大阪市の橋下市長のツイッターを観察すると、興味深い。
ツイッターの性質上、ついうっかり瞬間的に反応するツイートに、橋下氏という人そのものが露わになっている。
散見されるのは、相手に感情を叩きつけるだけの攻撃の仕方や、容易に言い負かせない相手や自分より立場の強い者への、へつらいだ。
また、氏の感情的な反応は、市民を背負っているからゆえの公的な正義からくるものではなく、自分個人の感情が害されたかくすぐられたかが基準となっている。市長という職務に就いている者ゆえの、市民へのシンパシーからではなく、個人の鬱屈した感情や、個人的な感情の快不快が、橋下氏の活動の原動力となっているのだろうか。
多かれ少なかれ、誰しもルサンチマンは抱えているものだ。
しかし、ルサンチマンを抱えながらも、それを昇華できるかどうかで、その人そのものが評価される。
橋下氏が、本当に社会を良く変えるために政界進出したのなら、最初の原動力が鬱屈による上昇志向であろうとも、ステージを上がるごとに余計な欲は削ぎ落とされ、より社会の為、より人の為という方向に目的意識が集中していくはずだ。
今のままでは、橋下氏のこれまでの努力は水の泡となる。
公明党と組んでメディアを制するところまではできたようだが、国を取ること能わず、もしかしたら現時点ですでに、あの事件当時のホリエモンと同じく、氏は自身の上昇志向の行く先を見失っているのかもしれない。
テレビで知名度好感度を上げれば、選挙に勝てる。
最初に役所を悪役にして叩けば、市民は溜飲が下がって喝采し、橋下氏が本当に市民の味方なのだと錯覚して、支持者が増える。
次から次へとスケープゴートを仮想の敵に仕立てれば、自分は悪くない、正義の側にいたい、という人間心理につけ込んで、権力者である自分の側に、人心を掌握できる。
批判者が出ても、弁が立ちそうにない相手を揃えさせて討論すれば、理路整然と聞こえる話し方の橋下氏が引き立ち、支持を得る。
給与四割カットとぶつけておいて、最終的にそれより低い数字で譲歩したように見せかければ、市長は話がわかると評価が上がる。
タイミングを見計らって涙を浮かべて見せれば、人は情にほだされ事実を追求しない。
橋下氏のテクニック、いや、これまでの努力が、自分が力を持つことで市政を動かし、市民のために世直しをするのが目的であるのなら、痛み入る。一本芯の通った揺るぎない信念、目的意識があってこそ、悪役に甘んじてでも世の中を動かそうということになるからだ。
しかし、個人的な感情の快不快で熱心に反応する橋下氏が、そのような気高い志を秘めているとは考えにくい。
現状では、橋下氏の政界進出が、本当には市民のためではなく、自分の権力欲や支配欲を満足させるのが目的だという説の方が、説得力を持つのは当然であろう。
現在、橋下氏を批判すると、それに対して、氏の支持者が橋下氏と同じく、相手に感情的な非難を浴びせるという現象が起こっている。
これは、民主党旋風が作り出された当時の再来だ。
当時、メディアに扇動されるがままに、勝ち馬に乗ったつもりで権力に酔いしれ、反対者を攻撃していた者たちの姿は、ナチスの親衛隊を想起させた。それと同じことが、今は橋下市長の周囲で起こっている。
選挙で選ばれたということは、市長は市民と契約を結んだことになる。
橋下市長には、自分の欲得でなく、一本筋の通ったビジョン実現のために、市民に自分を捧げる義務がある。
大阪市民には、橋下市長のつい隠しきれなかった尻を叩いて、本当に大阪市民のために働かせる義務がある。
大阪市民がどこに行くのか、それともどこに連れて行かれてしまうのか、大阪城や通天閣、道頓堀以外にも、大阪に見所が増えた。
2012年03月01日
橋下市長が頭隠して尻隠さずだという件
posted by 金の龍星新社 at 21:35| 人物
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