2009年の衆院選で民主党に投票した人たちは、今、どれくらい責任を感じているだろう。
あの選挙は、自民党と民主党のどちらが好きかではなく、日本の今と将来のために、どちらがまだマシかを冷静に考えるものだった。
冷静な想像力がないと判断を間違える。
選んだものはしかたがないとしても、しかし、鳩山元総理にも菅前総理にも、長所はあった。
聞かれた内容において直接には答えないという政治家のテクニックのせいなのか、答弁がかみ合わなかったが。しかし一方で、言動に奇矯な場面が見られたので、その点わかりやすく、具体的に突っ込むことができて、降ろしやすかったからだ。
ところが、野田総理には突っ込みどころがない。突っ込みどころがないように、慎重に配慮しているのがわかる。
野田総理は、物腰が穏やかで、諭すような口調で丁重に言葉を扱うところに特徴がある。
相手を尊重して誠実に対応しているように見えるのだが、しかし、少し観察してみれば、実は最初から相手とコミュニケーションをとる気がないことがわかる。
そこには、相手とつながろうとする何のやりとりもない。これは国民にとってはアラートだ。
このような時、考えなければならないのは、国民の意志にはお構いなしに決められたシナリオがすでにあると、疑ってみることだ。なおかつ、そのシナリオが何なのか、発言の中から読み取れないということは、ほとんどの国民にとって不利な内容ということだろう。
野田総理自身がシナリオの内容を知らされておらず、本当に中身がないだけという場合もあるが、それはそれで、日本人は蚊帳の外、どこかで何かが進行しているのを疑ってみるべきだ。
不安を煽っているのではない。懐疑主義者の取り越し苦労と言うなかれ。
最悪の事態を冷静に想像することが、万一のために今動く余裕を生む。民主党の勝利以来、さまざまな局面で、日本人が思い知った教訓の一つである。
お互いに相手とつながること。
それを求める一例は、次回。
2012年01月17日
野田総理はここが危ない
posted by 金の龍星新社 at 09:57| 人物
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