―法廷での闘争はどんな効果を挙げたのか。
「弁護士は弁護、接見のほか、被告の家族を支援することもあった。法廷では日本の法律にある人権条項や拷問禁止条項、刑事法手続きの弱点を活用した。法廷で許される限度内で大義を示した」
―法廷闘争は被告、弁護人、メディアの共同作品だといわれるが。
「抗日運動家は主に海外や地下で活動した。日本の官憲に逮捕されると、取り調べは密室で行われ、公判は1-2回で終了し、投獄される。大衆はそれを知るすべがない。弁護士が加わり、熱心に弁論を行えば、メディアがそれを報じる。1920年代の朝鮮日報をはじめとする民族紙は、先を争ってそれを伝え、それが朝鮮各地に伝わり、民衆はこんな独立運動があるのだと知り、勇気を得た。新聞は一種の実録の役割を果たした。朝鮮日報は左右合作をリードした民族運動団体「新幹会」の機関紙であり、主導的な役割を担った」
―植民地支配からの解放後、3人は別の道を歩んだ。許憲は北朝鮮で金日成(キム・イルソン)総合大学の総長となり、金炳魯は初代大法院長(最高裁長官に相当)、李仁は初代法務部(省に相当)長官となり、韓国の司法システムの根幹を樹立した。
「思想よりも環境に個人差が大きかったと思う。許憲は娘や娘婿が熱心な社会主義者で、故郷が咸鏡北道端川郡だったことから、連れていかれた」
―昨年、人権弁護士の洪性宇(ホン・ソンウ)氏に関する本を出版したのに続き、法律運動家にこだわる理由は。
「裁判記録は最も具体的で豊富な歴史の記録だ。全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)両元大統領の裁判でも速記録は2冊分しかないが、光州事件(1980年5月18日に光州で起こった民主化要求)の裁判記録は30万ページに及ぶ。暗黒期の法廷は、弾圧の形式的な手続きとなって、軽視される傾向があり、実際に強い者の道具として使われたこともあるが、記録に記載された主張は歴史的価値が非常に高い。しっかりと保存、活用していくことが次世代の務めだ」