花王不買運動は、洗剤を製造販売する人には商機だ。
そう考えた人はどれくらいいるだろう。
花王の洗剤は買わない。それなら、どこの製品なら買うのか。
こう考えたとき、人は、どのような製品なら自分は洗剤として良しとするのかに思い至る。
現在の自然な流れとしては、条件の上位に、環境にやさしいことが挙げられるはずだ。人が求めるそういう製品を作っているなら、売り上げを伸ばすチャンスと言える。
また、洗剤にそのような条件を求めない人にも、花王でないならこれを使えばいいと勧めて、新たな顧客を開拓することができる。
ところが、人や環境をないがしろにしないよう考えられた製品が、小売りの現場で目立たないのはなぜなのだろう。
大手企業との兼ね合いといった、業界的な理由はいくつか考えられるが、消費者の立場から見ると、もっと単純な理由も挙げられる。
「素敵ではない」から。素敵じゃないから買わない。
消費者も、合成洗剤ではない製品の理念はわかっているし、その製品が正しいことをしているのは確かにわかっている。しかし残念ながら、そこが素敵ではないのだ。
もし、合成洗剤は怖いからという理由で作られたものなら、良い製品なのはわかっても、その中にこもる神経質な強迫観念が伝染してしまいそうで、人は敬遠するだろう。
もし、こちらが善であちらが悪だ、という気配が全面に押し出されていたら、自分だけが絶対に正しいと主張しているものを、人は敬遠するだろう。
失礼ながら、シンプルを通り越して貧しげで痛々しいパッケージは、ビューティフルなものに惹かれるという、人としてあたりまえの在り方を否定しているかのようで、楽しみや幸せを我慢したり諦めろと、強いているようにすら見えてしまう。
華やかなパッケージでいい香りの外国の柔軟剤が売れるのは、消費者が、柔軟剤を買っているのではなく、身の回りにその製品が置いてあったり、その製品を使ったときの素敵な気分を買っているからだ。
外国の環境配慮洗剤は、主義主張がうるさく感じられない。環境を配慮することが当然の前提で、主張するまでもないというお国柄の場合もあるが。
シンプルなデザインでもスタイリッシュであったり、天然エッセンシャルオイルの香りがついていたりして、素敵な暮らしと環境への配慮が同時に叶う。
日本には、環境に配慮した洗剤を作る技術はあっても、日本人が頭でっかちすぎるのか、遊び心や素敵な気分が盛り込めないあたりが、残念だ。
暮らしの中で、毎日使う消耗品で人に幸せになってほしい、それを使うときに心地良いひとときを提供したい、というコンセプトから考え直したとき、日本の洗剤はもっと変わる。
小売りの現場も、人の暮らしも環境も、もっと変わる。
デザイン一つを考え直したところで、商業主義の「キタナイ世間」に迎合するわけではない。
その製品が売り上げを伸ばして世間に流通することが、すなわち人の健康や環境を守ることにつながるのなら、何の意地を張る理由があろう。
売り上げが伸びて製品が目立つほどに賛同者=購買者が増えるので、扱うものが石鹸なだけに、大手を尻目に市場を席巻できる。
世直しをしようとしていながら、自分が絶対正しいと主張していて素敵じゃなくなっている人の例は、次回。
2012年01月15日
花王不買運動を商機にする
posted by 金の龍星新社 at 01:03| 提案
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