今さらながらの今、あらためて、一つ考えるべきことがある。
東北と長野県栄村以外の人たちは、動揺が喉元を過ぎた今、東日本大震災を過去の他人事にする前に、一度自分の胸に問うべきだ。
これは、この日本で、同胞の身の上に起こった出来事なのだ。我が事なのだ。
この感覚があったからこそ、あの時、皆の心は揺さぶられ、激しく感情的な反応をしたのではないのか。
福島第一原発の事故による、放射性物質への見えない恐怖が、地震と津波の事実と、原発をどうするかも含めた、これから日本が立ち上がるための行動の足枷になっているようにも見える。
原発が一般認識の場に悪役で登場したことで、日本人の悪い癖が出た。反射的に、自分は悪くない、あの人は悪いけれど自分は悪くないのだというような反応をしてしまう。日本人に限ったことではないが、日本人のよくない癖だ。
自分だけは泥をかぶりたくない、自分だけはイノセントなのだと証明したい、というような理由での言動が、日本と日本人の、今と将来を不利にしている。善か悪かという敵対をすると、それならどうすればいいかの答えが出ないからだ。
外部の目の入らない原発のずさんな管理体制も、この敵対関係が一因と考えられる面がある。
「原発反対」「それなら電気を使うな」という言い分をぶつけあうだけの関係で、互いに相手をシャットアウトしたところで、建設的な何が生まれるというのだろう。これまで、白黒をつけようとして解決がつかなかったのなら、その方法は間違っている。黒でも白でもなく、グレーゾーンに解決策を見出そうとはしないのだろうか。
長年に渡り原発停止の働きかけをし、電力会社の株を買って、「これからもずっと会社を応援する。だから、企業の技術と力で、原発に頼らない電気を供給してほしい」と、互いが共に歩む道を模索し続けている人たちもいる。
最初は放射性物質への恐怖から反原発・脱原発に加わるようになった人も、そろそろ、以前から持続可能な社会のために行動している人たちのことを知るなどして、自分の感情的理由だけでない判断力もついてくる頃だろう。
思い返してみてほしい。
被災地から避難してきた人への知識なき差別や、今さっきまで暮らしの場であったものの「がれき」の引き受け拒否、等々を。
原発に反対している自分が責任を負わされるのは迷惑だという主張もあるだろう。
しかし、日本人皆で、共に引き受けることなのだ。我が事なのだ。
今さらながらの今、多様な意見を持った皆が共に、あの日の、言葉にできないあの思いをもう一度自分の胸に問うことで、あらためて、共に日本を立ち上がらせていこう。
これからどうしていけばいいか、意見の一つとして、地震対策など公共事業で内需を拡大し、被災地を復興し、日本と日本人が力を持つことの大切さが、このような話などからもわかる。
参考:http://ameblo.jp/pegimin/entry-11073381728.html
しかし、共に日本を立ち上がらせていくところに、入らない日本人もいる。
いわゆる、スピリチュアルで寝惚けた人たちだ。仲間に入れなくていい。
何の言葉も出てこない、言葉もないあの時に、彼らは、「この出来事のスピリチュアル的な意味は何なのか」「スピリチュアル的にこの出来事をどう捉えたらいいか」を、まず最初に考えた。そして、それだけを延々と考え続けた。
日本がこの有様になって尚の、この自己陶酔。スピリチュアルにスピリットを抜き取られ、我欲だけが残ったか。
日本人の精神の世界に加わる資格はない。
恥を知れ。
この言葉は、彼らにこそふさわしい。
しかし、朗報だ。
2012年のどの日かに、彼らはアセンションするという。
人でない人たちが、更に上を目指して人間を超越し、次元を超越するらしい。
この次元から彼らが消えてしまうのだろうか。
だとしたらありがたい。その日が来るのが待ち遠しいではないか。
やっと楽しい話が書けた。
2012年01月26日
日本人はここが惜しい
posted by 金の龍星新社 at 10:25| 生活
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