2012年01月20日

嫌韓のここが惜しい

今日、東京では雪が降っているそうだ。その中、花王デモがあった。
そういうことの好き嫌いや賛否うんぬんは抜きにして、花王デモは、戦法として合っている。賛否や傍観、我関せずであっても、この点を率直に認められる人はどれだけいるだろう。

一点でもニュートラルな視点を持つことができれば、物事の本質を見誤ることはない。物事の本質から逸れず、その上で個人の感性を意見に反映させるべきだ。個人の意見を単なる感情論に終わらせず、説得力のある、人に聞く耳を持たせる意見とするには、本質を見失ってはならない。

花王デモ、フジテレビデモの事の起こりは、俳優の高岡氏のツイッター上での発言とされている。
日本に入り込んだ韓国の意図を周知させ、韓国に蝕まれた部分を修正して日本を立ち直らせていこうとする人たちには、高岡氏の発言の本質は、閉塞を打破する突破口の一つとなるはずだった。

ところが、このチャンスは、日本のためを考えるという点で利害を共にしているはずの、嫌韓の人たちによって力を失ってしまう。

高岡氏の発言は、本質を逸れたところで、これに乗じて韓国の悪口を言おうとする人たちに利用された。嫌韓は高岡氏を、自分たちと一緒に韓国の悪口を言う人に祭り上げる形をとってしまったのだ。嫌韓は高岡氏を使って、高岡氏を通して、自分たちの鬱憤を晴らそうとしてしまった。

その結果、本質はどこへやら、感情的な衝突という、何も変えることができないままの不毛な争いが、これまで通り繰り返されることになった。
この動きを本筋に戻そうとする呼びかけもあった。が、しかし、そういう冷静な意見は、えてして感情的な熱狂にかき消されてしまうものだ。

一時的な盛り上がりが冷めてから、今さらながらの今、初めて客観的に物事を評価し、本来すべきだった行動がまだ有効かどうか、検討することができる。

嫌韓VS韓流贔屓、右翼的なものVSリベラルを装ったもの、というような、二極化の形が出来上がってしまうと、どちらでもなく、どちらをとりたいわけでもない世間の大多数の人は議論に寄りつかず、また、そこからはじき出される格好になる。メディアが日本と日本人のものでなくなっている現状では、これが更に日本と日本人を不利にする。

今の日本の危機が、ネットから出て世間に広まっていかないのは、このあたりにも原因があることを、日本を変えたい情報発信者は反省すべきだ。
世間の流れは、頭数で決まる。
情報が世間に広まらない理由を省みることから、やり直さなくては、まだ知らない人に情報を浸透させる有効な方法を見つけることはできない。

理性や理屈ではどうにもならないところで、本当にひとくくりに韓国と韓国人が嫌いならば、それは個人の事実だ。感性の異なる他人も、これがその人の事実だという点から逸れてはならない。
しかし、国籍や民族、信教や習慣の違いに関わらず、人と人とがつながる可能性をまだ諦めないのなら、何をすべきか。
日本を真っ当な状態に直そうと、厭わず身体を張ってくれる人たちが前線で踏ん張っている間に、視点を変えた場所に抜け出し、そこから現状を変えていく。そういう選択肢もある。
具体的な提案はいずれまた。

フジテレビの「サザエさん」に見られるような、涙ぐましいサブリミナルを見よ。
これはこれで、塞翁が馬と言えるかもしれない。
きっかけは、フジテレビ。自らそう宣言した通りである。

なぜなら、これほど意図的に韓流を押しつけられると、これまで気にもとめず韓流に親しんでいた人や、嫌韓への反発から韓国の肩を持っていた人も、操作に気づき、そのくどさを受け流せなくなるからだ。あまりにくど過ぎると、好きなものも好きでなくなる。それでも押しつけられると、嫌いになる。
このような嫌われ方をした場合、頭からはねつけられてもう二度と受け入れてもらえないか、先入観なしには付き合ってもらえないかの、どちらかだ。

人として真っ当に日本や日本人と関わっている韓国人は、危機感を持った方が良い。
日本と自国にニュートラルな視点を持っていないと、いざという時、ひとくくりに韓国、韓国人と見られ、自分が不利を被る。
真っ当に付き合える友人に韓国人がいる人は、互いの好ましいつながりのためにも、ニュートラルな視点あってこその情だということを忘れてはならない。

次回こそ、何か楽しい話を。

posted by 金の龍星新社 at 13:41| 生活 | 更新情報をチェックする