平安時代には、男が6歳になると、国衙(こくが・今の県庁のようなもの)から田畑を貸し与えられ、死んだらその土地をまた国衙に返却するという、中国からやって来た制度が採用されていました。「土地を貸す代わりに、税金を納めてくださいね」というものです。しかし、それはあくまで建て前で、ちゃんと機能していたのか、私は疑わしく思っています。
当時は土地を私有するということが認められていなかったのですが、その一方で、「農作に使えない土地を自分のお金で開墾し、農作をして税金を払うので、開墾した土地は自分にくださいね」という契約を国衙と結んでいた地方の有力者たちがいました。このように土地を開発して自分の土地として所有する人たちを開発領主と言います。地方には多くの開発領主(在地領主)がいました。
しかし、平安時代は強い者勝ちの世の中。いくら“一所懸命”に土地を開墾しても、武力で横取りされることがあります。それを国衙に訴えても何もしてくれません。ですから、開発領主たちは自分たちで武装して自らの土地や財産を守ろうとします。これが、地方の武士のはじまりと私は考えています。
平氏や源氏も、もともとは開発領主。そして、次々にほかの開発領主を家来化、組織化してのし上がっていったのです。
平安時代とはいえ、開発領主の誰もが勝手に武士になれるわけではありません。公的に認められなければ武士を名乗ることはできません。では、どうすれば認められるのか?それは、“大狩り”への参加が許されることが条件でした。
“大狩り”とは、地方へ赴任した国司(こくし・県知事のようなもの)が、狩りで捕らえた獲物をその地方の神さまに捧げて、感謝するという公的なセレモニーです。その“大狩り”に参加できて初めて武士と認められるのです。では、どうすれば、“大狩り”に参加できたのか?そのために求められたのは、獲物を追いかけることのできる熟練の馬術と、獲物を射止めることのできる弓の腕です。武士になるには、確かな馬術と弓の技術が必要だったのです。
逆に言えば、馬を買って養うだけの財力(当時の馬は今の高級車のようなものです)と、それを乗りこなす技術、そして確かな弓の技術があれば、武士になる条件をクリアできたのです。
武士といっても、京都にいる武士と、地方にいる武士には大きな違いがありました。
清盛のお父さんである忠盛のように、京都で貴族とともに朝廷に仕える武士は、教養もあり、礼儀作法も心得ていました。また、ドラマでも登場する北面武士(ほくめんのぶし)は、院御所の北側で待機し、上皇の身辺を護衛し、出かける際はお供をする武士のことで、都の武士の中でもエリート。清盛も北面武士に抜てきされます。
一方、地方の武士は、読み書きもできない者がほとんど。
同じ武士でも、京都と地方では、あらゆる面で大きな差がありました。
また、江戸時代の武士は、士農工商のトップとして世の中を統治しようとする思いがありましたが、平安時代の武士にはまだ、そのような考えはありませんでした。
おそらく清盛の時代くらいから「自分たち武士が、庶民を良い方向に導いていかなければならない」ということを学びはじめたのではないでしょうか。
平安時代の国のシステムでは、天皇がトップに君臨して、その下に公家(貴族)、武家、寺家(じけ=僧侶)という3つが並んでいます。寺家は、お経を読み国家が安らかであるようにお祈りするのが役目のお寺です。
国家システムでは、公家、武家、寺家が横並びに位置し、お互いの欠点を補いながら天皇を支えていくのですが、身分はまた別の話。武家は公家である貴族のずっと下に位置していました。
武家の中ではエリート中のエリートであった清盛のお父さんである忠盛も、最後まで一流貴族の仲間入りはさせてもらえませんでした。いくらお金と、教養があっても、武士は貴族からは見下された存在だったのです。
平安時代も戦国時代も、戦(いくさ)で最も使われたのは、長刀や弓です。武士は腰に刀はさしていますが、それは飾りに近い。実戦で使われることは、ほとんどなかったと言っていいでしょう。
剣術が発達し、刀で斬り合うようになるのは江戸時代に入ってからです。それまでの刀は、美術品の1つとして扱われていました。現在も中世の刀が多く残っているのは、美術品だったから。逆に実戦で使われた長刀や弓は、作られた数の割にはそれほど多く残ってはいません。