大河ドラマ「平清盛」

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第1回 そもそも平安時代って、どんな時代だったのですか?

殺人事件が起きても、知らんぷり。自分のことは、自分で守れ!

たとえば江戸時代。誰かが殺されたら、奉行所が動いて犯人を捕まえようとします。でも、平安時代には、一般の殺人事件を解決して、犯人に処罰を与えようという考えがなかった。
当時も検非違使(けびいし)という警察のような役人がいましたが、たとえ検非違使の目の前で殺人が行われても、検非違使は犯人を逮捕しようとはしません。殺された人の家族などが、お金を払って「犯人をどうか捕まえてください」とお願いしてやっと検非違使は動きます。 日本の中心だった京都の町でもそうですから、地方などはまさに無法の地。誰も自分のことは守ってくれない、自分のことは自分で守るという「自力救済」の世の中だったのです。

それはもう、生きること自体が大変だったのです。

鎌倉時代の初頭の日本の人口は約800万人。それから約400年後の関ヶ原の戦いのころは約1,000万人。つまり、400年かけて日本の人口は200万人しか増えていないことになります。しかしながら、農業生産力は2・3倍。多いところでは10倍にもなっている。農業技術が飛躍的に向上して、お米の生産量は増えているのに、人口はわずかしか増加していない。これは、病気、飢饉(ききん)、争いごとなどでどんどん人が死んでいったからです。生きること自体が困難な時代だったと言えると思います。
その証拠に、江戸時代に入って社会のシステムが整えられ、世の中が平和になると、100年間で人口は約2.5倍、2,500万人にふくれ上がります。
平安時代は、鎌倉・室町時代のさらに前ですから、もっと生きることが困難な時代だったはずです。地方の武士や庶民にとっては、「明日どうしよう?」、「10日後どうしよう?」というより、「今日どうやって生き抜こうか?」という時代でした。

『はあ?「源氏物語」って、何ですか?』

平安時代に紫式部によって書かれた「源氏物語」は、日本を代表する文学作品だと言われています。では、平安時代のどれくらいの人々が「源氏物語」を知っていたのか?きっと、ほとんどの人が知らなかったでしょうね。知っているのは、都にいる朝廷の人々や貴族を中心とする、ごく一部です。1,000人くらいではないでしょうか。
なぜなら、当時は字を読めない人がほとんどだったからです。武士でも都の武士は教養がありましたが、地方に行くと読み書きができない武士がほとんど。庶民にいたっては、皆無と言ってもいいでしょう。
「源氏物語」どころか、小説というもの自体を知らなかったはずです。

大切なのは、京の都だけ。地方なんかには行きたくない。

国の支配層である貴族たちにとって大切なのは、京都の町と、その周辺の近畿地方くらいまでです。ですから、たとえば関東地方で何が起こっても、あまり興味はありません。
では、どのようにして地方を治めていたかというと、京都から地方へ国司(こくし)を派遣していました。国司とは、今の県知事のようなもので、県庁にあたる国衙(こくが)が地方にあって、そこで地方を治め、税金を徴収していました。
平安時代の初期には実際に京都から国司が地方に行っていましたが、半ば、後期になると国司自ら地方に行くことなく、代理人を行かせるようになりました。京都の華やかな生活が身に付いた者にとって、地方に行くのは大きな苦痛だったのでしょう。

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