映画「ALWAYS三丁目の夕日」は、三作目になり時代が新しくなってきたが、それでも、昭和の空気感に人は惹かれる。
特に、一作目の舞台となった時代には、その風景を知っている人も知らない人も、共通に胸にしみる雰囲気を感じるのではないだろうか。
だからといって、人は、昭和三十年代の不便な暮らしがしたいわけではない。
人が惹かれるのは、暮らしの中の人と人とのつながり方だ。
皆それぞれ違った個性の者同士が、互いに持ちつ持たれつ歩み寄りながら、共に時代を生きていこうとする。そのつながり方の空気感に、人は安堵のような、地に足のついた、生きていることの手応えを感じる。そして、この手応えを豊かさと呼ぶ。
大事なのは、つながり方だ。
近頃では、シェアハウスやコーポラティブハウスなどが周知されつつあるが、このような選択肢が機能するのも、つながり方が成功しているからだ。
暮らしの場を共有している者同士が、互いに持ちつ持たれつ歩み寄ることを模索しながら、人間的に共に成長しながら、社会は成り立つ。
だが、互いに、という感性を持ち合わせず、我だけが、という思考基準で行動する者が入り込むと、人の安全がおびやかされ、そのコミュニティは荒廃し崩壊の道を辿る。
現在のテクノロジーや快適さを享受しながら、昭和30年代あたりの気持ちで丁寧に暮らす。
そういう価値観を支持する人たちが、今後もっと増えるだろう。
時代の希求だ。日本の状況を考え、これから日本人はどうすべきなのかを考えると、そう言い切ってもいい。
つながり方を間違えると物事は成立せずに、いずれ崩壊するという例は、次回。
いや、今回。
国籍や民族、信教や習慣の違いに関わらず、人は、人と人というところでつながる。
互いに言葉が通じなくても、母国が敵同士であっても、人と人との絆が生まれることがあるのは、人間の自然な在り方がそういうものだからだ。
しかし、誰とでも絆を結べるわけではないし、そうしていいわけでもない。
人と人が好ましい意味でつながるのは、互いに持ちつ持たれつ歩み寄ることを知っている者同士が、出会った時だ。その時、国籍や民族、信教や習慣の違いに関わらず、多種多様な人と人とが結びつく。
人間の自然な在り方は、圧力で強制されたり、意図的に洗脳されて、不自然に歪められることがある。
フジテレビのバラエティ番組を始めとするプロパガンダに流されて、自分の知るその人そのものでなく、中国人韓国人というひとくくりのものに好感を持つようになったのなら、注意すべきだ。
アジアと言った時に、日本と中国韓国だけのことを指している政治家に流されて、習慣的にアジアをそう想定してしまっているのなら、考え直すべきだ。
日本の中で、日本人同士であっても、人とのつながりは常に模索されるべきことだが。
どのような人と共にこの時代を生きていきたいか考え、多種多様な人と人とが好ましい意味で結びついていくことが、今、時代から試されている。
楽しい話があれば、次回。
2012年01月18日
「ALWAYS三丁目の夕日」にかこつける
posted by 金の龍星新社 at 14:15| 生活
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