弁護士戸塚悦朗が同裁判所に意見書を提出している。この戸塚こそが「慰安婦=性奴隷」という国際謀略の発案者だった。
戸塚は自分のその発案について次のように自慢げに書いている(『戦争と性』第25号2006年5月)。
〈筆者[戸塚のこと・西岡補]は、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO(IED)の代表として初めて提起し、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請した〉
この92年2月とは、宮沢総理が訪韓して盧泰愚大統領に8回謝罪を行ない慰安婦問題が日韓の外交懸案に浮上した直後のことだ。当時は日韓のマスコミ日本軍が「ドレイ狩り」のように慰安婦を連行したという虚偽宣伝が事実として報じられていた時期だ。
戸塚の自慢話の引用を続けよう。
〈日本の国会審議で日本政府が無責任な発言をしたこと、韓国で金学順さんら被害者が名乗り出て、「人道に対する罪」を告発する訴訟を起こしたこと、吉見義明氏による公文書発見で軍の関与が証明されたこと、日本首相による一定の謝罪があったことからとった行動だった。〉
ここで言及されている名乗り出た金学順さんは人身売買によりキーセンとして朝鮮業者に売られた被害者であり、吉見発見文書とは軍が民間業者の不法な慰安婦募集を取り締まるように求めるものだった。このことは90年代の日本国内での論争で明確になった事実だが、戸塚は2005年になっても全く反省なくこのように書いているのだ。
戸塚の引用を続ける。
〈当時、韓国の教会女性連合会など諸団体は、この問題を「日本は多くの若い朝鮮女性たちを騙し強制して、兵士たちの性欲処理の道具にするという非人道的な行ないをして罪を作りました」と規定していた。
しかし、それまで「従軍慰安婦」問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、これをどのように評価するか新たに検討せざるをえなかった。結局、筆者は日本帝国軍の「性奴隷」(sex slave)と規定した。たぶんに直感的な評価だったが、被害者側の告発が筆者の問題意識にもパラダイムの転換を起こしていたのかもしれない。〉
この戸塚の直感が国際社会での反日謀略のスタートだったわけだ。日本人が国連まで行って、事実に反する自国誹謗を続けるのだから、多くの国の外交官が謀略に巻き込まれるのは容易だった。
戸塚の引用を続ける。
〈だが、国連内でこの法的評価が承認され、同様の転換が起きるまでには多くの障害があった。その後筆者らは、数多くの国連人権会議に参加して、この問題を提起し続けた。現代奴隷制作業部会、差別防止少数者保護委員会(人権小委員会)、人権委員会には毎年参加した。そのほか、ウィーン世界人権会議(1993年)とその準備会、北京世界女性会議とその準備会など参加した関係国際会議を数えるだけでも気が遠くなるほどの数になった。〉
戸塚の著書『日本が知らない戦争責任 国連の人権活動と日本軍「慰安婦」問題』(現代人文社、1999年)から、彼の国連などでの活動を抜き出してみた。
92年2月 ジュネーブ 国連人権委員会
92年5月 ジュネーブ 差別防止少数者保護委員会現代奴隷制作業部会
92年8月 ジュネーブ 人権委員会差別防止少数者保護委員会(人権小委員会)
93年2月 ジュネーブ 人権委員会
93年5月 ジュネーブ 差別防止少数者保護委員会現代奴隷制作業部会
93年6月 ウィーン世界人権会議
93年8月 ジュネーブ 人権委員会差別防止少数者保護委員会(人権小委員会)
93年11月 平壌 日本の戦後処理問題に関するピョンヤン国際会議 韓国挺対協も2名出席
94年1月 ニューヨーク 女性差別撤廃委員会
94年2月 ジュネーブ 人権委員会
94年2月 挺対協らが慰安婦を奴隷化した日本軍関係者らを東京地検に告訴状提出に立ち会う 朴元淳弁護士(現ソウル市長)同行
94年4月から5月 ジュネーブ 現代奴隷制作業部会
94年8月 ジュネーブ 差別防止少数者保護委員会
95年2月 ジュネーブ 人権委員会
95年4月 ニューヨーク 国際女性の地位委員会 国連世界女性会議最終準備会
95年4月 ジュネーブ 現代奴隷制作業部会
95年8月 ジュネーブ 差別防止少数者保護委員会
95年9月 北京 国連世界女性会議
96年2月 ジュネーブ 人権委員会 クマラスワミ報告書公表
92年訪欧3回、93年訪欧5回、訪朝1回、94年訪欧3回、訪米1回、95年訪欧3回、訪米1回、訪中1回。
92年から95年の4年間で海外渡航18回、うち訪欧14回、訪米2回、訪朝1回、訪中1回。この費用を一体どこから工面したのだろうか。
(つづく)